第十一章 鏡の巨像(後編)
直後、僕たちのいる巨大な直方体の空間のなかに五つの人影が出現した。
「ソーラ、そろそろ僕も戦闘に復帰する。だいぶ魔法の力が戻った。感謝するよ」
「本当に、もういいのね」
彼女は僕の背中をささえていた右手を持ち上げ、僕のひざの裏あたりに添えていた左手を下に移動させた。そして僕を薄い青のゆかに立たせた。
五つの人影が攻撃を仕掛けてくる。
一人を除き、知っている顔。
まず真正面のゆかに立つのが、メアラ・サイフロスト先生の虚像。ダークブラウンのボブカットに紫のローブ、黄土色の革靴という格好。とんがり帽子は、かぶっていない。
「ラット・イン・ピース」
先生の虚像がそう口にすると、「ろくしょう」魔法が発動した。どこからともなく青緑色のさびが現れ、無数のねずみのかたちになって、広大なゆかを一瞬でうめつくした。
本物のソーラが現れる前に僕が黄巻紙でゆかに設置していた罠にも、ねずみたちは殺到した。罠はあっという間にかじられ、つぶされた。
僕たちは飛んだ。中央のオブジェを取り巻く、銀色の壁の上にのがれた。
そこに上がった瞬間、カーキ色のブーツをはいた足が横から回し蹴りを入れてきた。
ソーラは、さらに飛び上がってかわした。僕は、しゃがんで回避した。
ねずみ色のパーカーに黒のスキニーパンツ。赤いツイストパーマのハフル・フォート。
僕のルームメイトの虚像がブーツで壁の上を蹴り、こちらのふところに飛び込む。
そのまま左手でなぐろうとする。こぶしが僕のほおをかすめた。虚像による攻撃のため物理的なダメージはない。しかし、神経をじかにさわられたような気持ち悪さを覚える。
一方、ソーラがハフルの虚像の背後に移動し、こぶしをたたき込む体勢に入る。
が、ここでソーラの体が浮き上がった。彼女自身の意思によるものではない。結果として彼へのパンチは空振りに終わった。
彼女を強制的に浮かせた者は、白い天井付近にただよっていた。
全身が厚手の黒いローブにつつまれている。黒に近い紫の髪には無数のうねりが見られる。離れているため顔は判然としないが、あどけない見た目であることは確かだ。
ファカルオンの学園長の虚像が空間の上から僕たちを見下ろし、「空調魔法」でこの場の空気をあやつっていた。
浮き上がったソーラはすぐさま真横にワープし、魔法による気流をのがれた。
(僕は壁の上、彼女は空中。ともかく二対五の状態で分断されるのは、まずい。合流しないと)
だがハフルの虚像が僕の前に立ちふさがる。このままでは彼女のそばに行けない。
「ランス・イン・ピース」
そのときけだるげな声が下から響いた。サイフロスト先生の虚像から、青緑色のさび「ろくしょう」で出来た大きな槍が二本現れ、僕とソーラに向かって発射された。
僕は、よけようとした。
しかし右足が動かなかった。
先生の虚像が出した槍は真正面から僕の胸をつらぬいた。同時に、カーキ色のブーツの靴底が僕のこめかみに直撃した。
さけぶことさえ、できなかった。
実物の槍やキックが当たったわけではない。あくまで攻撃は虚像の一部。なにか奇妙なものが自分の肉体と骨をすり抜けていった感覚を味わった。精神が、かき乱される。
ソーラのほうも空中で槍をまともに受けていた。
彼女がよける直前、直径三メートルほどの薄桃色の球体が後ろから接近し、口をあけてソーラを飲み込んだのだ。
その球体の上にはソーラのルームメイト、キュリア・ゼルドルの虚像が立っていた。
金色のショートヘア。ダカルオン開始時のときとは異なり、髪を耳にかけておらず、寝ぐせもない。キュリアの父親のブランドロゴが入った、エメラルドグリーンを基調とするトレーニングウェアとスニーカーを身につけている。
キュリアの薄桃色の球体つまりググーに飲み込まれた状態で、ソーラは腹部に穂先をもらった。ググーが再び口をあけると、なかからソーラが落下した。
その先のゆかには先生の虚像の出した、ろくしょうのねずみたちが待ち構えている。
寒気が、とまらない。
(青巻紙)
反撃に転ずるため、僕は巻紙をひらこうとした。だが声が出ない。
息を切らして両足を動かす。壁の上を走り、ハフルの虚像から離れる。
逃げながら何回も発声を試みるも、赤巻紙と黄巻紙の名も唱えられない。それどころか、音が口から出てこない。
(これは閉鎖魔法か! 言葉がシャットアウトされている)
もっと早い段階で巻紙をひらいておくべきだったか。いや、そうしようとしても、どのみち対応されていただろう。
八つに分かれた銀色のオブジェの先端。そのうちの一つに立つ魔法使いを僕は見上げた。
ファカルオンを取り囲む白い壁を想起する。そこにほどこされた閉鎖魔法は、彼によるもの。砂の一粒から虫の一匹まで、自由にシャットアウトできる。
(アリアンが出現させた五人の虚像は、僕とソーラのルームメイトに学園長、そして僕の担当教員。とすれば、あと一人はソーラの担当教員と考えるのが自然か。うわさでしか聞いたことがないし研究室棟でも会ったことはなかったけれど、すさまじい威圧感)
ダークブルーの上下。ジャケットのえりは立っている。白い手袋をはめ、黒い革靴をはく。さらに深紅のマントをまとい、長い茶髪の上に黒いシルクハットをかぶった姿。
本人の顔を見たことはないが、アリアンによる虚像で間違いない。その瞳が赤くきらめいていたから。
彼だけではなく、ハフルの青い目もサイフロスト先生の緑の瞳もキュリアのうるんだ黒い瞳も、きらめく赤い瞳にすりかえられていた。
遠くにいて断言はできないものの、おそらく学園長の濁った紫の目も赤くなっている。
(なんにせよ、まずは閉鎖魔法をあやつる彼の虚像を攻略しないと巻紙魔法を使えない。とりあえず落ち着け、あれは偽者だ。本物なら、声じゃなくて呼吸自体に閉鎖を適用し、僕をとっくに窒息させている。または脳機能に閉鎖をかけて、すべての動きをとめるはず)
加えて、虚像の閉鎖魔法には制限があると思われる。さきほど右足が動かなかったのも閉鎖魔法の影響なのだろうが、今の僕は両足で走り、ハフルの虚像から逃げることができている。
つまりソーラの担当教員の虚像は同時に二つの閉鎖魔法を行使できないのではないか。現在は僕の声を奪うことに専念しているため、こちらの足をとめられないでいる。また、僕の足と声をまとめて封じてもいないので、全身を閉鎖の対象にすることも不可能と考えられる。
(彼は高所にいる。手が出せない。いや、どのみち巻紙が使用できない状態では攻撃不可。なら僕にできることは閉鎖魔法の対象をソーラではなく僕にひきつけておくこと。巻紙は声を出さないとひらけない。シルクハットの彼は優先的に僕をねらい、無力化を図るだろう)
とにかく虚像たちの攻撃を食らわないよう壁の上を駆ける。
円をえがくようにリング状の壁をほぼ一周したところで、僕はソーラを見つけた。
彼女は、ゆかのねずみをワープで押しのけながらオブジェに近づこうとしていた。第一に対策すべきは、オブジェの先端に立つ自分の担当教員の虚像であるとソーラも判断したのだろう。とはいえ、ろくしょうのねずみたちに邪魔され、なかなか進めない。
しかも、学園長の虚像の空調魔法によってソーラの体が押し戻されている。
周囲のねずみが何匹も風に飛ばされている様子を見れば、その気流の強さがわかる。ワープだけでは勢いを殺しきれない。
ここでハフルが壁の上を走って僕に近づいてくる。僕は逆方向に逃げる。
が、その先で障害物にぶつかった。薄桃色の大きなググー。キュリアの虚像がその上にいる。
(このググーの虚像、さっきソーラを飲み込んでいた。しかも彼女と共にろくしょうの槍を受けたのにダメージを負っていない。おそらく、単純な通過も破壊も不可能!)
壁の上で、キュリアとハフルの虚像が僕をはさみうちにする。
リング状の壁の外側のゆかには、ろくしょうのねずみが大量にいる。となれば、壁の内側に逃げるしかない。そこにねずみは入ってきていない。
しかしキュリアの虚像はその逃げ道をふさぐ位置に、一辺一メートルほどの黄色い立方体を出現させた。魔法を吸収する性質を持つ「レレー」のようだ。同時に、ハフルの虚像が内側から回し蹴りをおこなう。
僕は蹴りをわき腹に受け、よろめいた。そして壁の上から足を踏み外し、ねずみの群れでうめつくされた、ゆかに落ちた。
ろくしょうのねずみが体に群がる。
声も出せない状態で、心が直接かじられていくような痛みが全神経に走る。
(本当にかじられているわけじゃない。それでも)
のどと全身が焼け付く感覚を味わいながら、立ち上がって全身をばたつかせ、ねずみを振り払う。
(ねずみたちが実際の壁を通過していないということは、アリアンは虚像にも一定の物理的な制約を課しているということ。反面、直接なぐったりできないし、相手の体を素通りしたりもするから、非常に曖昧な性質だけれど)
かつてない痛みのなか、一方で僕は心を落ち着かせる。
(そもそも虚像たちが実体を完全に無視するなら、足場の上に立つことすらなく、すり抜けているはず。学園長の虚像が生じさせている風は、とくに実体に近い。でなければソーラを押し戻せていないだろう。やつはイメージを固めるためにあえて制約を設けたんだ)
実際に虚像のねずみたちは僕の動きを受け、振り落とされる。
とはいえ足をつたい、次から次へとのぼってくる群れの数は尋常ではない。体をばたつかせるだけでは、とても対処しきれない。
おまけにキュリアとハフルの虚像も無視できない。二人は僕をゆかに落としたあと、壁の上でしばらく戦況を静観していた――わけではなかった。
ハフルの虚像は、全身を動かす僕の頭に容赦なく蹴りを入れる。
ただし今までよりも威力は弱い。僕をかじっているねずみが落ちないくらいの衝撃で蹴っている。また、ねずみにふれないようにしつつ、宙を飛び続けている。
どうやら先生の虚像が出したねずみは制御不能らしい。うかつに僕を追撃しようとすれば、味方であっても群れに攻撃されてしまうようだ。
キュリアの虚像のほうはググーの上に立ったまま、一辺一メートルのレレーのかどを僕に当て続ける。まだねずみが群がっていない箇所をねらってくる。レレーの一部が体を通過するたび、肉そのものをえぐり取られるような苦痛が襲う。
僕は二人から逃げるかたちで、ゆかを走った。ろくしょうのねずみを踏んで、何度も転んだ。とにかく二人から離れようとした。
もちろんキュリアとハフルの虚像は僕を追ってくる。ふらふらになりながら、僕は攻撃を受け続け、その先の人影を見た。
そこにはサイフロスト先生の虚像が立っており、ソーラに攻撃を加え続けていた。
体にたかる群れを振り払うようにして、僕はねずみを先生の虚像に向かって飛ばした。
しかし先生の虚像は攻撃に気付き、僕のほうを向いて唱える。
「ドール・イン・ピース」
二メートルほどの、ろくしょうの人形を自分の隣に作って、飛んでくるねずみを防いだ。
このチャンスをソーラは見のがさなかった。ろくしょう魔法の攻撃の手が緩んだ刹那、彼女はワープを連続させて瞬時に移動し、先生の虚像の真後ろでパンチの体勢に入った。
が、ソーラの体はそのまま、ゆかとねずみの上に、たたきつけられた。
学園長の虚像が「空調魔法」の出力を強めたのだ。これまではサイフロスト先生の虚像の攻撃を阻害しない程度に干渉していたが、ソーラに背後から肉迫された先生の虚像の危機を見て取って、味方を助けるべく強めの風を送り込んだというわけだ。
すぐそばにいる先生の虚像は倒れていない。強風はピンポイントでソーラの上に落ちたらしい。僕はそれを確認しつつ、もたれかかるように、ろくしょうの人形に身をかたむけた。
そして次の瞬間。
僕は飛んだ。
落ちてきた強風を、ソーラが僕の下にワープさせたのだ。真下ではなく、やや斜め下から宙に押し出す。
風の方向は逆転しており、下から上に向かって流れる。
本人は自身に落ちる風の勢いをすべて殺したわけではない。ソーラはまだ、ゆかにたたきつけられた状態。それでも彼女は、強風の一部だけでも、こちらに渡してくれたのだ。
その威力は絶大。僕は斜め上に猛スピードで飛んでいった。
一瞬の出来事だった。ほかの虚像たちは僕の突然の飛行をはばめなかった。
飛ばされた方向は、高さ二十メートルにあるオブジェの先端の少し上。シルクハットをかぶった虚像が、八つに分かれた先端の一つに立って、僕を見上げる。
(虚像のねずみは、虚像の風に飛ばされていた。先生の虚像もねずみを防いだ。つまり虚像を使って虚像を攻撃することは可能。当然こんなのじゃ致命傷にならない。でも一瞬でいい! ひるませて閉鎖魔法を解除させる)
手足を思いきり振り下ろし、そこにしがみついていたねずみの群れを彼の頭めがけて落とす。
しかし群れは彼の虚像に到達することなく風にあおられた。
(空調魔法で対応されたか! 今度はこっちが落とされる)
僕は首を回し、天井付近にただよう学園長の虚像を見た。だがその黒いローブにつつまれた全身が、そのとき急に上昇し、天井にたたきつけられた。
ソーラは強風を僕だけでなく学園長の虚像に向けてもワープさせていたらしい。
顔をシルクハットの彼に向けなおし、僕はオブジェの先端の一つにおりた。ねじれて倒れた先端は、じゅうぶんな足場だった。
ここで、ゆかのほうからハフルとキュリアの虚像が全速力でこちらに向かってきた。
先生の虚像もオブジェの先端をねらって攻撃するそぶりを見せたが、これに関しては、空調魔法から自由になったソーラに邪魔されていた。
急いで僕は先端から先端へと飛び移り、閉鎖魔法の彼の虚像に追い着いた。
すかさず、ねずみのまとわりついた足で虚像めがけてキックする。
このタイミングで僕の足がとまった。
(閉鎖魔法の対象が声から足に移った!)
この機をのがさず唱える。
「青巻紙黄巻紙」
腰のベルトにくくりつけていた二色の巻紙がひらき、僕のそばを浮遊する。
(アリアン。僕はソーラにかかえられているとき、かなり消耗していた。まだ僕の魔法の力は、じゅうぶんに回復していないと踏んだか。だから油断して虚像に閉鎖魔法の隙を作らせた。でもあのとき、ソーラは僕の体から疲労物質や老廃物をワープさせていた。今の僕は、元気だよ)
これまでさんざんやられておいて、その言い草はさすがに強がりだったと思う。しかし自分を鼓舞することで、今までの苦痛が多少なりとも飛んでいく感じがした。
僕は同時に右手と左手を巻紙の文字に落とす。
(閉鎖魔法は片方にしか適用できない。青巻紙の右手と黄巻紙の左手どちらを封じる)
だが僕の手は両方とも停止しなかった。
違和感を覚えつつも、逃げる彼の虚像を僕は青巻紙の水で砲撃した。その水に僕は黄巻紙の魔法を重ねたつもりだった。が、当たった彼は少しよろめく程度。ダメージを通せていない。
(しまった! 黄巻紙自体に閉鎖をかけられた。僕のそばを浮遊し続けてはいるけど、なぞっても反応がない)
虚像への明確な対抗手段である「混線」の文字列が封じられた。
(ハフルの虚像もせまっている。ほかの手で切り抜けるしかない!)
青巻紙で僕は飛行し、閉鎖魔法の使い手に近づく。そのうえで「砲撃」の「反動」を利用し、一気に移動。彼の虚像に接触した。
(黄巻紙を封じたから安心と思ったら大間違いだ)
右手の巻紙を素早く切り替える。
「青巻紙・封。赤巻紙」
そして赤巻紙の「指定」「火薬」「装填」をなぞり、僕は爆弾を用意した。
まだ僕の体をかじっていた、虚像の「ろくしょう」ねずみたちを爆弾にしたのだ。
(実体に近いググーみたいなもの。その対象をしっかりイメージすれば魔法は有効なはず)
僕は爆弾の群れを全身にたからせたまま、間髪をいれず目の前の、閉鎖魔法の使い手の虚像のふところに入り、しがみつくように手足を相手の背後に回り込ませ、僕の体にまとわりつく「ろくしょう」の群れすべてに「起爆」を発動した。
シルクハットをかぶっていた虚像は爆発をもろに受け、消え失せた。
一方、僕は無事だった。「起爆」の前に赤巻紙の「防火」をなぞり、巻紙と僕自身を守っていたからである。
そこで休む間もなく、カーキ色のブーツが僕を襲った。だが僕は直前で赤巻紙をとじていた。再び青巻紙をひらき、飛行によって回避した。ついで黄巻紙をなぞり、軽く反撃する。これは攻撃や牽制ではなく、閉鎖魔法が解除されたことを確かめるための行動である。
(よし、電流の当たったハフルの虚像がちょっとにぶった。さっきの人が消えたおかげで閉鎖魔法の効力は切れたと見ていい。ともあれアリアン、あなたは僕の学友をなめすぎだ)
赤いツイストパーマの虚像を、僕は見つめる。
(ブーツで宙を蹴って近づくにしても、本物のスピードにまったく追い着いていない。それに、ただ空中を蹴るばかりで衝撃波の一つさえ飛ばさない)
彼の虚像の斜め上に移動し、僕は「砲撃」を使用した。
とはいえ黄巻紙の「混線」は乗せていない。青巻紙の砲撃に魔法の力をつぎ込むためだ。「推進」を何度もなぞり、高出力の水を撃ち出した。
ここで、僕たちのもとに追い着いたキュリアの黄色いレレーが、ハフルの虚像の前でガードの体勢をとった。しかし僕のねらいは最初からハフルの虚像ではなく、その下にたたずむ高さ二十メートルのオブジェそのものだ。
水の砲撃はレレーのそばを通過し、オブジェの横腹に命中した。そこに「反動」を加える。
結果、さらに斜め上へと僕は高速で上昇する。
そこから百メートル強の高さにある白い天井に到達し、黒いローブを全身にまとった学園長の虚像と対面した。その顔は、やはりあどけなく、赤い瞳を持っていた。
(閉鎖魔法の次に対処すべきは空調魔法。学園長の虚像は天井付近にいてこちらの攻撃が当たりにくい。また、俯瞰しながら状況に対応してくる厄介な存在。ここで倒す)
ただし、さきほどソーラに強風を返されて天井にたたきつけられたその虚像も、すでに体勢を立て直している。
僕は「膨張」させた「水」を「滞空」で浮かせ、さらに「分裂」を重ねた。
それを「誘導」し、学園長の虚像への「包囲」を試みた。前後左右上下から立体的に囲み、そのうえで「雷撃」と「混線」を乗せた「砲撃」をたたき込むつもりだった。
が、本物でないとはいえ空調魔法は甘くなかった。分裂させた水は「推進」をかけても簡単に押し戻され、その形状を保つことができなかった。
(ぎりぎりまで「弱化」を発動しなくても、これか)
このままだと押し切られる。
(一対一なら、そうだろう)
天井まで、新たに近づいてくる人影があった。
ハフルとキュリアの虚像である。だが前触れなく二つの虚像は後退し、代わりに「彼女」が前に出た。
空調魔法の攻撃が僕に向かったところで、ゆかに立って戦っていたソーラを縛るものは、ろくしょう魔法だけになっていた。しかし本物のサイフロスト先生ならいざ知らず、虚像一つだけで彼女の動きを封じられるわけがない。
(全体を観察すれば今は二対四の状況。この劣勢を逆転させるために、現状は敵の数を減らすことが最優先。ソーラはサイフロスト先生の虚像と一対一で戦うよりも先に、僕と合流して二対一で学園長の虚像を落とすべきと判断したんだ)
しかしここで、サイフロスト先生の虚像の近くに青緑色の槍のようなものが出現し、それが上に向けて発射されるのを僕は見た。ソーラではなく、僕のほうに向かっている。
(また槍? フリーになった先生の虚像が僕をねらったか。うかつにソーラを攻撃すればワープで逆用されるかもしれないから。だけどいくらスピードを出しても距離があれば当たらない)
それはハフルとキュリアの虚像のそばを通り抜け、さらにはソーラさえ追い越すほどの速さだった。
形状が僕の目に、はっきりと映った。それは槍ではなかった。ただの棒だった。ろくしょうの棒が回転しながら僕にせまっていた。
(いったん離れる)
が、後退しようとしたとき、僕は学園長の虚像に吸い寄せられ、元の場所に戻された。
(空調魔法への警戒がおろそかになっていた)
回転する棒が直撃する。棒に腹と胸をえぐられながら、僕は天井に押し付けられ、絶え間なく棒にたたかれ続けた。
棒自体も虚像だから、実際に僕を天井にとどめているのは空調魔法のほうだが。
太さ十センチ、長さ百五十センチほどの棒が、あらゆる方向から体を切り刻むように僕をたたく。一発一発が激しい痛みを生じさせた。巻紙の文字をなぞるどころではない。一秒ごとに三十発くらい攻撃を食らっているような気がする。
今は戦局を観察することしかできない。
ソーラはすでに天井付近に移動し、学園長の虚像に肉迫していた。風で押し戻されそうになっても、その向かい風を自身の背後にワープさせ、追い風に変換する。
ゆかに立って戦っていたときは先生の虚像を警戒する必要もあったため、その自在な動きができなかったのだろう。現在は一対一の状況なので空調魔法にも適切に対応できている。
相手の動きに合わせて移動し、常に真下の位置をキープする。そうすることで、逃げ道をつぶしているのだ。徐々に彼女は高度を上げ、虚像を天井すれすれの位置に追い込んでいく。
そしてついにソーラは学園長の虚像のふところに飛び込む。右のこぶしを突き上げる。それはあごに当たったものの、虚像を消すには至らなかった。
そのままソーラは右手を上に持っていき、真上の天井にコツンとふれた。
すると白い天井が四角のかたちに、くぼんだ。
同時に、そのくぼみの下に白い立方体が出現する。一辺が二メートルほどの立方体である。それがちょうど学園長の虚像が浮いていた空間に現れ、虚像自体をなかに封じ込めた。
空調魔法が解除されたことにより、僕は虚像の棒から脱出した。間髪をいれず青巻紙と黄巻紙の魔法を複合し、「弱化」した「水」による「砲撃」と「混線」を乗せた「雷撃」を立方体に向けて飛ばした。
攻撃が当たる間際になってソーラは立方体を分解。即座にその場から離れる。
再び空間に姿をさらした学園長の虚像は防御の姿勢をとるひまもなく、真正面から「砲撃」と「雷撃」を受け、消滅した。
(さっきソーラがワープ魔法を乗せたパンチをたたき込んでいたから決定打になった)
回転する棒をよけながら、僕は彼女のそばに移動する。
(また、学園長の虚像は、ほかの虚像よりも実体に近かった。僕たちを風で押し込んだし、天井にも、たたきつけられた。それを考慮してソーラは天井の一部分をワープさせ、虚像をなかに捕獲した。実体に近い虚像なら、一瞬であっても動きをとめることができると見越して)
彼女も僕のほうに近寄る。そして僕の周辺で回り続けていた棒にふれ、それを霧散させた。
合流した僕たちは、下を見る。
ハフルとキュリアの虚像がすぐ近くまで来ていた。しかも視界を邪魔しない程度に、青緑色の破片が二人の周りをただよっている。おそらくシールドのようなものだ。ゆかに立っているサイフロスト先生の虚像が、宙に浮く味方を援護しているらしい。
「いったん消えましょう」
ここで、ソーラが後ろから僕の首に手を回し、「発」と唱えた。
次の瞬間、僕の体と服と巻紙が半透明になった。ソーラが僕に対して透過魔法を発動させたようだ。
うっすらとした自分の輪郭の向こうに、虚像たちの姿や銀色のオブジェ、薄い青のゆかが透けていた。僕にしがみつく彼女の手も灰色のチュニックの袖も、なかば透過して見える。
僕たちのもとに向かっていた虚像たちはぴたりと停止し、首と瞳をあちこちに動かす。どうやら、こちらの姿を見失った様子。
(思えば透明にしてもらうのは初めてだ。自分の体について向こうの視界のなかでは完全に透明になり、姿を消した本人の目からは半透明に映るのか。デリングリンのときは存在自体の消滅だったせいで自分が消えたことにも気付けなかったけれど、今の状態なら正常に動ける)
僕はソーラの体重を感じながら、青巻紙ですぐに空中を移動した。音や風が出ないよう、できる限りゆっくりと。
彼女の意図はわかる。互いに透明になったうえで、僕に飛行を任せているのだ。こちらの首に手を回しているのは、彼女自身が振り落とされないようにするためだ。
今の僕の仕事は、空中を移動すること。巻紙の文字も、ぼんやりと目で追える。字をなぞったときに生じる光も透明になっているらしく、相手に気付かれる心配はなさそうだ。とはいえ巻紙が僕から離れればその透明化が解除されると思われるので、慎重に指をふれさせておく。
周辺を闇雲に攻撃するハフルの虚像。
ググーの上に立ち、あたりをきょろきょろと見回すキュリアの虚像。
それと、ゆかにいる先生の虚像の動きに注意しながら、徐々に下降していく。
(残った三つの虚像のなかで一番にねらうべきは、サイフロスト先生の虚像。ソーラが僕ごと透明になったのも、先生の虚像へと確実に近づくため。キュリアとハフルの虚像を取り巻くシールドをはがす意味でも、最優先の攻撃対象)
今、先生の虚像はソーラのワープ魔法を警戒しているのか不用意に攻撃してこない。その状態にある虚像が出した、ろくしょうの破片のシールド。当然、ワープ魔法への対策をしていないわけがない。おそらく真っ向からソーラがワープを試みればカウンターが発動する。
少しずつ僕は浮かぶ高度を下げていき、オブジェの先端付近を過ぎた。
(ゆかまで、あと二十メートルを切った)
しかしこのとき、天井近くにいたハフルとキュリアの虚像も降下してきた。僕たちが見つからないので、いったん仲間との合流を優先したのだろう。そして、ねずみでうめつくされたゆかの上から、けだるげな声が聞こえた。先生の虚像が、つぶやいたのだ。
「ミスト・イン・ピース」
すると、先生のそばに残っていた二メートルのさびの人形が霧のように分裂し、あたりに散らばった。青緑色の細かい粒が空気中に舞う。
(空間全体にろくしょうを広げて僕たちをさがすつもりか)
ここで僕は「下降」だけでなく「推進」もなぞって、ひと息にゆかまで移動した。音も風も発生してしまうが、さびを広げられたら、どのみち見つかる。
ねずみの群れに当たらない高度を維持しながら、位置を特定されないよう左右への移動も交ぜつつ、サイフロスト先生の虚像に接近する。
僕の飛行に合わせ、わずかにねずみたちが浮く。近づかれていることに気付いた先生の虚像は、ろくしょうの霧を自身の周囲に集め、球形のバリアを作った。
この瞬間、僕は透明状態を捨てて姿を現し、ゆかに足をつけた。ねずみが群がってくるが、もはやそんなことを気にしている場合ではない。
「青巻紙・封。赤巻紙」
ひらきっぱなしだった黄巻紙の「混線」「帯電」と、赤巻紙の「火薬」「装填」「放射」「起爆」を複合させ、先生の虚像に爆弾を撃ち込み続ける。虚像は球形のバリアを円形のシールドに変え、厚みを増した状態で攻撃を防いできた。
虚像のねずみたちが爆発に巻き込まれ、消えていく。あたりに爆風と爆音が広がる。
「アロン、もういいわよ!」
彼女の声を聞いた僕は、巻紙による攻撃をやめた。
爆風が晴れた向こう側で、円形のシールドがくずれていた。僕が突き破ったのではない。巻紙魔法の攻撃のあいだ、僕から離れたソーラが透明のまま相手の背後に回り込み、虚像に奇襲をかけたのだ。
僕が赤巻紙で派手な攻撃を仕掛けたのは、球形のバリアを円形のシールドに変化させ、虚像を後ろから攻撃できる状態にするため。かつ、爆風と爆音を周囲に広げることで、ねずみのはびこるゆかを走るソーラの様子を、相手にさとらせないようにしていた。
ソーラは透明のまま先生の虚像の肩にふれ、透過魔法を発動させる。
銀髪時の彼女が透過させられるのは、光だけではないらしい。魔法の力そのものを透過させることもできるようだ。アリアンの魔法の力が先生の虚像を素通りするように仕向け、虚像の稼働するエネルギー自体の供給を絶ったのだ。
先生の虚像はシールドを維持できず、ふるえた状態で立ちつくしていた。
「発」
黒髪になった彼女は姿を見せ、虚像を軽くなでた。これでサイフロスト先生の虚像も消えた。
それにともない、ゆかをうめつくしていた、ろくしょうのねずみたちも霧のように散っていなくなった。
「やっと二対二ね。でも互角とは言えない。そう思わない? アロン」
「ああ、思う」
僕は頭上を見た。そこではハフルの虚像がカーキ色のブーツを振りかざした状態で、しびれていた。先生の虚像に対する攻撃を終えたあと、僕は黄巻紙の罠を張りなおしていた。
ハフルの虚像は僕の姿を眼下に捉えた瞬間、急速に降下したらしい。しかし、これで不意打ちのつもりだったのだろうか。
「本物がこんなのにひっかかるわけがない」
赤巻紙を青巻紙に切り替え、僕は彼の虚像を「弱化」した水でつつみ、「混線」付きの雷撃でつらぬいた。念のため二回、撃ち込んだ。
彼の虚像の少し上にいたキュリアの虚像が黄色い立方体のレレーを飛ばして僕の攻撃を防ごうとしたが、そこにソーラが立ちはだかり、手でふれてレレーを消滅させた。
彼女は瞬時に空中を移動し、キュリアの虚像との間合いをつめた。その虚像が乗っている薄桃色の球体に手をつっこみ、破裂させた。
「部分ワープでスムーズに解体できるよう、飲み込まれたときに構造はつかんでいたわ。わたしのルームメイトのググーなら、ちゃんと対応していたでしょうね」
落下するキュリアの虚像にソーラは優しくだきついた。
相手は虚像なので本当に体をふれ合わせているわけではないが、だきつかれてから十秒ほど経過して、虚像は霧となって消えた。
ハフルの虚像も僕が倒した。つまりアリアンの出した五体の虚像は全員攻略されたことになる。
「アリアン・クラレス!」
ソーラは片ひざを立て、ゆかに着地し、あらん限りの声でさけんだ。
「まどろっこしい時間かせぎまでして出した虚像たちも、ことごとく倒された。そりゃそうよね、しょせんは鏡に映った虚像。本物の強さにまるで追い着いてない。連携も足りていなかった。そろそろ観念して返すもの返しなさい。逃げられないんでしょ、あなた。この地下から」
「アロンくん」
低く、かすれた声がした。しかしそれは、落ち着きなく息を荒らげていた。
新たな虚像が、僕とソーラの近くに現れ、ゆかの上に立つ。
寮長クーゼナス・ジェイの姿のアリアンだ。白髪交じりの金髪が乱れている。燕尾服のかたちは、くずれている。丸めがねをかけていない顔で渋面を作りつつ、赤い瞳を僕に向ける。
その目がきらめき、ぎらつき、血走る。
「虹巻紙を返してあげよう」
「どういうことです」
僕は巻紙を両手に構えたまま返事をする。
「今まで、ずっとあなたは、それをこばんでいたじゃありませんか。だから学園長たちの虚像まで作って戦ったはずです。ソーラの言うとおり、本当に観念したということですか」
「かもしれないね。君が学園にわたしのことを黙っていてくれるなら、という条件付きだが」
アリアンの虚像が、首を回す。
僕と話しながら彼は、様子見をしているソーラのほうにもしばしば視線をやっていた。
「そして帰ってくれないか。うちの娘を置いて、一人で。地上のカディナ砂漠まで安全に送り届けることを約束するから」
「彼女にも、お母さんの遺髪を返してあげてください」
「できない。本音を言えば虹巻紙も渡したくないが、このまま君たちと戦えば両方とも取り返されるおそれが出てきた。はかりにかければ、虹巻紙よりも遺髪のほうがわたしにとって重い。だから断腸の思いで虹巻紙を手放し、アロンくんには帰ってもらおうと考えたのさ」
「そうして一人になったソーラを始末し、あなたは遺髪を持ち続けると?」
「いい話じゃないか。君の目的はお父さんの形見の虹巻紙を取り返すことだろう? それが成就すれば君がソーラと協力する理由もないはずだ。なにも彼女を倒せと頼んでいるんじゃない。ソーラはわたしが証拠を残さず始末するから、『仲間を見捨てた』と君が責められる心配は」
「アリアン」
僕は黄巻紙の文字をなぞり、雷撃を彼の虚像に発射した。
目を丸くしながら霧散を始めた虚像に、小さな声で言う。
「僕があなたの提案に乗るわけがないと本当はわかっていたんじゃありませんか」
「娘と君は、そういう関係になったのかね」
「それは僕も知りませんけど、あなたの提案にそのまま乗れば」
アリアンの赤い瞳をじっと見て、僕は満面に笑みを作った。
「なんか、負けた気がするんですよ」
「そうか、交渉決裂というやつか。君は本当に、いい寮生、いや、『いい魔法使い』だ」
消えかけていた彼の虚像がここで全身をふるわせ、次の瞬間、破裂した。
金髪も燕尾服も内部から溶け、血のような赤がきらめきながら周囲のゆかに飛び散った。赤は薄い青のゆかをすべって、僕とソーラの足下も染める。
「君たちは忘れているんじゃないか。わたしは『鏡の巨像』と呼ばれる魔法使いでもある」
赤色は円形に広がった。瞳のかたちをとって僕たちをにらみ、グウウとうなり声をあげた。
直径二十メートルほどのその円から、巨大なものがせり上がってくる。
血の色をした無臭の液体をボトボト落としながら、「それ」が頭頂部を見せた。
アリアンは、赤い円から「巨像」を呼び出そうとしているらしい。おそらく人の似姿だ。頭の上部を見る限り、顔の幅は七メートル強。像の肩幅が円の直径と同じ二十メートルとすると、最終的な高さは八十五メートルくらいか。
彼は「それ」を使うことを想定して、大きな空間に僕たちをおびき入れたのだ。
アリアンの魔法によるものだから実体ではなく虚像。
果たしてその全貌は。
「いや指をくわえて、『これ』が出てくるのを悠長に待つやつが、どこにいんのよ」
ソーラはワープして移動し、小さな丘のように突き出た頭頂部にパンプスの底を当てた。
頭頂部はきれいな半球状であり、髪の毛やツノなどの装飾は見当たらない。また、赤い液体をかぶっているためわかりにくいが、巨像の頭皮は白く、つるつるのようだ。
「親近感、湧くわね」
このとき彼女は、今まで僕の見たなかで、もっとも微妙な表情をしていたと思う。
困っているのか喜んでいるのか、嬉しいのか悲しいのか、判断のつかない顔と声。
ともかく僕も、巨像が全身を現すのを黙ってながめているわけにはいかない。
頭頂部に手の平をすべらせ、そこを部分ワープさせて解体していくソーラ。彼女に当たらないようにしながら、僕も青巻紙と黄巻紙で攻撃を加える。せり上がってきた側頭部を耳ごとけずり取る。
反対側にも回り込み、左右両方の側頭部を落とす。移動の途中、顔面も破壊した。巨像の顔は起伏すらない、のっぺらぼう。僕は額からあごまでを残らず霧散させた。
一方、ソーラは頭頂部を全壊させたあと後頭部も満遍なく丁寧になで、原形を確実に崩壊させつつあった。
こうして僕たちは短時間で巨像の頭をすべて消滅させた。すでに赤い円からせり上がっていた左右の肩に、僕とソーラはそれぞれでねらいを定める。
が、ここで巨像の上昇スピードが上がった。肩から勢いよく落ちる赤い液体を僕たちは回避し、いったん巨像と距離をとった。
(アリアンも指をくわえているわけじゃないということか)
肩から胸、ひじ、腹部、指先、太もも、ふくらはぎ、足先をひと息に赤い円から引き上げた巨像は、一歩だけ踏み出し、薄い青のゆかに立った。
左右の足を横にひらいて、少しひざを曲げた格好である。
ひじと手の指の関節も、微妙に湾曲している。
全身をおおっていた無臭の赤い液体すべてが音を立てて落ちる。
巨像の白い素肌が輝き始める。
それは、まるで巨大な「せっこう」の像。ほどよく引き締まった、中性的な肉体。
ひざから下の長さだけで二十メートルを超えている。隣のオブジェが小さく見える。
僕たちに頭を破壊されたため首から上はないが、それでも七十メートル以上はある巨体が、顔も目もない状態で僕たちを「見下ろして」いた。
さきほどまで頭のあった部分から、低い声がとどろく。
「踏みつぶす。ひねりつぶす。君たちの心、そのものを」
「やれるというなら、やりなさい」
ソーラが顔を上げ、体を後方にそらし、両腕を垂らした状態で、巨像の首の上を見る。
「そもそも巨像を呼び出す赤い円自体を分解しなかったのは、今度こそあなたをたたきのめすためよ。あと、虚像魔法がググーの形状変化とすれば、巨像の虚像もその応用なんでしょ」
巨像は、さらに足を踏み出し、実体でないにもかかわらず地下空間全体を揺らす。それでも彼女は姿勢をくずさず言葉を続ける。
「ググーはグーと唱えれば圧縮された状態を解除し、本来の大きさになる。その性質を利用し、あなたは虚像として使ったググーを一挙に大きくして巨像に仕立て上げたってわけ。お金持ちじゃないとできない芸当だけど」
赤い円から巨像が現れる前に聞こえたグウウという音。あれは単なるうなり声ではなく、ググーを大きくするときに唱える「グー」という言葉そのものだったようだ。
「巨像の虚像は、その大きさゆえに、かえって魔法の力が分散する。だから若いころに初めて出したあとも、以降は、ほとんど巨像を使わなかったのよね。『鏡の巨像』という二つ名が、しょせんは見かけ倒しだってばれるのが怖くて」
言い終わるや、ソーラは巨像に背を向け、僕の手を引いて走り始めた。
「あのサイズだと透過を使って魔法の力の供給を絶つことも難しいわね。そこで」
小さな声で、口元を隠しながら僕に耳打ちする。
彼女が説明したのは、巨像を倒す作戦。
打ち合わせをしつつ僕たちは、オブジェを囲むリング状の壁に沿って走り、向こう側の広い空間で立ち止まった。
僕は青巻紙で彼女の全身に水をかぶせた。ソーラの白い肌も、灰色のパンプスもニーソックスもチュニックも、黒いスパッツも濡れた。ハーフツインの黒髪は、つやめいた。
あとは、敵を待つ。
巨像は僕たちに胸部を向け、二十メートルもあるオブジェを軽々とまたいだ。
大きな左足が目の前に下ろされる。かかとからつまさきまでの長さは十メートル、足の幅は五メートル。片足を目測しただけで、ゆかに落ちる影を見ただけで、全体の重量感が伝わってくる。
その足で体をささえつつ、次はオブジェの後ろにある右足を持ち上げる。
(体のバランスがくずれる、ここがチャンス)
迷いなく僕は青巻紙の「水」「指定」「砲撃」「推進」をなぞった。ソーラの背後に回り、彼女自身を後ろから砲撃した。最大出力の水を背中に受けたソーラは斜め上に勢いよく撃ち出され、体を大きくそらした。そのまま巨像の腹部めがけて、つっこむ。
あらかじめ彼女にかぶせていた水のほうには、黄巻紙の「混線」「帯電」を「強化」して流してある。当然、水は「弱化」した状態。
特殊な電気をまとった水を、彼女の表面に張り付けたままにする。電気が彼女自身を襲おうとすれば、その都度ソーラがワープを発動。表面の水に戻す。電気やそれをまとった水自体が彼女から離れようとしても、やはりワープでそれらを表面に戻し、この状態をキープする。
(今は屋外にいないでしょ。だからわたし、日光をワープさせてもいないの。普段は日焼け対策に割いている魔法の力を、ここにつぎ込むってわけね)
突撃するソーラに反応し、巨像は両手で彼女を捕らえようとした。足と同じくらいの巨大な手の平で、左右から彼女をはさむ。
押しつぶされる間一髪のところでソーラはワープを使用し、前方に転移。が、アリアン側もソーラの動きを読んでいた。ワープ直前に手を腹部のほうに引き戻す。さらに、浮かせていた右足を回し蹴りの要領で瞬時にオブジェの前に出す。そのまま右のひざを曲げる。
ただし、ひざは太ももの裏側ではなく表側のほうに折れた。人間のひざの関節では実現できない可動域。巨像の右ひざは二百七十度以上曲がり、足裏を真上に向けて下からソーラの転移先にせまった。同時に、引き戻された左右の手がその空間をつつみ込む。
手足が待ち構えている場所にソーラが転移する。彼女は、一度ワープを発動させれば転移先の座標を途中で変更できない。「巨大な手からのがれ、かつ攻撃を中断しないよう、ソーラはワープ限界ぎりぎりの五メートル前方に転移する」とアリアンは読みきっていたのだ。
ソーラは巨像を見かけ倒しと言ったが、隙を突かれた以上、巨大な手足による全方位攻撃をワープで防御するのは不可能。しかも今の彼女は、電気を帯びた水を全身に張り付けることに魔法の力を割いている。このまま巨像の虚像から攻撃をもろに受ければ、心ごと壊れる。
そんなことは、させない。
転移したソーラに次のワープを発動させるいとまを与えず、手足が彼女をすりつぶそうとする。しかし危機一髪の瞬間に、彼女は後ろから押し出された。巨大な両手のわずかな隙間を抜け、ついに巨像の腹部に到達する。
僕は、ソーラの背中に飛ばしていた「砲撃」の威力をさらなる「推進」で強めていた。元々最大出力だったが、黄巻紙に封をして青巻紙に魔法の力をそそぎ込むことで不足分は補った。
さきほどソーラがワープすると同時に、僕は彼女の背中をめがけて超強化した砲撃を放っていた。それがなんとか間に合った。
この砲撃には虚像に対して有効な「混線」をほどこしていない。したがって、ほとんど巨像の手足をすり抜け、ソーラに勢いを届けることができた。
水の砲撃を受けたまま彼女は、へそのあたりを貫通し、腹のなかに入った。巨大な虚像の内部に侵入したため、本人はかなりのダメージを受けたはずだが、ソーラはそれをも耐えきった。
すぐさま、背中に受けている砲撃の威力をワープさせる。転移先は、「彼女の表面をおおっている水」と「彼女自身の肌や服」とのあいだに出来た薄い層。ねらいは一つ。「混線」「帯電」をまとった水を外側に撃ち出すのだ。
これをソーラが全身で発動させ、自身の表面の特殊な水すべてを巨像の体内で放射状に拡散させる。かつ、この直前、僕はソーラに張り付けていた水に「膨張」をかけていた。
その水が、ソーラを中心としてふくらんだ瞬間、前後左右上下のあらゆる角度に発射された。
一瞬で巨像は内部から全体を攻撃された。アリアンのイメージのたまものか、虚像であるにもかかわらず白い素肌にひびが入った。
ソーラは攻撃の手を緩めず、巨像の内部を動き回った。
上半身と下半身を切り離したのち、体を左右に二つに割る。くずれ落ちるのを待つことなく、ひじとひざ、肩、手首、足首を切断する。
解体された巨像に対して、僕は青巻紙をとじ、赤巻紙と黄巻紙をひらいた。虚像に有効な「混線」を黄巻紙で準備したうえで、赤巻紙により広範囲を「起爆」させ、巨像の残骸をちりも残さず消し去った。
かたやソーラはオブジェの向こうに回り込む。巨像が出てきてからずっと放置されていた赤い円のもとまで走り、表面にふれた。
血のような色が、すべてあっさり消滅する。赤い霧に分解されて、空気中に溶けたのだ。
巨像とそれを呼び出した赤い円が破壊されてから二十秒後、粉末のような虚像がソーラのかたわらに出現し、なにかのかたちを作ろうとした。しかしそれは、赤い瞳を持つ眼球一個にしかなれなかった。もう、彼の目はきらめいていなかった。黒を混ぜ、濁っていた。
「切り札はすべて使いきったようね、アリアン・クラレス。これ以上は不毛だわ」
さきほどの戦闘のため、ソーラの黒髪は濡れたまま少しかたむいていた。彼女は右手を頭に載せ、髪の位置を調整した。
濁った赤い目はそれを見て、ゆかに落ち、くだけて消えた。
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