第一序列 ― 双軌の残響(Echoes of Parallel Lines)
アーカイブ_001 《キュノソウラの強襲》
北の夜は、いつだって冷たい。
紫とピンクのネオンライトが雪に反射し、街を照らし出す。
オーロラ・カスケード投影システムの光が吹雪とともに流れ、ビルの谷間に無数の情報広告を映し出していた。
金色のリニアレールを走る高速電車が通過すると、光の帯がビルの合間を滑るように駆け抜け、まるで金魚の群れが泳ぐように見える。
――ここは、フリクルト大陸を支配する極北都市。
ルーティング・サン・シティ(Rooting Sun City)。
十一月。季節は極夜へと入りつつある。
クルンツ・オルセンは、アッパー・シティのカフェバーの一室にいた。
赤い双眸が、ラテの白いラテアートをじっと見つめる。
指先で栗色の髪を弄びながら、ゆっくりとカップを口へ運ぶ。
――苦味と、ミルクの甘さ。
この街の味だ。
「……さてと。」
彼は軽く伸びをして、白いコートの内側から一つの端末を取り出す。
巻物のような形をした高級端末――フォス・コデックス(PhosCodex)。
雪のような白い本体がふわりと浮かび、淡い青のホログラムを展開する。
ペン先で光の画面を弾くと、立体構造のビル内部図が浮かび上がった。
無数の監視カメラと死角を示す赤い点。
それは二ヶ月に及ぶ彼の調査の成果だった。
「ルート再確認……OK!」
クルンツ――いや、彼のもう一つの名前は「キュノソウラ(Kynøsøura)」。
ルーティング・サン・シティにおける伝説級ハッカー。
ハッカーなど、この街では珍しくもない。
だが、シュペール・エナジー社のネットワークを単独で落とした者は、後にも先にも彼しかいない。
数年前、シュペール社の全サーバーが一夜にして麻痺した。
防衛プログラム「インフェルノ」開発のきっかけとなった事件――
その犯人こそ、キュノソウラだ。
犯行後に必ず残されるデジタルサイン。
大胆で挑発的な手口。
それが彼を、伝説へと押し上げた。
現在も正体不明。
だが、その青年が今まさに、新たな襲撃を企てていた。
彼のコートの内側で、十個の小さな立方体が淡く光を放つ。
赤・青・緑……それぞれ異なる色を持つ魔方陣のようなブロック。
――それが、クリフォト・システム(Qliphoth System)。
「……始めるか。」
クルンツは席を立ち、外套の襟を立てて夜の街へ出た。
目的地は、治安局(D.C.O.)のデータ保管ビル。
そこには、市内の重要端末が集中している。
路地裏の暗がりに姿を潜めると、彼の身体は光の粒子へと溶けていった。
黒いフードと鉄色の仮面を装着した姿。
そして――
「サイケデリック・ミスト、起動。」
身体がノイズの格子に包まれ、完全に消失する。
光学迷彩と生体信号の偽装を同時に行う、完璧な潜入装置。
声、指紋、熱源、全てを消す。
六階。終端室。
機械の唸り音が響く中、クルンツは端末前の椅子に腰を下ろした。
「……ハッキング開始。」
十個のクリフォトブロックが衛星のように周囲を旋回し、空間に軌跡を描く。
彼の両眼が紅く輝き、仮面の下からデータ光が漏れた。
コートの胸元を開き、そこから一本のコネクタケーブルを抜き出して主機ポートへ差し込む。
(リンク完了。)
次の瞬間、意識が数値化され、データの海へと引きずり込まれる。
無限の虚空――紅い壁が立ちはだかる。
(旧式のファイアウォールか。ここは雑魚用データ倉庫だな。インフェルノは未導入……楽勝だ。)
白い光筆を構える。
空中に虹色のホロキーボードが展開され、指が音もなく走った。
――わずか一分。
障壁は音もなく崩壊する。
雪のように崩れ落ちるデータの壁。
無数の情報が解き放たれ、光の粒となって漂った。
「さて、何が出るかな……。」
彼は軽やかに光筆を振り、データを指揮するように操作を始めた。
(ギャング……詐欺……密輸……このへんは全部ゴミだな。)
スクロールを止めた瞬間、一つのファイルが目に留まる。
《抹殺指令──機密等級Σ》
対象:Kynøsøura(キュノソウラ)
状態:執行中
実行者:B.R.
備考:シュペール・エナジー社による完全委任処理
「……へぇ、やっぱり俺を殺す気か。」
クルンツの唇に冷笑が浮かぶ。
想定内だった。
正体不明の相手を「逮捕」ではなく「抹殺」――それが、シュペール社のやり口。
「B.R.……ね。」
ファイルの奥に、ひとりの男の写真があった。
だが、顔はモザイクで潰されている。
クルンツは指先でコードを打ち込み、暗号解読を始める。
視界の隅で、進捗バーがじりじりと動く。
5% ⮕ 10% ⮕ 15%──。
〔Master──警告──外部に目標接近中〕
「ちっ、あと十秒!」
突然、乱流のようなデータの嵐が吹き荒れた。
ファイルの文字列が崩壊し、画像が歪む。
(自動削除プログラム……!)
建物全体の警告アラートが鳴り響く。
目の前のデータが、雪のように消えていった。
「……面白いじゃないか。」
わざわざこんな処理を仕掛けるということは――
その傭兵、ただ者じゃない。
彼の視界に残ったのは、わずかな残片。
モザイク越しの男。青黒い短髪。左右で違う色の瞳――緑と琥珀。
ファイル末尾に記された文字。
【Blackclad Raven】
【Zone:Casino/Eclipse Ward】
「なるほど、コードネームだけか……上等だ。」
〔Master──警告──目標、5分後に接触〕
「了解。ログ削除開始。」
クルンツは端末への痕跡を消去し、外部監視データをリセットした。
そして、画面を閉じると同時に机の下へと身を潜める。
その時――
轟音。
「……チッ、歓迎が派手だな。」
爆風とともに、扉が吹き飛ぶ。
煙と瓦礫が部屋を包み込んだ。
(だから俺は企業の連中が嫌いなんだよ……。)
彼は静かに立ち上がり、コートの埃を払う。
銃声が響いた。
「誰だ!」
「侵入者を発見、射殺しろ!」
銃口の光が、闇を切り裂いた。
銃声が連続して響く。
弾丸が壁を抉り、火花を散らした。
だが、そこに立つ影は――透き通る。
「……残像?」
弾丸が突き抜けたのは、虚像だった。
傭兵たちは一瞬動きを止める。
次の瞬間、空間全体にオレンジ色の光線が走った。
蜘蛛の巣のように張り巡らされた細いデータ糸。
「なっ……これは!?」
「動くな。」
暗闇から、キュノソウラの声が響いた。
それは幽霊の囁きのように静かで、しかし確実に背筋を凍らせる。
「俺は殺す気はない。ただ、邪魔するな。」
光線に触れた傭兵のひとりが、反射的に銃を構え――肘が光に触れる。
その瞬間、彼の身体が痙攣した。
「……っ!? な、何だこれは――!」
全身の筋肉が暴走し、膝から崩れ落ちる。
体内のタクティカル・チップがノイズに包まれ、機能停止。
「チップ干渉、成功っと。」
キュノソウラの姿が、光の歪みの中から浮かび上がる。
黒いフード、鉄色の仮面。紅い双眸が闇を貫く。
「動くなって言っただろ?」
彼が指先を弾いた瞬間――
紫色の光線が閃き、倒れた傭兵の眉間を貫いた。
「……ターゲット、ワン・ダウン。」
残ったもう一人の傭兵が震える手で銃を構えるが、その腕はすぐに掴まれた。
キュノソウラは無造作に相手を床に押し倒し、首筋へ手を当てる。
「タクティカル・チップ、いい物積んでるじゃないか。」
周囲に浮かぶクリフォト・システムのブロックが、黒い鎖のように変化する。
数値の流れが絡み合い、獲物へと伸びていく。
「こいつが――ティシフォネ・ウイルス(Tisiphone)。」
傭兵の身体に黒いコードが這い回る。
ウイルスの鎖が脊髄から脳へと侵入し、神経系を駆け抜けた。
「や、やめろっ……!」
悲鳴が部屋を満たす。
白目を剥き、筋肉が震え、血管が浮き上がる。
「安心しろ。死にはしない。ただ――地獄の味見くらいはしてもらう。」
ウイルスがデータ嵐を引き起こし、部屋全体の照明が激しく点滅した。
傭兵は泡を吐き、金属床に爪を立てる。
「や……やめ、て……!」
光が弾け、神経の火花が散る。
――そして、沈黙。
倒れた傭兵の瞳孔が白く濁り、身体が痙攣したまま動かなくなった。
「……ったく。」
キュノソウラは息を吐き、壁に手をつく。
そのまま胃の奥から込み上げる吐き気に耐えきれず、床に膝をついた。
「……Faen!(クソッ)」
口元を袖で拭い、苦笑を浮かべる。
「人体ハック」は今でも、慣れるものではない。
(やっぱり後味が悪ぃ……。)
視界の端で、二人の死体が無惨に転がる。
その光景を一瞥し、彼はデジタルサインを残すことを思い出す。
だが、すぐに肩をすくめた。
「……ま、今日はこのへんでいいか。」
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
数日後――ルーティング・サン・シティに雪が舞った。
白い粉雪が、街のネオンをぼやかす。
ロワー・シティとアッパー・シティの境界。
古びたアパートの前に、黒塗りのパトカーが数台並ぶ。
車体には都市治安局(D.C.O.)の百合盾エンブレムが刻まれていた。
室内では、治安局の隊員たちが死体を検分している。
白い制服に身を包んだ彼らの顔は、どこか引きつっていた。
「……首を切って自殺、か?」
その声に振り向いた者たちの視線の先――
墨緑のジャケットを着た男が現れた。
――ミンスデ・ソロウィン。
シュペール・エナジー社直属の特殊傭兵。
彼は無言で現場に入り、右目の義眼が淡く輝く。
データの光が流れ出し、空間の構造をスキャンした。
血飛沫、破損した壁、焦げたチップの臭い。
そして――冷たい死体。
「関係者以外立ち入り禁止だ!」
警官の一人が声を張り上げた。
ミンスデは無言で左手を動かす。
空中に投影されるのは、ルーティング・サン・シティ行政統合局の公式認証データ。
「調査の許可はある。」
警官たちは顔をしかめつつも、道を開けた。
「死因は?」
「……自殺と見られます。戦術チップがウイルスに侵蝕され、神経系に損傷が。身体機能が20%ほど麻痺していたようです。」
報告を聞きながら、ミンスデは煙草を咥えた。
火をつける。灰色の煙が、冷たい空気の中に溶けていく。
「……自殺ね。」
「ええ。戦えなくなった絶望から、との推測です。」
ミンスデは短く息を吐き、煙を見上げた。
「そうか。」
▮▮▮▮▮▮▮▮▮▮
現場を出ると、遠くにアセンダント・スパイアが見えた。
漆黒の塔。雲を突き抜け、空に向かって伸びる。
それはミンスデにとって、枷であり、呪いだった。
ベンチに腰を下ろし、オーロラ・タイプX通信システムを起動する。
淡緑の光の幕が目の前に展開され、相手のホログラムが浮かぶ。
金髪の女――ヴェロニカ。
深い蒼の瞳が、挑発的に輝いた。
『あら、珍しいじゃない。あなたから電話なんて。今日はどんな風が吹いたの?』
通信画面がピンク色に染まる。曖昧な空気。
「……ヴェロニカ、現場の確認が終わった。」
『仕事の話?つまんないわね。それよりディナーの予定、どう?』
ミンスデはこめかみを押さえ、ため息をついた。
「……だからお前にかけるのは嫌なんだ。」
『ふふっ、そんな怖い顔しないで。で、どうだったの?……死者は二名。ひとりは頭部破裂、もうひとりは神経損壊。監視データには侵入記録なし。完全な密室だ。』
「……証拠はないが、キュノソウラだろう。奴以外に、こんな真似はできない。」
『あの伝説のハッカー、ね。ふふ、私も同感。彼って、ちょっと面白いじゃない。』
「……俺には、清算すべき“借り”がある。」
その一言で、ヴェロニカの表情が凍りついた。
しばしの沈黙の後、咳払いで誤魔化す。
『……失礼。とにかく気をつけて。彼、S=ベクターの人間を狙ってるわ。』
「わかってる。」
通信が切れる。オーロラの幕が消え、灰色の空が戻る。
ミンスデは煙草を地面に落とし、ブーツで踏み消した。
そして、呟く。
「――キュノソウラ。
今度こそ、ケリをつける。」
アーカイブ_001 完。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます