夜香と煙霞の花街譚

義倉茶房

第1話

 人里離れた森の中。

 霧と静寂だけが立ち込める黒い森の奥に、広大な敷地と、その中にひっそりと佇む洋館があった。

 その館には灰色の髪を持つ、人の枠を外れた美貌の主と、その方に仕える金髪の青年だけが住んでいる。彼等は外界と混じり合わず、時折僅かな接触だけを持ちながら、二人だけの世界で生きていた。




「アイーザ!ほら、もう朝ですよ!」

 屋敷に仕える金髪の青年、ロイドが主が眠る布団を思いっきり剥ぎ取った。

 屋敷の主であるアイーザはその大きすぎる寝台の中、灰色の浴衣に黒い帯を纏った姿で、白い海の真ん中に横たわり寝息を立てていた。布団を剥ぎ取り、肌寒さを感じる筈なのに、アイーザは起きる気配が無い。

 ロイドはそんな主の布団を床に落とし、ベッドへと乗り上げ、大きくアイーザの肩を揺すり、実力行使にでたのだった。

「アイーザ!いい加減にしてください、いつもいつも!」

 それが仕える側の言い草か、と言われるかもしれないが、こうでもしないと…いや、ときはこれ以上でないと、アイーザは起きない。 

 ロイドが大声で叫びながら、全力で揺すっているというのに、いつも起きないアイーザがおかしいのだ。すると、アイーザが青紫色の瞳を薄っすらと開けた。

「ロイド…」

「あ!起きたんですね?全く…、どうして貴方は毎度…っ!?」

 アイーザはロイドの腕を掴むと、その白く細い腕のどこにそんな力があるのだというほどの力でロイドをベッドへ沈め、腕の中へと抱き込んでしまう。

「寒い…」

「それならさっさと起きてください!」

 私で暖を取るな!とロイドが暴れるが、アイーザの馬鹿力はそれすらも簡単に封じてしまう。そうでなくともアイーザはたちが悪いのに、更にたちが悪いのは、ロイドがアイーザに弱いことを完全に理解していること。

 こうして腕の中に閉じ込められて、アイーザの匂いと体温に包まれれば、ロイドはもう強く抵抗できないことを知っている。そして、ロイドは体温が高いから、抱き枕にも、毛布の代わりににも丁度いいということも知っている。

 また、そうされる事がロイドの喜びの一つであるということも、アイーザは知っているのだ。

「狡い…」

「今更でしょう…?まだ暗いんですから、寝かせてください…」

「もう七時です。暗いのは此処がいつも黒くて厚い雲に覆われてるからですよ…」

そう言いつつも、ロイドは結局、アイーザと二度寝に巻き込まれてしまうのだった。


 ロイドが何故この館で、アイーザと二人過ごしているのか。

 それを説明するには、時をかなり遡る必要がある。




 その頃のロイドは、とある富豪の屋敷に仕える下男であった。

 都でそこそこの財を築き、アイーザの屋敷ほど立派ではないものの、都の財や権力を持つ者達が屋敷を構える一等地に、その富豪の屋敷はあった。

 ロイドの仕事は主に、雑用、力仕事に掃除、それから御用聞きという名の、端的に言えば使いっ走りだった。主に奥様や一人娘の御令嬢が、あれやこれやと頼むので、ロイドは頻繁に街に出ては、買い物等の用事を済ませていた。


 その日もロイドは娘に呼ばれ、街に出ていた。

 目的は街の外れ、花街との境にあるという煙草屋だった。


「何でも其処は御香も取り扱っているらしいの。その御香は、誰もを引き付ける、魅惑と幻惑とも呼べる至上の御品なんだとか…」

「はぁ…、そう、なんですね…」

「だからね、その御香を買って来て欲しいの。私が渡す予算の内で、私に似合う香りをお願いするわ」

「承知しました。お嬢様…」


 そうは言ったものの、ロイドには御香などさっぱり分からない。女中の誰かに頼めば良いものを、何でもその煙草屋の主は双子の若い男達で、この世の者とは思えぬ程の大層な見目麗しい白皙の美人らしいく、彼等を見た女は瞬く間に虜となり、二度と帰って来ぬのだとか…。

「全く、尾鰭に背鰭に胸鰭まで付いたような話ですね…」

 どうせ、この手の話は美丈夫だとか傾城だとか言われながら、実際見てみれば大した事ないなんてのがざらだ。きっと、そこそこ顔立ちの整った双子という存在が珍しいから、そこまで話が膨らんだに違いない。

 

 ロイドは、人の容姿に関しては、多少厳しい目を持っていた。

 それは、ロイドが花街の生まれだからだ。花街を根城とする男女は皆、それはそれは美しい容姿をしていた。

 花の種類が多種多様あるように、花街の美しさもまた多種多様だった。

 日向に咲き誇る大輪の花のように、大衆の目を引き付ける者。木陰に咲く小さく可憐な花のように、見る者の心を癒やす者。唯一無二の個性を持ち、不思議と視線を奪う者、一見は派手さも可憐さも無いが、特殊な色香を放ち惑わす者。

 そんな多種多様な美しさを見てきたので、ロイドはちょっとやそっと顔が整っている程度の者には、皆が言うほど美しいと思ったことがない。

「どうせ、今回も実物を見てガッカリするんでしょうね…」

 そう思いながら、大した期待もせず、ロイドは目的地へと急いだ。



 都の中心部は、一等地の住宅街とは違う繁栄と華やかさを持っている。

 タイルの歩道、石畳の車道、広い車道の中央には路面電車が走る。蒸気と数多の人の喧騒がひしめき合い、積み上がるレンガと石造りと木造という、古きものと新しきものが混じり合うこの街の風景も、ロイドは嫌いではなかった。


 そんな街中を突っ切って、住宅街とは反対側の端へとロイドはやって来た。そこは、先程までの華やかさとは違う、どこか夜の香りと、荒廃と、虚飾が彩る街であった。

 けれど、ロイドにとっては、こちらのほうが落ち着くのだから、生まれとは本当に恐ろしいものである。



 目的の煙草屋を見つけるのは骨が折れた。

 煙草屋というからそれらしき店を探したのだが、全く見つからない。そこでロイドは結局、この辺りの住人らしき女性から、双子が営む煙草屋の場所を聞くことにした。

「え?煙草屋?さぁ、此処にそんな店あったかしら?」

「え!?花街との境にあるって聞いたんですけど、違うんですか?」

「あぁ、そうじゃなくて…。そう言って探しに来る人達、特に女が多いんだけど、必ず見つかるわけじゃないのよね」

「…どういう事ですか?」

 彼女曰く、その店は分かりにくい裏路地にあるのか、将又現れたり消えたりするのか、必ずしも誰もが見つけられる店では無いらしい。

「そんな…、オカルト話じゃあるまいし…」

「アハハッ!あたしもそう思うわ。けどね、それが事実なの。飲み屋の女の子も探したらしいけど、見つけられなかったって泣いてたもの」

「そうなんですね…。ありがとうございます」

 ロイドは丁寧に御礼をして、女性と別れた。

 しかし、これは厄介なことになった。まさか、そんな面倒くさい店だとは思わなかった。

「帰りたい…」

 ロイドは大きく肩を落としたが、見つけられなかったと言ったら、あの我儘お嬢様が騒ぐに違いない。仕方なくロイドは、更に暗い裏路地へと脚を進めたのだった。


 裏路地にあるのは飲み屋、賭博場、怪し気な骨董屋に薬屋。煙草屋は見つからない。

 慣れぬ者は躊躇するだろう雰囲気の店ばかりが立ち並ぶ薄暗い場所を、ロイドは物知り顔で進んで行く。しかし、進めども進めども、煙草屋なんて無い。

 ロイドの脚は疲労が溜まっていて、潰れて廃墟となった建物の前で少し休むことにした。以前は何か商売をしていたのだろう出入り口の石造りの階段に腰掛け、ロイドは項垂れていた。

 ズルズルとロイドの上半身は前へ前へと折れ曲がり、その視線は自然と足元へと降りていく。そのまま、ぼーっと地面を見ていた。

 手ぶらで帰ったら、絶対にお嬢様は癇癪を起こす。けれど、オカルトじみた煙草屋なんて、到底見付かりっこない。そんなお嬢様と煙草屋を天秤にかけ、ロイドの心は揺れていた。それがさらなる疲労となり、重く伸し掛かる。

 

 そんな時だった。

 ロイドの鼻を擽る夜の艶と怪しさ、その中に潜む静けさと支配を含んだ硬質で鋭利な香り。それが香った瞬間、ロイドは瞬時に顔を上げ、その匂いの主を探してしまった。



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