第2話 紅茶と、始まりの朝


 朝の光が、石の隙間から優しく差し込んでいた。

 アサギはゆっくりと目を開ける。一瞬、自分がどこにいるのか分からなかった。見慣れない石の天井、苔の匂い、そして静寂。

 そうだ——私、ここで新しい生活を始めるのだ。

 身体を起こすと、驚くほど疲れを感じない。石のベンチで寝たはずなのに、まるで最高級の羽毛ベッドで眠ったかのような心地よさ。首も腰も、どこも痛くない。

 隣では、フィーが小さく丸まって眠っている。優しい金色の光を放ちながら、すやすやと寝息を立てている。

 アサギは微笑み、そっと立ち上がる。

 窓から外を見ると、ミストが近くの草を食んでいた。朝露に濡れた月毛が、朝日を受けてきらきらと輝いている。

「おはよう、ミスト」

 小さく声をかけると、ミストが顔を上げ、嬉しそうに鼻を鳴らした。

 平和な朝。

 城での朝とは、何もかもが違う。

 城では、使用人が部屋に入ってきて起こされる。着替えを手伝われ、朝食は大広間で一人。決められた時間に、決められた場所で、決められたことをする。

 でも今は——。

 自由だ。

 好きな時に起き、好きなことをする。

 こんなにも、心が軽いのは初めてかもしれない。

「ふわあ〜」

 フィーが目を覚ました。伸びをしながら、金色に輝く。

「おはよう、アサギ!」

「おはよう、フィー。よく眠れた?」

「うん! アサギと一緒だから、ぐっすり!」

 フィーは飛び上がり、アサギの肩に乗る。

「今日は何する?」

「そうね......カフェの準備を本格的に始めましょうか」

「やった! じゃあまず、お菓子作らなきゃ!」

「お菓子......」

 アサギは少し不安になる。

 城では全て料理人が作ってくれた。自分で料理をしたことなど、ほとんどない。

 でも——やってみよう。

「スコーンなら作れるかもしれないわ」

「スコーン! 美味しそう! ボク、味見係ね!」

「まだ作ってもいないのに」

 アサギは笑いながら、キッチンへ向かう。

 泉から水を汲み、材料を確認する。小麦粉、バター、卵、砂糖、塩——全て揃っている。

「よし、やってみましょう」

 記憶を頼りに、生地作りを始める。

 ボウルに小麦粉を入れ、冷たいバターを小さく切って加える。

「えっと、こうかしら?」

 ナイフでバターを切り込んでいく。でも、思ったよりも難しい。粉が飛び散り、顔にかかる。

「きゃっ!」

 フィーがくすくすと笑う。

「アサギ、鼻が真っ白だよ!」

「そう?」

 アサギは手で鼻を拭う。でも、さらに粉が付いてしまう。

「もう、笑わないで」

「ごめんごめん。でも可愛いよ!」

 フィーは嬉しそうに金色に輝く。

 アサギも笑ってしまう。

 こんな風に笑ったのは、いつぶりだろう。

 城では、いつも緊張していた。令嬢として、完璧に振る舞わなければならない。笑顔も、話し方も、歩き方も——全てが決められていた。

 でも今は違う。

 粉まみれになっても、誰も咎めない。

 失敗しても、誰も責めない。

 ただ、自分のやりたいようにやればいい。

「さあ、続けましょう」

 なんとか生地をまとめ、形を整える。不格好だけど、スコーンの形にはなっている。

 石窯に入れ、焼き上がりを待つ。

 だんだんと、甘い香りが漂ってきた。

「いい匂い......」

 フィーが鼻をひくひくさせる。

「早く食べたい!」

「もう少し待って」

 期待と不安で石窯を開ける。

「わあ!」

 少し形は悪いけれど、ちゃんとスコーンになっている。表面はこんがりきつね色。

 熱々のスコーンを皿に乗せ、はちみつを添える。そして、新しく淹れた紅茶と一緒にテーブルへ。

「さあ、フィー。味見してちょうだい」

「やった!」

 フィーはスコーンの小さな欠片を手に取る。

 一口食べて——。

 フィーの光が、金色に輝く。

「おいしい!」

「本当?」

「うん! すっごくおいしい!」

 アサギも恐る恐る、一口かじる。

「......美味しい!」

 サクサクの表面と、中のふんわり感。はちみつの甘さが、紅茶の味を引き立てる。

 プロの味には及ばないけれど、自分で作ったという満足感が最高の調味料だ。

「でもね——」

 フィーが首を傾げる。光が少しピンク色になる。

「もうちょっと甘くてもいいかも!」

「甘く?」

「うん! もっとはちみつ入れるとか!」

「それはトッピングで調整できるわ」

「じゃあ、完璧!」

 フィーの光が虹色に輝く。

 アサギは初めて見る色に驚く。

「虹色......初めて見たわ」

「えへへ、これはね、最高に嬉しい時だけなの!」

 フィーはくるくると回る。

「アサギのスコーン、最高!」

 アサギの胸が温かくなる。

 誰かに喜んでもらえる。

 それが、こんなにも嬉しいことだなんて。

 城では、全てが当たり前だった。美味しい料理も、美しい服も、豪華な部屋も。

 でも、それは誰かが用意してくれたもの。

 自分で作ったものではない。

 今、初めて——自分の手で何かを生み出した。

 そして、誰かを喜ばせた。

 この喜びは、何物にも代えがたい。





「さあ、次は看板を作りましょう」

 アサギはフィーと一緒に、広間へ向かう。

 昨日掃除した広間は、朝日を浴びて美しく輝いている。

「看板......何て書く?」

 フィーが考え込む。

「フィーの茶房!」

「それは却下」

「えー、なんで!」

「あなたの名前だけじゃ、何のお店か分からないでしょう」

「じゃあ、フィーとアサギの茶房!」

「もっと分かりにくいわ」

 二人は笑い合う。

「じゃあ......遺跡茶房、とか?」

 アサギが提案する。

 フィーは首を傾げる。

「シンプルだね」

「ええ。でも、それがいいと思うの。余計な飾りは要らない」

「そっか。じゃあ、それにしよう!」

 フィーは金色に輝く。

 アサギは木の板を見つけ、文字を書き始める。

 丁寧に、一文字ずつ。

『遺跡茶房』

 シンプルだけど、温かみのある文字。

「できた!」

「わあ、素敵!」

 フィーが嬉しそうに飛び回る。

「これを入口に飾ろう!」

 二人は看板を入口に掲げる。

 風に揺れる看板が、朝日を受けてきらきらと輝く。

「いい感じね」

「うん! これで、お客さんが来るね!」

 フィーは期待に満ちた表情で言う。

 でも、アサギの表情は少し曇る。

「フィー」

「うん?」

「私は......何のためにこれをしているのかしら」

 フィーの光が、青くなる。

「寂しいの?」

「......分からない」

 アサギは窓の外を見つめる。

「城にいた時、私はいつも一人だった。使用人はいたけれど、本当の意味で一緒にいる人はいなかった」

「辛かったね」

「ええ。だから逃げた。自由が欲しかった」

 アサギは振り返る。

「でも、自由を手に入れた今——私は何をすればいいのか分からない」

 フィーはアサギの肩に飛び乗る。

「アサギは、誰かと分かち合いたいんじゃない?」

「分かち合う......?」

「うん。この紅茶の温かさとか、スコーンの美味しさとか」

 フィーは優しく言う。

「一人で味わうより、誰かと一緒の方が嬉しいよね」

 アサギは頷く。

「......そうね。そうかもしれない」

 フィーの光が、金色に戻る。

「じゃあ一緒だね! ボクも寂しかったから!」

「一緒......」

 アサギは微笑む。

「ええ、一緒ね」

 二人は抱き合う——いや、フィーは小さいから、アサギの手の中に収まる。

 でも、その温かさは確かにある。

「さあ、紅茶の練習しよう!」

 フィーが元気よく言う。

「お客さんが来た時、美味しい紅茶を出さなきゃ!」

「そうね。頑張りましょう」

 二人はキッチンへ戻る。

 アサギは何度も紅茶を淹れる。

 茶葉の分量、お湯の温度、抽出時間——全てに意味がある。

 一つ一つ、丁寧に確認する。

「これはどう?」

 フィーに差し出す。

 フィーは一口飲んで——。

「うーん、もうちょっと濃い方がいいかも」

 光が少しオレンジ色になる。

「分かったわ。もう一度」

 何度も、何度も。

 そのたびに、フィーの光が変わる。

 オレンジ、黄色、金色——。

 そして、ついに——。

「完璧!」

 フィーが虹色に輝く。

「この味! これが一番!」

「よかったわ」

 アサギも一口飲む。

 深い味わい、豊かな香り、そして——心を落ち着かせる温かさ。

「これなら、お客様にも喜んでもらえるわね」

「うん! 早く誰か来ないかな!」

 フィーは期待で胸を膨らませる。

 アサギも、少しだけ期待している。

 でも——同時に不安もある。

 本当に、誰か来るのだろうか。

 この森の奥深く、誰も知らない遺跡に。

 そして——もし来るとしたら、それは追手かもしれない。

 でも、その不安を押し隠し、アサギは微笑む。

「さあ、お昼ご飯にしましょう。お腹空いたでしょう?」

「うん! スコーンもっと食べたい!」

「またすぐ焼くわ」

 二人は笑い合う。

 穏やかで、温かい時間。

 こんな日々が、ずっと続けばいいのに——。

 アサギは、心の奥でそう願った。





 昼過ぎ。

 アサギとフィーは広間でくつろいでいた。

 窓から差し込む光が、石のテーブルに模様を描く。

 その時——。

 扉を叩く音が響いた。

「誰か来た!」

 フィーが金色に輝く。

 アサギの心臓が高鳴る。

 追手——?

 いや、追手なら扉を叩いたりしない。

 恐る恐る扉を開けると——。

 そこには、老人が立っていた。

 白髪、深いしわ、そして疲れ果てた表情。服は汚れ、杖をついている。

「すみません......水を、少しいただけませんか」

 老人の声は弱々しい。

 アサギは安堵する。追手ではない。

「もちろんです。どうぞ、中へ」

 老人を広間へ案内する。

 椅子に座らせ、フィーが水を持ってくる。

「ありがとうございます」

 老人は水を飲み、少し元気を取り戻す。

「ここは......茶房?」

「ええ。遺跡茶房です。紅茶とお菓子を出しています」

「そうですか......では、紅茶を一杯いただけますか」

「もちろんです」

 アサギはキッチンへ向かい、紅茶を淹れる。

 丁寧に、心を込めて。

 この老人が、初めてのお客様。

 だから、最高の紅茶を出したい。

 金色の液体がカップに注がれる。湯気が立ち上り、甘い香りが広がる。

 広間へ戻り、老人の前にカップを置く。

「どうぞ」

「ありがとうございます」

 老人はカップを手に取り、一口飲む。

 その瞬間——。

 老人の表情が変わった。

 目を見開き、カップを見つめる。

「この味......」

 声が震えている。

「妻が淹れてくれた紅茶と同じだ......」

 老人の目に、涙が浮かぶ。

 フィーの光が、静かに青くなる。

 アサギは何も言わず、ただ隣に座る。

 老人は紅茶を飲み続ける。涙を流しながら。

 長い沈黙が流れる。

 でも、それは苦しい沈黙ではない。

 むしろ、心地よい。

 窓の外では、鳥がさえずり、風が葉を揺らす。

 やがて、老人が口を開いた。

「妻は......もういません」

 静かな声。

「三年前に、病で亡くなりました」

 アサギは黙って聞く。

「妻は紅茶を淹れるのが上手でした。毎朝、私のために淹れてくれた」

 老人はカップを見つめる。

「あの温かさ、あの香り、あの味——全て、覚えています」

「でも、妻がいなくなってから、もう紅茶を飲むことはありませんでした」

 老人は微笑む。悲しそうに。

「思い出すのが辛くて」

 フィーが老人の隣に飛んでくる。青い光を放ちながら。

 老人はフィーに気づく。

「精霊......?」

「うん。ボク、フィー」

 フィーは優しく言う。

「辛かったね」

「ええ......とても」

 老人は再び涙を流す。

「でも、今日——この紅茶を飲んで——」

 老人は顔を上げる。

「思い出しました。妻との日々を。温かい朝を。幸せだった時間を」

 そして——。

「忘れたくない。妻のことを」

 アサギは静かに言う。

「忘れなくていいのよ」

 老人は驚いた表情でアサギを見る。

「忘れなくて......いいのですか?」

「ええ。大切な人の記憶は、心の中にずっと残していい」

 アサギは微笑む。

「辛いこともあるでしょう。でも、それも含めて、あなたの人生」

「そうですね......」

 老人は頷く。

 そして——表情が穏やかになった。

 涙はまだ流れているけれど、それは悲しみだけの涙ではない。

 懐かしさ、愛しさ、そして——感謝。

「ありがとうございます」

 老人は立ち上がる。

「この紅茶を飲んで、少しだけ——心が軽くなりました」

「またいつでもいらしてください」

「ええ、必ず」

 老人は微笑む。

 今度は、本当の笑顔。

 扉を開け、外へ出ていく。

 その背中は——来た時より、明らかに軽くなっている。

 アサギとフィーは、老人が森へ消えるまで見送る。

「よかったね」

 フィーが金色に輝く。

「アサギすごい! あの人、笑顔になったよ!」

「私は......何もしていないわ」

「ううん、してるよ。紅茶を淹れて、隣にいてあげた」

 フィーはアサギの肩に乗る。

「それだけで、十分だよ」

 アサギは微笑む。

「完全に救えたわけじゃない。あの人の悲しみは、まだ残っている」

「でも、少しだけ寄り添えた」

 フィーは頷く。

「うん。それが大事なんだよ」

 二人は広間へ戻る。

 空になったカップを片付けながら、アサギは思う。

 これが——私のすべきこと。

 完全に救うことはできない。

 でも、少しだけ寄り添うことはできる。

 それで十分なのかもしれない。

 心が温かくなる。

 初めて——自分の存在意義を感じた気がした。





 夕暮れが近づく。

 アサギは窓際に座り、紅茶を淹れる。

 今日一日の出来事を振り返る。

 スコーン作り。

 看板作り。

 そして——初めてのお客様。

 充実した一日だった。

 フィーは窓の外を眺めている。

「今日、楽しかったね」

「ええ。とても」

「明日も誰か来るかな」

「来るといいわね」

 二人は微笑み合う。

 その時——。

 遠くから、馬の足音が聞こえた。

 フィーの光が、一瞬で赤く変わる。

「誰か来る!」

 アサギの心臓が高鳴る。

 この足音——聞き覚えがある。

 規則正しく、力強い。

 騎士の馬だ。

「......来たのね」

 アサギは立ち上がる。

 フィーが心配そうに見つめる。

「大丈夫?」

「ええ。大丈夫よ」

 でも、手は震えている。

 扉の前に立ち、深呼吸をする。

 足音が近づく。

 そして——止まった。

 扉の前に、誰かが立っている。

 気配で分かる。

 ヴェルナーだ。

 ノックの音が響く。

 三回。

 礼儀正しく、でも力強い。

 アサギは扉に手をかける。

 でも——開けることができない。

 もし開けたら——。

 ヴェルナーが連れ戻しに来たのなら——。

 この自由な日々は、終わってしまう。

「アサギ......」

 フィーが小さく呟く。

 アサギは決意する。

 逃げても、意味がない。

 いつかは向き合わなければならない。

 ならば——今だ。

 扉を開ける。

 そこには——。

 黒い外套に身を包んだヴェルナーが立っていた。

 銀髪が夕日を受けて光り、青い瞳がアサギを見つめる。

 その瞳には——複雑な感情が渦巻いている。

 安堵、苦悩、そして——何か別の感情。

「アサギ様」

 低く、落ち着いた声。

 でも、わずかに震えている。

「見つけました」

 アサギは答えない。

 ただ、じっとヴェルナーを見つめる。

 長い沈黙。

 やがて、アサギが口を開く。

「......紅茶を淹れるわ」

 ヴェルナーは驚いた表情を見せる。

「え......?」

「話すなら、紅茶を飲みながらの方がいいでしょう」

 アサギは背を向け、中へ入る。

「どうぞ」

 ヴェルナーは戸惑いながらも、中へ入る。

 フィーは赤い光を放ちながら、警戒している。

「フィー、大丈夫よ」

 アサギが優しく言う。

 フィーの光が、少しだけ落ち着く。

 ヴェルナーを広間へ案内し、椅子に座らせる。

 そして——紅茶を淹れに向かう。

 キッチンで、アサギは深呼吸をする。

 震える手を押さえ、茶葉を急須に入れる。

 お湯を注ぐ。

 金色の液体が、ゆらゆらと揺れる。

 これから——何が起こるのだろう。

 ヴェルナーは私を連れ戻すのだろうか。

 それとも——。

 カップに紅茶を注ぎ、広間へ戻る。

 ヴェルナーは窓の外を見つめている。

 その横顔は——疲れているように見えた。

「どうぞ」

 カップを差し出す。

 ヴェルナーは受け取り、一口飲む。

 そして——。

 彼の表情が、わずかに揺らいだ。

 夕日が遺跡を照らし、二人の影が長く伸びる。

 フィーは二人の様子を、静かに見守っている。

 光は青く——不安を表している。

 でも、その中に——わずかな金色が混ざっている。

 希望の色。

 アサギは自分のカップを手に取り、ヴェルナーの向かいに座る。

 これから——何が起こるのか分からない。

 でも——逃げない。

 向き合う。

 それが、今の私にできること。

 夕日が沈み始め、部屋がオレンジ色に染まる。

 二人は黙って紅茶を飲む。

 そして——。

 物語は、新たな展開を迎えようとしていた。

第2話 完

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