第19話 届かない距離
「……っ」
ジムから家に帰ってくると、涙が出そうになる。すみれちゃんがはるくんに言ってくれたみたいだけど、それでも苦しい気持ちは残っていた。
「はるくんはみんなに優しいからなぁ……」
以前も似たようなことで悩んでいたっけ。人の性格はなかなか変わらないものかもしれない。
それでも何度も伝えないといけないのかな。あるいは……やだ、変な方向に考えちゃう。
「きっと松永先生はこんなことしないだろうな。お母さんいいなぁ、先生に愛されていて」
私は先生とのメッセージ画面を見ながら呟いた。
『先生こんにちは。今日はジムに行って来ました。体力もっとつけたいな』
日記みたいな文章。
打ったものの送信する勇気がない。
「先生、今何してるの……?」
こういう気持ちはやっぱり“恋”っていうのかな。
それとも……父親みたいな感じだろうか。
遠くにいるのに、いちばん近くに感じてしまう。
――送信。
「はぁ、眠たくなってきちゃった」
私は少し横になった。はるくんと先生の両方が頭の中でぐるぐる回って、そのうち力が抜けてくる。
※※※
インターホンの音で目が覚める。応答してから玄関のドアを開けると、そこにははるくんが立っていた。
「奈々ちゃん……」
「はるくん……」
彼を中に入れてローテーブルの前に座る。外はまだ明るくて、夕日のオレンジ色が微かに見えていた。
「今日はごめん……笹谷さんの誘いは断った」
「そう……」
笹谷さんからのご飯の誘いに行かなかったことがわかって、少し心が軽くなる。
「僕はまた奈々ちゃんの気持ちを考えてなかった。これからは気をつけるよ。彼女とは本当に……何もないんだ」
彼がまっすぐに私を見つめている。真剣なはるくんの目――今度こそは信じたい。
「ありがとう。私も先に帰っちゃってごめん。そう言ってくれて嬉しい……はるくんのこと、信じてる」
そう言うと彼はかすかに笑って、それから視線を落とした。
手のひらが、私の指先を探す。
「……束縛したいわけじゃないんだけど」
「え?」
「なんかさ、奈々ちゃんが遠くに行っちゃう気がして」
また、それ……。
思わず苦笑したけれど、どうしてだか少し静まり返った。
前にも同じ言葉を聞いた。だけど、今の彼はあの時よりもずっと不安そうだった。
「私はここにいるよ」
「……うん」
その“うん”のあとに続く沈黙が、どこか切なかった。私の迷いと彼の心配が、静かに重なってゆく。
窓の外では、夕陽の光がゆっくりと揺れていた。
「あ……はるくん、私……」
息が浅くなって、喉の奥がきゅっと詰まる。
何かを言わなきゃと思うのに、言葉が出てこなかった。
その時だった。
ローテーブルの上のスマホがピロンと鳴り、私はスマホの画面を見る。
――松永先生だ。
『奈々美さんこんにちは。ジム、お疲れ様。俺も運動しないといけないな』
このタイミングで返事が来るなんて。
胸の奥がふっと軽くなる。
焦りも、痛みも、少しずつ遠ざかっていく。
先生の言葉は風のように静かで、私の中に残るざらつきを、そっと撫でていった。
先生って、いつも絶妙なタイミングで現れる。
すると、はるくんが口を開いた。
「奈々ちゃん、ところでさ……松永とは会ってるの?」
「え……」
心臓の音が響く。
どうして松永先生のことを聞くの?
まさか、会ってること……バレちゃった?
「いや……お母さん通じて会ってるのかなって」
「……たまに会うぐらい、かな」
「ふぅん」
はるくんの探るような表情に私の心はぐらつく。
先生のことが頭から離れなくて、スマホを握る手に力が入っていた。
※※※
(竹宮くん視点)
ジムでのアルバイトが終わってすぐに、奈々ちゃんの部屋に向かった。もう一度きちんと話したい。
彼女に謝って笹谷さんとは何もないことを話したら、ほっとしたように表情がゆるむ。
「はるくんのこと、信じてる」
そう言われると胸がいっぱいになる。
なのにまだ――奥のほうに、ぽっかりと空いた場所がある気がした。
やっぱりあの夜のことが頭をよぎる。
「なんかさ、奈々ちゃんが遠くに行っちゃう気がして」
そろそろ……触れたくなるんだ。
こんなにも好きなのに、どうして届かないんだろう。
「私はここにいるよ」
そう言われても、僕の不安は残ったままだ。こんなことばかり言って呆れてしまっただろうか。
テーブルの上のスマホが鳴り、彼女は画面を確認する。
明らかに嬉しそうな奈々ちゃん。しかも頬が赤く染まっていく。
あれは……カフェでの松永を見ていた表情に似ていないか?
菊川さんだって松永の名前を出していた。
まさか……。
僕は聞いてしまう。
「奈々ちゃん、ところでさ……松永とは会ってるの?」
明らかに彼女の肩がぴくんと揺れた。
別に母親を通じて普通に会っていても構わないのに、そういう反応をされると――余計気になるんだよ。
「いや……お母さん通じて会ってるのかなって」
「……たまに会うぐらい、かな」
「ふぅん」
それ以上は聞けなかった。
聞いてしまうと、僕たちの関係が壊れてしまうような気がしたからだ。
いつからこんな風になったのだろう、彼女を疑いたくなんてないのに。
心の奥に沈んだ小さな棘が、日ごとに疼いていくように感じていた。
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