第32話 血戦、ディライト対ケイン
中央区、大聖堂。
スティレオを追ったディライトは、ついにその前に立っていた。
夜の街であっても、ここには信仰を示しに来る人々がちらほらいたはずだ。だが今は、祈りどころか、足音すら響かない。
息を呑むほどの沈黙――まるで音という概念そのものが、この場所から失われたかのようだった。
廃墟と呼ばれても通用するほどの異様な静けさに、ディライトは「不気味だな」と肩をすくめる。
だが、立ち尽くしている暇はない。スティレオは必ず、この奥で待ち構えている。
『……おいディ。また教会じゃねぇかァ』
「皆まで言うな。俺だって、当分は見たくなかったよ」
ディライトは右手に【黒喰ノ銃】――グレッグを握りしめ、その声を押し黙らせると、重厚な二枚扉の前に立つ。
両手を押し当てた瞬間、鉄と木の軋む低い音が夜気を切り裂き、暗闇の祈りの間が口を開けた。
闇の最奥に、スティレオはいた。
言葉を発さず、ただ鋭い視線だけで貫いてくる。
ディライトもまた一切視線を逸らさず、挑むようにその眼差しを受け返し、堂々と中央へと歩みを進めた。
そして彼が立ち止まった刹那、背後の扉が音を立てて閉ざされ、同時に蝋燭とシャンデリアへと次々に火が灯っていく――。
「待っていたぞ――ディライト・ノヴァライト」
「さては、お前信徒でしょ。教会なんて、一日に何度も行くもんじゃないから」
「信徒だと? この私が?」
ディライトの言葉をスティレオは鼻で笑った。
「もし神などというあやふやな存在がいるのなら、私の人生はこうなってはいない。……それに、名を告げたはずだ。スティレオ・ブラウンとな」
「知るか。二度も逃げたやつの名前なんて、わざわざ覚える気はないんだよ。不幸自慢までセットなら、なおさらな」
皮肉を吐き捨てるディライトに、スティレオは溜息を吐いた。
スティレオが教会を決戦の場に選んだのは、信仰ゆえではない。ただ作戦上の都合であり、そこに
ゆえに敗北は許されなかった。撤退など、もはや選べる道ではない。
――そして何より、スティレオの歪んだ矜持が、ディライトに己の名を認めさせようと渇望していた。
「やはり貴様と話をするのは不愉快だ」
「奇遇だね、俺もだよ。さっさと始めよう」
「賛成だ。ならばまず、場にふさわしい音楽を奏でようか」
そう言うと、辺りに耳を裂くような不調和音が満ちた。
ガラスを爪でひっかくような、背筋を逆なでする音が重なり合い、やがて濁りきった旋律へと変わっていく。
音の方へと視線を向けたディライトの目に映ったのは――法衣を纏いながらも決して人間ではない、小柄な存在だった。
のっぺりとした顔に目も鼻もなく、口だけが貼りついた異形。
それらが二階の壁沿いの通路に、等間隔でずらりと並び、まるで合唱隊のように不快な音を奏でていた。
「……屑め。聖歌隊の子たちを弄んだろ」
「どうだったかな。存在しもしないものに祈りを捧げ、救いを乞う――誠実を欠いた愚か者の顔など、覚える価値もない」
「誠実と独善を履き違えてるよ。……で、何この音――グレッグ?」
大聖堂にいた聖歌隊の子供たちを、魔法生物へと無残に変えた――その非道な行為に、ディライトは吐き気すら覚えた。
スティレオの言う「誠実」とやらは、結局は身勝手を取り違えた歪んだ理屈にすぎない。
耳障りな音が鳴り響く中、ディライトは身構える。しかし次の瞬間、異変は思わぬところから現れた。
握っていたはずの銃が、唐突に形を変え、細い鎖に吊られたペンダントとなって首元に収まったのだ。
『この音を聴いているとよォ……眠くなって……す、まね――』
普段なら口やかましく存在を主張するグレッグが、いまはただの飾りのように首元で沈黙していた。――意識を深淵へ沈められたかのように。
魔道具が強制的に封じられたと悟ったディライトは、すぐさま固有魔術【反触ノ域】を展開しようとする。だが術式は形を結ぶ前に崩れ、魔力は煙のように散っていった。
――これは知っている。
迷宮で稀に遭遇する、魔力そのものを拒む罠。逃げ場を奪う、最悪の結界だ。
「――”封魔の陣”か!」
「クク……察しがいいな。だがもう遅い。貴様の道具も、術も、この結界の中では無力だ!」
魔法生物たちの喉から絞り出される異音は、ただの不快音ではなかった。
その不協和は魔法を編み上げ、魔力を糧とする道具や術を縛り付けていく。
――魔術も魔道具も選択肢から奪うために。
そのためにこそ、スティレオは決戦の場として大聖堂を選んだのだ。
だが――封じられたからといって、何になる。
ディライトの眼差しに焦りはなく、依然余裕は失われていない。
魔力の流れを封じられようと、体内に宿る力まで奪われたわけではない。
出力は落ちる――だが、肉体を強化させるには十分だ。
そして、その制約は目の前のスティレオにも等しくのしかかっている。
「殴り合いでお前に負ける気しないんだけど」
「だろうな。だが、相手は私ではない」
轟音とともに天井が破砕した。
砕け散った石片と砂埃の雨の中から、巨大な影が落ちてくる。
着地と同時に床を揺らし、瓦礫を踏み潰して姿を現したのは、常軌を逸した魔法生物だった。
両腕は醜悪に膨れ上がり、露呈した筋肉が破裂しそうなほど肥大している。
その異常な太さは胴や脚にまで及び、大木を思わせる巨躯を形づくっていた。
潰れた顔面には鼻も口もなく、蟹のように突き出した2つの目だけが、異様に天を仰いで光っている。
――紛れもなく、【互酬匣】の代償で人の姿を捨てさせられた怪物。
だが、ディライトの視線が吸い寄せられたのは、異形の肉体そのものではなかった。
右腕に嵌められた、どこか見覚えのあるグローブ。
形が大きく変わろうとも、そのデザイン自体は、彼がよく知る人物の象徴だった。
「…………ケイン」
ディライトの口から名が漏れた瞬間、スティレオが嗤う。
「支部長との再会だ! 喜びたまえよ!」
異形の登場が、不協和音を紡ぐ魔法生物たちの喧騒が、スティレオの嘲笑が――。
全てが不快なざらつきとなって、ディライトの神経を削り取っていく。
両腕を構え、獣のように戦闘態勢をとる異形と化したケインへと、ディライトは苦悶と怒気の入り混じった表情を向けた。
悲しみ、怒り――負の感情に突き動かされるまま、名を叫ぶ。
「――ケインッ」
その声が引き金となったかのように、魔法生物は床を砕きながら踏み込み、右の直拳を突き出した。
呼応するように、ディライトも全力で拳をぶつける。
拮抗は刹那。
押し負けたのは、ディライトだった。
弾かれた右腕が後方へと逸れ、隙を晒した身体へと振りかぶられる巨腕――。
咄嗟に左腕で受け止め、衝撃に全身を震わせながらも、大きく後退して体勢を立て直す。
封魔の陣によって魔力出力を奪われた今、ディライトの力は大きく削がれていた。
対してケインは【イカした革手袋】を基点に、魔法生物として更なる膂力を付与されている。
力の軍配は、ケインへと上がった。
「フハハハハッ! やはりな!」
スティレオは歓喜の笑みを浮かべ、声を張り上げる。
「貴様の洗練された魔力強化術……一時はどうなることかと思ったが、やはり魔法生物として底上げされた支部長の方が力は勝るようだな!」
「――れ」
「……あぁ?」
追撃するようにケインが拳の嵐を叩き込む。
だが、力こそ劣れど、身体捌きと速度はディライトが上。
拳を打ち合うのではなく、かわし、受け流し、軌道を逸らす――薄氷を踏むような攻防が続く。
その最中に、ディライトが低く呟いた。
小さすぎて聞き取れなかった言葉に、スティレオは眉をひそめ、耳へ手を添える。
「……なんだと?」
「――黙れって言ってんだよ、屑野郎‼︎」
激情が爆ぜるように放たれた咆哮。
スティレオは一瞬の沈黙ののち、呵々大笑した。
「ハッハッハッ――! 負け惜しみにしか聞こえんなぁ!」
ディライトの罵詈雑言に、スティレオは嘲笑で返した。
だがその眼差しは冷静に戦況を見据えている。
力は勝れど、状況は拮抗――互いに決定打を欠き、膠着が続いていた。
このままでは埒が明かぬと、スティレオは穴が空いた天井の更に上、上空に控えていた魔法生物へと声を張り上げる。
「行けッ!」
スティレオの号令に応じ、怪鳥が天井から急降下した。
嘴が眼前に迫り、ディライトは身をひねりながら拳で迎撃する。だが、力を削がれた今の拳では肉を裂くことすらできない。
すぐさま振りかざされたかぎ爪――その刹那を避ければ、背後からケインの巨腕が振り抜かれる。
息つく暇もなく襲いかかる連撃に、ディライトの動きは防御と回避に縛られていった。
「鬱陶しいな!」
ジリ貧の状況に、ディライトは歯嚙みした。
毒づきはするものの、鋭利な嘴も、肉を抉るかぎ爪も、骨を砕く巨腕も――その連携は確かに厄介だった。
巨腕をくぐり抜け、二体との間にわずかな間合いを作る。
迫りくる敵影を見据えながら、脳裏で戦況を迅速に組み立てていく。
――一撃は、くれてやるしかない。
先に潰すべきは、上空を舞う異形の怪鳥。
再び嘴を突き立ててくる瞬間を待ち構え、ディライトは右拳に全力の魔力を込めた。
避けざまに放った渾身の一撃が、怪鳥の腹部を撃ち抜いた。
轟音とともに血肉を撒き散らし、怪鳥は地に墜落する。
だが、それはディライトにとって致命的な隙だった。
血肉を撒き散らした怪鳥の屍を踏み砕き、ケインが巨躯を躍らせる。
迷いも溜めもない、純粋な膂力のみを宿した拳が――渾身の勢いでディライトへと叩き込まれた。
「チッ」
巨腕が屍を越え、唸りを上げて突き刺さる。
直撃の瞬間、ディライトは腹部へと魔力を一点に収束させ、防御を極限まで高めていた。
直撃を受けたディライトは、衝撃で地を滑るように後退した。口端から赤い滴がこぼれるが、すぐに袖で拭い去る。
なおも、巨腕を振りかざして突進する魔法生物へ、ディライトは感情を爆ぜさせた。
「ケインッ! 目を覚ませッ!」
「無駄だ。既に、そいつに自我などない」
ケインの猛攻をかいくぐり、再び拳と拳の応酬へと転じる。
だが――先ほどの直撃が確実に響いていた。動きは鈍り、最初の切れ味は次第に失われつつある。
かすめる程度だったケインの拳が、徐々に肉を打ち、骨を震わせ始める。
その現実を振り払うかのように、ディライトは何度も咆哮を上げた。
「ケインッ‼︎」
「――無駄だと言っているだろうがッ! 魔法生物と化した存在が、再び人間へと戻ることはありえんのだ!」
なおも魔法生物へと叫び続けるディライトの姿に、スティレオはいらだちを募らせる。
その言葉どおり、人間だったころの名を呼ばれても、異形は一切の反応を見せず、ただ獣のごとき猛威を休みなく叩きつけてきた。
――そしてついに、1つの拳がディライトの胸を深々と打ち抜いた。
「――ぐッ!」
振りぬかれた巨拳を受け止めきれず、ディライトの身体は背後の壁へと叩きつけられた。
肺から空気が一気に絞り出され、喉は焼けるように乾き、呼吸は荒く乱れる。
視界が白くかすみ、膝が砕け落ちそうになる。
沈みゆく意識の縁でとらえるのは、迫り来る巨躯の足音と、遠くで反響する耳障りな嘲笑――そして、胸を締めつける悔恨だけだった。
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