第3話 口を閉ざす剣士
夕日が遺跡を赤く染める。
広間で、アサギとヴェルナーは向かい合って座っていた。
テーブルには二つのカップ。立ち上る湯気が、夕日に照らされて金色に見える。
沈黙が流れる。
長く、重い沈黙。
フィーはアサギの肩に乗り、赤い光を放ちながらヴェルナーを警戒している。
ヴェルナーは黒い外套に身を包み、腰には剣を下げている。その姿は、かつて城で見た護衛騎士そのもの。でも——表情は違う。
険しく、でも疲れている。
まるで、長い旅をしてきたかのように。
「ヴェルナー」
アサギが先に口を開く。
「どうやって、ここを?」
「追跡の訓練は受けています」
ヴェルナーの声は低く、感情を押し殺している。
「馬車の轍、足跡、そして——あなたの癖」
「癖......?」
「あなたは道を選ぶとき、必ず森の深い方へ向かう。人目を避けるために」
アサギは小さく息をつく。
「よく覚えているのね」
「10年以上、あなたの護衛を務めてきましたから」
10年——。
アサギが10歳の時から、ヴェルナーは傍にいた。
いつも無口で、感情を表に出さない。でも、いざという時には必ず守ってくれた。
そんな彼が——今、追手として来ている。
「紅茶が冷めるわ」
アサギはカップを指差す。
ヴェルナーは一瞬躊躇するが、カップを手に取る。
でも——口には運ばない。
「毒は入っていないわ」
アサギが淡々と言う。
「......それは分かっている」
「なら、なぜ飲まないの?」
ヴェルナーは答えない。
ただ、カップを見つめている。
「この紅茶を飲めば——何かが変わってしまう気がする」
小さく呟く。
アサギは首を傾げる。
「何が変わるの?」
「分からない。でも——」
ヴェルナーは顔を上げる。
「あなたが淹れた紅茶を飲むことは、何か——意味がある気がして」
フィーの光が、少しだけ青くなる。
アサギは微笑む。
「ただの紅茶よ。飲んでも、何も起こらないわ」
嘘だ。
この紅茶は特別だ。心の奥に隠れているものを浮かび上がらせる。
でも——それを言う必要はない。
ヴェルナーは意を決したように、カップを唇に運ぶ。
一口——。
その瞬間。
ヴェルナーの手が、微かに震えた。
カップを置く音が、やけに大きく響く。
彼は目を閉じ、何かに耐えるような表情を浮かべる。
「ヴェルナー?」
アサギが心配そうに声をかける。
でも、彼は答えない。
ただ——記憶の中に沈んでいく。
ヴェルナーの脳裏に、記憶が蘇る。
幼い頃——12歳の時。
彼は剣術の訓練場にいた。汗を流しながら、木剣を振る。
『ヴェルナー』
師匠の声が響く。
『お前に、重要な任務を与える』
師匠は真剣な表情で言った。
『城に、一人の少女がいる。その子の護衛を務めるのだ』
『護衛......ですか』
ヴェルナーは緊張する。まだ12歳の少年に、そんな重責が任されるのか。
『その子は——特別だ。王族の血を引いている』
『王族......』
『でも、それは秘密だ。誰にも知られてはならない』
師匠は声を潜める。
『お前の任務は、その子を守ること。そして——』
師匠の目が、冷たくなる。
『自由を与えないこと』
ヴェルナーは息を呑む。
『自由を......与えない?』
『そうだ。その子が王族としての自覚を持たないように。城の外に出ないように。そして——本当の身分を知らないように』
『それは......守るということですか?』
『守るということだ』
師匠は断言する。
『その子を外の世界から守る。危険から守る。そして——自分自身からも守る』
ヴェルナーは理解できなかった。
でも——命令には従わなければならない。
それが、騎士の務めだから。
数日後。
ヴェルナーは初めて、アサギと会った。
城の庭。花が咲き乱れる中、一人の少女が座っていた。
10歳くらい。長い黒髪、大きな瞳、そして——どこか寂しそうな表情。
『あなたが、アサギ様?』
ヴェルナーは緊張しながら声をかける。
少女は顔を上げる。
『......はい』
『僕はヴェルナー。今日から、あなたの護衛を務めます』
ヴェルナーは片膝をつき、頭を下げる。
『守ります、姫様』
その瞬間——。
ヴェルナーは気づいた。
「姫様」と呼んでしまったことに。
慌てて訂正する。
『いえ、失礼しました。アサギ様』
アサギは不思議そうに首を傾げる。
『姫様......?』
『いえ、何でもありません』
ヴェルナーは顔を上げる。
アサギの瞳が、じっと自分を見つめている。
その瞳には——疑問と、そして少しの期待が宿っていた。
『これから、よろしくお願いします』
アサギは小さく微笑む。
ヴェルナーの胸が、微かに痛んだ。
この子を——守るのか、それとも囚えるのか。
その答えは、まだ分からなかった。
記憶が流れる。
何年も経ち、アサギは成長した。
美しく、聡明に。
でも——いつも寂しそうだった。
城の中だけで生き、外の世界を知らず、友人もいない。
ヴェルナーはいつも傍にいた。
護衛として。
監視者として。
ある日、アサギが言った。
『ヴェルナー』
『はい』
『あなたは......なぜ私の護衛を?』
ヴェルナーは答えに詰まる。
『命じられたからです』
『それだけ?』
『......それだけです』
嘘だった。
本当は——もっと複雑な感情があった。
守りたい。
でも、囚えている。
自由にしてあげたい。
でも、それは許されない。
アサギは続ける。
『私のこと、知っているの? 本当のことを』
ヴェルナーは立ち止まる。
長い沈黙。
そして——。
『知っています』
『やはり......』
『でも、それは口にできません。それが、私の職務です』
ヴェルナーは再び歩き始める。
アサギは彼の背中を見つめる。
その背中には——重荷が乗っているように見えた。
記憶が戻る。
ヴェルナーは目を開ける。
目の前には——成長したアサギが座っている。
もう、城にはいない。
自由を手に入れた。
そして——自分は追手として来ている。
「私は......」
ヴェルナーが呟く。
「あなたを守っていたのか、それとも囚えていたのか」
アサギは静かに答える。
「両方よ」
ヴェルナーは顔を上げる。
「両方......?」
「あなたは私を守ってくれた。危険から、陰謀から」
アサギは微笑む。
「でも同時に、私を囚えていた。城の中に、嘘の中に」
「......すまない」
「謝らないで」
アサギは首を振る。
「あなたを責めたりはしない。あなたも、命令に従っていただけ」
フィーの光が、少しだけ金色に変わる。
ヴェルナーは紅茶を見つめる。
「この紅茶は......何か特別なのか」
「どうして?」
「飲んだ瞬間、記憶が——鮮明に蘇った」
アサギは少し驚く。
やはり、ヴェルナーも紅茶の効果を感じたのだ。
「この遺跡の紅茶は、心の奥に隠れているものを浮かび上がらせるの」
「心の奥に......」
「ええ。忘れていたこと、目を背けていたこと、そして——本当の気持ち」
ヴェルナーは沈黙する。
長い、長い沈黙。
やがて、彼が口を開く。
「連れ戻すよう命じられている」
アサギの心臓が高鳴る。
「......そう」
「でも——」
ヴェルナーは言葉に詰まる。
カップを握りしめ、唇を噛む。
フィーが心配そうに二人を見つめる。光は青く——悲しみを表している。
「でも、私は——」
ヴェルナーの声が震える。
「どうすればいいのか、分からない」
夕日が沈み、部屋が暗くなり始める。
フィーが光を強め、部屋を照らす。
アサギは立ち上がり、ランプに火を灯す。
揺れる炎が、二人の顔を照らす。
ヴェルナーは顔を伏せている。
その肩が、微かに震えている。
「私は、ずっと——」
小さな声。
「あなたに自由になってほしいと思っていた」
アサギは息を呑む。
「でも、それを口にすることは許されなかった」
ヴェルナーは顔を上げる。
その瞳には——苦悩が浮かんでいる。
「騎士として、命令に従わなければならない」
「でも、一人の人間として——あなたを見ていた」
「人間として......」
アサギは繰り返す。
「そう。護衛対象としてではなく、一人の——」
ヴェルナーは言葉を飲み込む。
フィーの光が、突然ピンク色に変わる。
アサギは驚いてフィーを見る。
フィーは小さく頷く——何かを感じ取ったようだ。
「ヴェルナー」
アサギが優しく呼びかける。
「あなたは優しすぎるのよ」
「優しい......?」
「ええ。だから苦しんでいる」
アサギは微笑む。
「でも、それがあなたの良さでもある」
ヴェルナーは黙って聞いている。
「だから——今日は見なかったことにして」
「......それはできない」
ヴェルナーは首を振る。
「見なかったことにすれば、私は嘘をつくことになる」
「でも——」
「もう、嘘はつきたくない」
ヴェルナーは立ち上がる。
でもすぐには出て行かない。
窓の外を見つめながら、言葉を探している。
「職務と......個人的な感情の間で」
カップを置く音が大きく響く。
「私は、ずっと揺れていた」
「あなたを守らなければならない」
「でも、あなたを苦しめたくない」
「あなたを城に連れ戻さなければならない」
「でも、あなたに自由になってほしい」
ヴェルナーは振り返る。
「矛盾している」
「ええ」
アサギは頷く。
「でも、それが人間よ」
フィーがアサギの肩から飛び立ち、ヴェルナーの前に浮かぶ。
ピンク色の光を放ちながら。
「ねえ」
フィーが言う。
「あなた、アサギのこと好きでしょ?」
ヴェルナーは驚いて固まる。
「フィー!」
アサギが慌てて止める。
でも、フィーは構わず続ける。
「ボク、分かるんだ。誰かが誰かを好きな時、光がピンク色になるの」
「だから——あなた、アサギのこと好きなんでしょ?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
ヴェルナーは答えない。
でも——否定もしない。
やがて、小さく呟く。
「......分からない」
「え?」
「好きなのか、それとも——ただの忠誠なのか」
ヴェルナーは自分の胸に手を当てる。
「区別がつかない」
アサギは立ち上がり、ヴェルナーに近づく。
「区別する必要はないわ」
「でも——」
「どちらでもいい。大事なのは、あなたが今、どうしたいか」
アサギはヴェルナーの目を見つめる。
「連れ戻したい? それとも——」
ヴェルナーは答えられない。
ただ、アサギを見つめ返す。
その瞳には——迷いと、そして何か別の感情が渦巻いている。
フィーの光が、金色とピンク色の間で揺れている。
長い沈黙の後——。
ヴェルナーが口を開く。
「......時間をくれ」
「時間?」
アサギが繰り返す。
「ああ。答えを出すための時間を」
ヴェルナーは扉へ向かう。
「次に来るまでに、決める」
「何を?」
「職務を取るか——それとも、自分の心に従うか」
ヴェルナーは扉に手をかける。
でも、すぐには開けない。
振り返る。
「アサギ様——いや、アサギ」
初めて、敬称を外して呼んだ。
アサギは驚く。
「無事で」
「......あなたも」
ヴェルナーは微かに笑う。
そして——扉を開け、外へ出る。
馬に乗り、森へ消えていく。
その背中を、アサギとフィーは見送る。
フィーの光が、金色に変わる。
「よかったね」
「何が?」
「ヴェルナー、連れ戻さなかった」
「......ええ。でも、次はどうなるか分からない」
アサギは広間へ戻る。
テーブルには、二つのカップが残っている。
ヴェルナーのカップには、まだ紅茶が半分残っている。
アサギはそれを見つめる。
「彼は......どうするのかしら」
フィーがアサギの肩に乗る。
「分からない。でも——」
フィーは少し考える。
「あの人、優しいよね」
「ええ」
「そして、アサギのこと、好きだと思う」
「フィー......」
「だって、ボクの光がピンク色になったもん」
フィーは自信満々に言う。
「ボクの光は嘘つかないよ」
アサギは微かに頬を赤くする。
「好きなの?」
フィーが無邪気に聞く。
アサギは答えない。
ただ、カップを片付け始める。
「アサギ〜、答えてよ〜」
フィーがしつこく聞く。
「......分からないわ」
小さく呟く。
「分からない?」
「ええ。ヴェルナーは、ずっと傍にいてくれた」
アサギは窓の外を見つめる。
「守ってくれた。でも、同時に囚えていた」
「だから——好きなのか、それとも憎んでいるのか」
「自分でも分からない」
フィーは静かに頷く。
「そっか。難しいね」
「ええ」
二人は沈黙する。
夜が深まり、星が輝き始める。
遺跡は静かで、風の音だけが聞こえる。
「でも——」
アサギが小さく呟く。
「また会えるのは、嬉しい」
フィーは金色に輝く。
「じゃあ、好きなんだよ!」
「そうかしら......」
アサギは微笑む。
本当に、好きなのだろうか。
それとも——ただの執着なのだろうか。
答えは、まだ分からない。
でも——。
ヴェルナーが次に来る時。
その時には——何かが変わっている気がする。
そんな予感がした。
アサギはカップを洗い、片付ける。
フィーは部屋を飛び回りながら、片付けを手伝う。
「今日も疲れたね」
「ええ。でも——」
アサギは窓の外を見つめる。
「悪くない一日だったわ」
「うん! 明日も楽しみだね!」
フィーは金色に輝く。
二人は寝る準備を始める。
でも——アサギの心の中には、まだヴェルナーの姿が残っていた。
彼の苦悩。
彼の迷い。
そして——彼の優しさ。
全てが、心に深く刻まれていた。
ベッドに横たわり、目を閉じる。
フィーは隣で小さく光っている。
「おやすみ、アサギ」
「おやすみ、フィー」
眠りに落ちる前——。
アサギは小さく呟いた。
「また、来てね......ヴェルナー」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
ただ——夜の静けさに、溶けていった。
第3話 完
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