それから二日後。

官吏のときに使っていたものをすべて片付けすと、出発のときがやってくる。

(ここももう、使うことはない…。たったの一年だったけど、いい一年だったな…)

自分が官吏の世界を知れたのも、自分が官吏になれたのもすべて簡吏部侍郎のおかげ。

簡吏部侍郎に最後の別れの挨拶でも言っておこう。

(まさか私が、官吏になるなんて思ってもいなかった…)

何でもすぐに諦めてしまう自分が、まさかここまで続けられていたとは。

そのことにも、驚く。

(簡吏部侍郎に出逢っていなかったら私は今頃、何をしていたんだろう…)

できればこの世界から離れたくない。

けれどそんな簡吏部侍郎に恩返しができるかもしれないのだ。

あとは…初恋の、今をときめく鏡殿下の花嫁になれるかもしれない。

こんなチャンスは、もう二度と降ってこない。

(私は…恵まれている。恋にも、上司にも…それから、部下にも。こんなに恵まれてて、幸せだな…)

ありがたい。

じんわりと、心が暖かくなる。

ここに来れて、本当に良かった。

「今まで、ありがとうございました…!」

今は誰もいない、静かな自分の部屋に礼を言った。

(本当に…大好きだ…)

順英はその場所で最後に結ぶであろう髪を結んだ。

これが、本当に最後。

部屋の外で髪を結び終わったあと、三烈に呼ばれる。

「順英様」

「…なんだ?」

「そろそろ、お時間です」

「…よし!行こう!」

行こう。官吏とはまた違う、今の自分では想像もつかない世界へ。

「…あ〜。でも最後に、簡吏部侍郎に礼だけ言ってから向かってもいいか?」

「もちろんです」

「もう出立か?順英」

最後の礼を言いに行こうとした途端、目の前に一番会いたかった人が。

「簡吏部侍郎?!!」

あまりの驚きに、言葉が出てしまう。

本当はここでお辞儀をしなければならないのが礼儀なのに。

叱られると思った瞬間、抱きしめられた。

「成長、したな…」

「簡吏部侍郎…!!」

感動のあまり、涙が出てきてしまう…。

「あなたの、おかげです…!私がここまで諦めなかった職は、官吏が初めてでした。私は人生で初めて、何かを最後まで成し遂げられたんです…!」

「そうか…。俺は、お前に出逢えて良かった。こんな素晴らしい才能とひとに、出逢えたのだから…」

「簡吏部侍郎…」

「本当は手放すつもりはない。本来ならばずっと、傍に置いておきたかった。けれどそれでは駄目らしい。君は鏡殿下のところで、経験を積んできなさい。そうすればまた会える」

「私。鏡殿下のお嫁さんになるんですよ?もう一度、戻れます?」

「俺がなんとしてでも戻してやる」

豪快に笑う。

「…楽しみにしています!」

なんだが本当にきそうな予感がした。

「順英」

抱きしめられていた身体からだはいつの間にか離れており、簡吏部二郎の手だけが顔に残った。

「はい。なんですか?」

これで最後。

大好きな人の声で、自分の名前も呼ぶのも最後。

だけど後悔はない。

むしろ、希望へと向かっている気がする。

このどきどきは自分の人生で何かが始まる、前兆かもしれない。

「君の居場所はずっと、吏部だ。覚えておきなさい」

「もちろん!簡吏部侍郎の恩は、一生忘れません!」

本当に忘れられない。

「…今まで、ありがとう」

「こちらこそ、ありがとうございました…」

もう一度、簡吏部侍郎に抱きしめられた。

この人に誰だけ、助けられてきたことか。

この手と、腕に。

「香秀はなかなかいい奴だ。吏部のことは心配しなくていい。安心して、鏡殿下のご寵愛ちょうあいを得てきなさい」

「そのようですね。なんだか、妬けてしまいますけれど…。でも、あの子なら吏部を任せられそうです。簡吏部侍郎が仰ったように、鏡殿下のご寵愛を得てきます…!」

順英がずっと喋っていたのを、簡吏部侍郎は聞いてくれていた。

簡吏部侍郎は自分の話を最後まで聞いてくれる人。

「旅中の宿は…取れたのか?」

「はい!」

「どこの宿だ?」

「益酷の宿に」

「待て!益酷だと?!」

「はい。国で一番安くて、サービスが豊富な宿があるって親友が教えてくれたので」

その親友は官吏を目指す者たちが通っている、この国ー道龍とうりゅう国一の学校に学生として通っていた頃の親友である。

「そうだったのか…。言ってくれたら、こちらで豪華な宿を取ったものの…」

「いいえ。私はこれがいいんです」

「本当にか?」

「はい。本当にです。出発の時刻が迫ってきたのでそろそろ失礼させていただきます」

「ああ、気をつけて」

「簡吏部侍郎もお元気で」

「ありがとう」

そしてもう一度、抱きしめられた。

(頑張ろう、この人と初恋の人のために…)

「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」

手を振りながらここを去る。

これから新しい世界に馴染めるよう、精いっぱい頑張ろう。




朝廷を出てから三時間が経った。

「今はどこら辺だ?」

「今まだ州にも入れていません…」

「そうか。ありがとう」

道龍国の南側にある姫州に属している益酷。

首都から姫州に着くまでに約五時間ほどかかると聞いたことはある。

(あの噂は本当だったんだな)

「土地に詳しい武官が同行してくれたおかげで、近道を通って行けましたね」

「そうだな…」

順英は輿こしの中から領翠と話す。

「姫州まではあとどのくらいだ?」

「姫州までは恐らく、あと一時間だと思います」

「一時間?!普通ならあと二時間はかかるだろう…」

「はい。同行している武官が言うには、かなり近道だけれどほとんどの者が知らないので、襲われる心配もないとのことですが…」

「念のため、皆に気をつけておくよう伝えてくれ」

「はい!」

どうかこのまま、何もないことを祈る。

「領翠」

「どうなさいました?」

「ここらにはどうやら、とある一族が隠れて暮らしていると聞いてね」

「とある一族…ですか?」

「ああ。どうやら、赤髪を持つ一族らしい。とても賢い一族だと父上から聞いたことがある」

「もしかして順英様は益酷に住んでいたことが?」

「そうだね。少しだけ…だけど。益酷に住んでいたのに、その一族には会えなかった。どうせなら、会ってみたいと思わないかい?」

「どうやったら会えるのかすらわかっていないでしょう…」

「バレた」

領翠に呆れられた。

順英はもう二十歳だが、こういった伝説や不思議な話が好きだ。

「私がこういう話を好きだということは、君たちだってわかっているだろう?」

「そうですけど、今回はやめてください」

「なんで?」

「嫁入り前の人に何かあったら、私たちの責任になるので」

「そうか…。それは駄目だな…っ?!」

領翠と楽しく話していたとき、急に輿が止まった。

「領翠様!!」

「なんだ?!」

輿が止まったと思ったら、黒い服と黒い被り物を着た集団が順英たちの目の前にいる。

「なんだ貴様ら…。鏡殿下の正妃様に向かって、何をしよとしている!」

「そいつが鏡殿下の妃か」

「そうだ!挨拶くらいしろよ?!」

三烈が叫びながら剣を抜いて参戦しようとした。

「およしなさい。二人とも」

『順英様』

領翠と三烈は順英が輿から降りたので、地面に膝をついて跪く。

「二人はいったい、私に何用だ?」

「何用?」

「用がなかったらこんなことはしないだろう?」

「俺らは山賊だ」

「賊?!」

「ああ。見てわからないのか?」

「黒い被り物を着ているせいで、わからなかった…。すまない」

(この者たちは本当に山賊か?もしかして、もっと危険な人物なんじゃ…?!)

だとしたらみんなが危ない。

「私たちはこれからとあるところへ行く」

「鏡殿下のところだろ?」

「ちがう。もっと、別の場所だ」

「別の場所だあ?」

「そうだ。ここよりもっと北の、北先ほくさきという場所。知っているだろう?」

「北先なんざ興味ねえ」

「私たちは今からそこへ行くんだ…」

これで騙せたか?

そう考えていたとき…。

「我らの山々を荒らしているのは誰だ?」

赤髪の青年が、こちらへ向かってくる…と思ったら、飛びながら赤髪の青年は黒い衣と黒い被り物を着た山賊たちの頭上へと向かう。

「な、何しやがっ…」

一人の黒い衣をと黒い被り物を着た山賊は、いつの間にか地面に倒れていた。

(早い…!この者、いったい何者なんだ…?!)

「次は誰だ?」

「い、いい…!に、逃げるぞ!」

「軟弱者め。そんなんじゃ、武官にもなれんぞ?」

(本当に、見事な蹴りだったなあ…)

ずっと見てても飽きないほど、武芸初心者でもわかりやすいほど、わかりやすい動きと速さと技術。

「ありがとう。あなたのおかげで、助かりました」

「あ、ああ。武家の人間として、当然のことをしたまで。礼はいらん」

「いいえ。あなたがいなければ私はあの場から逃げることはできなかった。本当に感謝しています」

「そう言ってくれるのであれば、ありがたい」

赤髪の青年は剣を持ちながら、武官らしい挨拶をした。

「それで…お主らはこれからどこへ参る?話で北先と聞いていたが、あれは鏡殿下を守るための嘘だろう?」

「バレていたか…」

「いいや。あの者たちにはバレていなかったよ。嘘が上手いな。それで、本当はどこへ参るつもりだ?」

「私は鏡殿下の妃として鏡殿下が住んでいらっしゃる、居憐きょれんというところに向かう」

「なるほどお…。居憐じゃな?」

「ああ、居憐だ。君は?」

「我は家に帰るつもりじゃ」

「そうなのか。…名前を聞いても?」

「もちろん!我は武家、こう家の出、高 蒼紅と申す!お主は…鏡殿下の妃となる、李 順英様か?」

「ああ、そうだ。君は物知りだね」

蒼紅は嬉しそうに、持っていた剣と共に武官の礼をしながら、左膝をついて跪く。

「今をときめく鏡第四王子殿下のお妃様に褒めておただけるなんて、この蒼紅。幸せに存じまする!」

「君は鏡殿下のファン?」

「ファンも何も、鏡殿下はこんな我々によくしてくださる。大好きです!」

「鏡殿下は寛大なお方だから…!」

「そうじゃの!」

顔を上げて、幼い子どものようにはしゃいでいる蒼紅があまりにも可愛らしくてつい笑ってしまう。

「…すまない。私は君が気に入った。もし君さえ良かったら、私と一緒に鏡殿下のところへ行かないか?」

「良いのですか?!!」

「ああ、もちろん。きっと鏡殿下もお喜びになる」

「それはそれは光栄!!」

「と、いうことだ!みんな。これから蒼紅と、仲良くしてほしい。蒼紅の世話は頼んだよ?」

三烈がめんどくさそうにしながらも、頷いてくれた。

三烈が面倒を見てくれるのであればきっと、大丈夫だ。






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