第33話 ランク”5”へ至る道

「ランク5になるには、ですか」


 澄みわたる鈴の音のような声が、夜気に溶けて響いた。

 当時、まだ十二歳だったディライトの問いかけに応じたのは、見目麗しくも凛然たる女――彼の師、アリアス・ヴァロニアだった。

 大桶に身を沈め、白い肌を月光にさらしながらも、その姿には卑俗さはない。

 桶の縁に指先を添え、夜空の星々を見上げるその横顔は、むしろ神秘と妖艶さを併せ持ち、見る者を魅了せずにはいられないものだった。


「なんで私が風呂に入っていると思います?」

「え」


 問いかけた内容とまるで関係のない言葉に、幼いディライトは怪訝な表情を浮かべる。

 核心をはぐらかされたと感じ、思わず口元に嘲るような笑みを刻んだ。


「やっぱ師匠って、バカ――ぶへっ」

「なんで私が水をかけたと思います?」


 敬意の欠片もない態度に、アリアスは悪戯めいた微笑を浮かべ、ぱしゃりと湯を掬ってディライトの顔に浴びせた。

 濡れた顔をぞんざいに拭いながら、ディライトはようやく相手の問いが本気のものだと気付き、渋々ながら答える構えを見せた。


「……毎晩弟子に風呂を沸かせるほどの風呂好きで、それのお裾分けでしょ」

「そうで――違います。……ハァ、全然伝わってない」


 ディライトの皮肉めいた返しに、アリアスは一度こくりと頷きかけたものの、すぐに小さく溜息を洩らして首を振った。

 自分の考えを言葉にするのは、思っている以上に難しい――そう痛感しながら、アリアスは再び弟子へと視線を戻した。


「どれも、私がしたいやりたいと思って行動に移した結果です」

「……当たり前のことじゃ?」

「その当たり前を敷き詰めることが大事だと言っているのです、阿呆め」


 唐突な罵倒に苛立ちを覚えながらも、ディライトは言い返さず、黙って続きを待った。

 アリアスは夜空に視線を向け、桶の縁にかけていた手をそっと上げる。

 星々を指し示しながら、彼女は静かに言葉を紡いだ。

 

「夜闇にさんざめく星々を仰ぎながら、虫の音に耳を澄ませて湯に浸る――それが、私には何よりの贅沢なのです」


 山中流れる川を引き込んだ湯舟に、夜を映すひととき。

 その光景と静寂をこそ、何ものにも代え難いとアリアスは思っていた。

 そして、その情景を得るために費やす行動や心掛けこそが、今の結果を形づくっているのだと告げる。


 そう語りながら、アリアスは鼻で笑うようにディライトを見やり、再び水をはね掛ける。

 今度はうまく身をかわしたディライトが、改めて最初の問い――「ランク5になるには?」の答えを促した。


「ランク5になりたいと思えばいいってこと?」

「その通り。ようやく通じましたね」

「……師匠の論なら、世の中ランク5だらけになってるはずだけど」

「“こうありたい”という願望だけでは砂上の楼閣です。――そこに至る動機と覚悟が伴わなければ、力は形になりませんよ」


 ギルドランク最高位――ランク5に至るためには、想いだけでは不十分。

 日々願い続けているだけで手に入るなどという、甘い幻想を抱いているうちは、一生辿り着けない境地だ。

 その証明のように、国にわずか五人しかいないランク5のひとり――アリアス・ヴァロニアこそが、目の前で言葉を紡いでいた。


「なぜ、ランク5を目指すのか――その根本を明確に持つことです」

 

 アリアスの声は、夜気の中で星明かりを受けながらも凛としていた。

 

「その動機を確かに宿していて、ようやく人はスタートラインに立つ。……では、その先に必要なものは何か」


 言葉を区切り、アリアスはゆっくりとディライトへ視線を落とす。


「――動機を貫き通す“姿勢”。それこそが重要です」

「姿勢?」

「他を顧みず、自己本位に在り続ける――これが、中々難しい。あ、他人を差し置いて身勝手に生きろ、ということではありませんからね」


 アリアスの言葉は、抽象的でどこか掴みづらい。

 それでも、ディライトにはなんとなく伝わるものがあった。

 ――ランク5を望む想いを持ち、その理由を見つめ、そして何よりもそれを最優先にしろ、ということだろうか。

 思考を巡らせるディライトのもとへ、湯気を纏いながら立ち上がったアリアスが歩み寄る。

 そして、濡れた手でそっと彼の頭に触れた。

 

「ディ、あなたを弟子にしたのはね、もうその素質を備えていたからですよ――余裕ぶる癖が玉に瑕ですけどね」

「……我が儘小僧ってこと?」

「ふふ……そう解釈するなら、間違いではありませんね」


 アリアスのからかいに、ディライトは口をへの字に曲げた。

 水気を拭き取りながら衣を身にまとったアリアスは、ふと弟子に問いかける。


「なぜ、ランク5を目指したいのです?」

「俺は――」


 その瞬間、遠い過去の記憶が霞んでいく。

 意識は無理やり現在へと引き戻され、耳に飛び込んできたのは重い足音だった。




 意識を手放したのは、ほんの刹那。

 霞んでいた視界が焦点を結ぶと同時に、魔法生物と化したケインの拳が目前に迫っていた。

 時が引き延ばされたように流れ、思考だけが鋭く加速していく。

 唐突に過去を思い出したからといって、ケインに抱く後悔が薄れるわけではない。

 ――廃教会の時。

 動きに鈍りがあったといえど、最初から全力を尽くしていれば、スティレオが『転移』を使う前に止められたはずだった。

 それをしなかったのは、間違いなく自分の怠慢だ。

 魔法生物へと変えられた浮浪者たちを撃つことに、確かに抵抗はあった。憤りもあった。だが同時に、力の差を背景に相手を測りながら余裕を保つ――そんな悪癖が、己の判断を鈍らせていた。

 もしあの場でスティレオを捕らえていれば、今こうしてケインが化け物となって拳を振り下ろすことはなかった。

 それは師から幾度も指摘されてきた欠点だった。だが、直そうと考えたことは一度もない。

 適度に力を抜き、ここぞという瞬間だけで全力を振るう――それが生来の性分であり、常に全力を張る生き方など、ディライトにはただの消耗でしかなかった。

 けれど、その甘さを自ら否定できていれば。

 この最悪の結末は、避けられたのではないか。

 わかっているからこそ、悔恨に絡め取られ、体が動かない。

 謝罪を込めるように、ディライトはただ、その名をかすかに呟いた。

 

「――ケイン」


 魔法生物が巨腕を振りかぶり、拳がディライトの顔面を叩き砕かんと迫った、その瞬間。

 衝突寸前で、動きが止まった。

 突如として訪れた異常に、スティレオが声を裏返す。


「どうした! トドメを刺せ!」

「お前……」


 ディライトの視線が、魔法生物と化したケインの瞳を捉えた。

 そこに宿っていたのは、かつて人間だったケインの、確かな意思。


 堕とされてもなお、抗っている――。


 それに比べ、自分はどうだ。

 ディライトは奥歯を噛み締め、拳を太ももへ叩きつけて立ち上がった。

 足元に転がる拳大の瓦礫を拾い上げ、魔力を込める。

 魔法生物としての使命と、人間としての意志、その板挟みに苦しむケインから目を逸らさぬまま、ディライトは二階の通路に潜む魔法生物の一体へと投げ放った。

 乾いた音と共に直撃を受けた小柄な魔法生物が崩れ落ちる。

 封魔の陣を展開する魔法生物は複数存在する。一体を仕留めただけで陣が消えることはない。

 だが効力は確実に揺らいだ。

 ――両拳に『反触ノ域』を纏えるほどには。

 ディライトは右拳を強く握り、そこへ左の手を重ねる。

 魔術の極地――『衝咆』を放つための、溜め。

 星明かりすら吸い込むような、重苦しい沈黙が場を支配した。


「おいッ! さっさと動け、何をしているッ!?」


 重複した魔術の作用が反発し、矛盾しあうことで膨大なエネルギーが生まれ――それが右拳へと収束していく。

 ディライトは、しっかりとした意思を宿す瞳を持つ魔法生物――ケインへと正面から視線を返した。

 ――止まるな。

 そんな叫びが、言葉ではなく意志として伝わってくる。

 

「さよならだ、ケイン。……ほんの束の間だったけど、良い休暇だった!」

 

 その言葉に応えるように――人としての最後の一瞬を、ケインは友としての誇りで繋いでいた。

 動きを止めた巨躯へ、破壊的な力を宿した拳が突き刺さる。

 炸裂する衝撃音と共に、ケインの身体には大穴が穿たれた。


 ――それでも。


 残された力を振り絞るように、ケインの腕がかすかに動き、ディライトの肩に触れた。

 攻撃ではない。ただ、友としての最後の合図。

 すぐにその腕は力を失い、巨躯は地を揺らして倒れ伏す。

 瞳から光が消えるその刹那まで、ケインは確かに抗い続けていた。

 ディライトはわずかに瞑目し、その死を悼む。

 そして目を開いた時、そこに宿っていたのは、鋭い眼光と決意だった。

 再び拳に矛盾のエネルギーが収束していく。

 怯え、命乞いをするより早く、ディライトの身体はスティレオの目前へと躍り出ていた。


「待っ――」

「死ね」


 容赦のない拳が、今度は敵を貫いた。

 凄まじい衝撃に耐えきれず、スティレオが懐に収めていた【互酬匣】が飛んでいき、床を転がっていく。

 乾いた音を立てて止まったそれを、ディライトはためらいなく拾い上げた。


 血を吐き散らし、壁際に叩きつけられたスティレオは、すでに息絶えたかに見えた。

 だが次の瞬間、痙攣のようにその指先がピクリと震えた――まだ、意識の火は完全には消えていなかったのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る