残された顔
木工槍鉋
魂を拾う夜
十月三十一日、午後十時。
僕が再開発地区の現場で拾ったのは、黄ばんだ紙に描かれた建物の図面だった。風に飛ばされて、工事用フェンスの隙間から転がり込んできた。広げてみると、建物を縦に切断した断面図と横に切断した平面図
階段や柱、部屋の配置がすべて描かれている。
手書きの丁寧な線。一九二〇年代のものだろう。
明日からこの一帯は解体工事が始まる。ただし、「正面の壁だけを残して」
僕はその計画を担当する建築士だ。歴史的な街並みを守るという名目で、建物の正面部分-ファサードだけを残し、裏に超高層ビルを建てる。古い街並みの「顔」は保存しながら、中身は最新のオフィスビル。
契約は済んでいる。もう後戻りはできない。
ハロウィンの夜、街は仮装した人々で溢れている。ゾンビ、魔女、吸血鬼。みんな「別の何か」の皮を被って歩く。
僕は図面を持ったまま、解体予定の建物
三階建ての古い呉服店の前に立った。
正面の意匠は見事だ。大正時代のタイル張り、曲線の美しい窓枠、繊細な装飾。この「顔」だけが残る。新しいビルの壁に、お面のように貼り付けられて。
僕はフェンスをくぐり、中に入った。
懐中電灯の光が剥がれかけた壁紙を照らす。きしむ階段を上る。手すりは長年の手垢で黒光りしている。
図面と実物を照らし合わせる。すべて一致する。これはこの建物の図面だ。
二階の和室。床の間の釘隠しは鶴の形。三階の子供部屋には壁にクレヨンの落書き。「ゆみこ 5さい」。
すべて、消える。
残るのは正面五メートルの壁だけ。厚さわずか三十センチ。
窓の外を見た。
通りの向かいには、半年前に完成した「リノベーション物件」がある。同じように古い建物だったが、あちらは違う方法で生き残った。
正面の美しさは保ったまま、内部を丁寧に補強し、配管や電気を現代的に更新した。古い梁も階段も残した。今はカフェとデザイン事務所が入っている。夜遅くまで、窓に明かりが灯っている。
あれは生きている。
骨組みも血管も神経も、すべて繋がったまま、新しい息を吹き込まれて生きている。
でも僕たちの計画は違う。この建物は「皮」だけ剥がされる。
ハロウィンの仮装。いや、もっと悪い。ゾンビだ。
中身が死んでも、表面だけ動かし続ける。
僕は図面を握りしめた。
これは建物の「魂」なのかもしれない。内部構造という建築の本質。壁一枚の厚み、階段一段の高さ。人が何十年も暮らした痕跡。
三階の窓から外を見下ろすと、仮装した人々が楽しそうに笑いながら行き交っている。彼らは明日、仮装を脱ぐ。元の自分に戻る。
でもこの建物は、永遠に仮装を脱げない。
階段を降りながら考えた。
本当は、やり方はあったはずだ。向かいの建物のように、丁寧に内部を蘇らせることもできた。古い階段も、手すりも、すべて残しながら現代の生活に合わせて再生させる方法。
時間はかかる。コストもかかる。でも、それが本当の意味で建物を「生かす」ことじゃないのか。
ファサードだけ残すのは簡単だ。見た目の問題だけクリアすればいい。でもそれは保存じゃない。剥製だ。
もう遅い。明日の朝には重機が入る。
一階に戻り、正面のガラス戸から外を見る。保存される予定の美しい「顔」。
でも、その直後には何もない空間が広がる。この建物の歴史も、住んだ人の記憶も、すべて切り離される。
これは誰が落としたんだろう。
いや、違う。これは建物自身が「落とした」んじゃないか。明日から始まる解体を前に、最後に手放したもの。
「私の本当の姿を、誰か覚えていてほしい」
そんな声が聞こえた気がした。
外に出て、もう一度建物を見上げた。
明日から、この建物は少しずつ「殺されて」いく。でも同時に「保存される」と世間には言われる。中身を失い、皮だけになり、それでも立ち続ける。ゾンビとして。
向かいのリノベーション物件を見る。窓に明かりが灯り、中で人が動いている。あの建物は本当の意味で生き返った。
でも、この建物は。
仮装した人々の間を抜けて、僕は駅へ向かった。
ハロウィンが終われば、みんな元の顔に戻る。仮面を外し、メイクを落とし、普段の自分に戻る。
でもこの建物は、二度と元の姿には戻れない。
ポケットの中で、図面が重く感じた。これだけが、この建物の「本当の姿」を覚えている。
僕もまた、今夜だけは自分の仮面を外せた気がした。建築士としての役割、プロジェクトの責任者としての立場、すべてを脱いで、ただ一人の人間として、この建物と向き合えた。
明日になれば、僕はハロウィンの夜とは反対に「仮面」をつける。
今夜だけは、この図面を握りしめて、思うことが許される。本当はどうすべきだったのか。建物を本当に生かすとは、どういうことなのか。
最後の夜は、そんな問いを抱くことを許してくれる。
僕は図面をコートの内ポケットに大切にしまった。
明日からは、またゾンビを作る仕事が始まる。
でも少なくとも今夜、僕はこの建物の「魂」を拾った。
それだけは、忘れないでおこう。
残された顔 木工槍鉋 @itanoma
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