第2話
潰れたケーキの箱から漏れ出す、甘ったるく歪んだクリームの匂いが、麻痺したはずの侑作の嗅覚を容赦なく抉るように刺激した。
現実が、五感を通して脳に焼き付けられていく。
その時だった。
ギィ、と寝室のドアがゆっくりと開く音がした。
まるでスローモーションのように、世界の全てが引き伸ばされていく。
ドアの隙間から現れたのは、月島学人だった。
彼はすでにシャツのボタンを留め終え、少し乱れた髪を手櫛で無造作に整えている。その仕草には焦りや罪悪感といった感情は一切含まれていなかった。
まるで高級レストランでコース料理を平らげた後のような、満ち足りた空気をまとっている。
学人は床に転がる侑作と、無残に潰れたケーキの箱を一瞥した。
そして彼の視線は一瞬だけ、寝室の奥――乱れたシーツが作る生々しい隆起へと向けられた。
その唇の端がほんのわずかに、しかし明確に吊り上がるのを、侑作は見逃さなかった。
嘲笑。
それは紛れもない、捕食者のそれだった。
「……あ」
侑作の喉から、意味をなさない声が漏れる。
学人は何も言わず侑作の横を通り過ぎ、玄関に脱ぎ捨てられたイタリア製の革靴に足を入れた。
そして振り返ると、凍りついたまま動けない侑作の肩に、ポンと軽く手を置いた。
親しみを込めたいつもの仕草。
しかし今、その感触は焼け付くような侮辱となって、侑作の全身を貫いた。
「……悪かったな」
囁くような、しかし明瞭な声。
それは謝罪の言葉でありながら、侑作が築き上げてきた全てを掌握し、手のひらの上で転がしているかのような、冷酷で絶対的な支配者の愉悦が滲んでいた。
その一言だけを残し、学人は嘲るような笑みを唇に浮かべたまま、静かに玄関のドアを開ける。
閉まる寸前、彼の視線が床のモンブランの残骸へと注がれた。
まるで侑作の踏み潰された心を、改めて確認するかのように。
バタン、と軽いドアの閉まる音が、がらんどうになった侑作の心に虚しく響き渡った。
嵐が去った後の、不気味なほどの静寂。
寝室の奥からシーツが擦れる音と、嗚咽が聞こえてきた。
侑作は壊れかけたブリキの人形のように、ぎこちなく首をそちらへ向ける。
ベッドの上で、愛奈がシーツを胸元まで引き上げ、蹲って泣きじゃくっていた。肩が小刻みに震えている。その姿は庇護欲をかき立てるほどに哀れで、か弱く見えた。
もしこれが、別の状況であったなら。
侑作は迷わず駆け寄り、その体を抱きしめていただろう。
「大丈夫だよ」と彼女が安心するまで、その背中をさすり続けていたはずだ。
だが、今はできない。
侑作の足は、床に根が生えたように動かなかった。
「……どうして」
やっとの思いで絞り出した声は、自分のものではないように掠れていた。
「なんで、月島さんと……」
愛奈は顔を上げない。ただ震える声で何かを呟いた。
「ごめんなさい……侑作……」
謝罪の言葉。しかし、その響きには芯がなかった。
泣き濡れているはずのその頬には、まだ行為の熱が残したかのような、微かな紅潮が浮かんでいる。
まるで誰かに渡された台本を読んでいるかのように、感情が上滑りしている。
「でも……でもね、こうなる運命だったのかも……しれない」
その言葉を口にする直前、彼女の脳裏に学人の甘い囁きが閃いたのを、侑作は幻視した気がした。
「……は?」
運命?
何を言っているんだ?
侑作の思考が、再び混乱の渦に飲み込まれていく。
「私たち、最近……少し距離ができてたよね……?」
愛奈の言葉は、冷たいナイフとなって侑作の胸に突き刺さった。
距離? そんなもの、感じたことは一度もなかった。自分はこの関係が完璧だと信じていた。来月の沖縄旅行だって、彼女を喜ばせたくて必死で計画していたじゃないか。
「侑作はいつも仕事で忙しくて……私のこと、ちゃんと見てくれてなかった……」
違う。
違う、違う、違う。
仕事が忙しかったのはプロジェクトを成功させて、お前との未来をもっと確かなものにしたかったからだ。
お前の笑顔を守りたかったからだ。
喉まで出かかった言葉は、しかし声にならなかった。
愛奈の言葉の一つ一つが、まるで学人という名の腹話術師に操られているかのように空虚に響き、侑作の築き上げてきた自信と現実認識を、根底から揺さぶり始めていた。
俺が悪かったのか?
俺が愛奈を孤独にさせていたのか?
俺のせいで彼女は……。
自己不信という名の毒が、じわりじわりと心を蝕んでいく。
脳裏に浮かぶ過去の幸せな記憶。
カフェで笑い合う愛奈。生姜焼きを作ってくれる愛奈。キスをしてくれた愛奈。
その全てが、色褪せ、腐り落ち、毒々しい嘘の色へと変質していく。
内臓を直接握り潰されるような物理的な痛みが走り、侑作は呼吸の仕方を忘れた。
その瞬間、猛烈な吐き気に襲われた。
この部屋の空気が、甘い香水の匂いと、生々しい行為の残滓と、そして嘘の言葉で汚染されきっているように感じられた。
これ以上ここにいたら、おかしくなる。
侑作は背を向け、もつれる足で玄関へと向かった。
「待って、侑作!」
背後から愛奈の悲鳴のような声が聞こえた。
だがその声は、純粋な引き留めというより、自分の罪悪感を軽減するための自己保身の演技のように、彼の耳には冷たく響いた。
彼は振り返らなかった。
自分のスニーカーに足を無理やり突っ込み、ドアノブに手をかける。
ガチャリと音を立ててドアを開けると、生ぬるい夜の空気が顔を撫でた。
侑作はそこから逃げ出すように、夜の闇へと身を投じた。
◇
当てもなく、ただひたすらに歩いた。
世田谷区桜新町。都心に近いながらも穏やかな空気が流れるこの街を、侑作は心から愛していた。八重桜の並木道、古くからの商店が軒を連ねるサザエさん通り、静かな住宅街を流れる呑川緑道。
その全てが、愛奈と共に築いてきた「日常」の象徴だった。
だが今、その見慣れた風景は全く別の顔をしていた。
街灯の光は、まるで侑作の惨めな姿を暴き立てるスポットライトのようだ。
静かな住宅街の窓から漏れる温かな明かりは、彼が失った幸福を嘲笑うように突きつけてくる。
いつもは心を安らげてくれた桜並木の葉擦れの音さえ、今は自分を拒絶する冷たい囁きにしか聞こえなかった。
世界から、拒絶されている。
侑作は小さな公園にたどり着き、力なくベンチに腰を下ろした。冷たい金属の感触が、薄いシャツ越しに体温を奪っていく。
何が、起きたのか。
必死に思考を巡らせようとする。
愛奈が月島と寝ていた。
それは紛れもない事実だ。この目で見た。この耳で聞いた。
しかし、なぜ?
月島は尊敬する先輩だった。仕事の相談にも乗ってくれる頼れる存在。彼が自分を裏切る理由が分からない。
愛奈は愛する恋人だった。将来を誓い合ったかけがえのないパートナー。彼女が自分を裏切る理由も、分からない。
「私たち、少し距離ができてたよね……?」
愛奈の言葉が、こだまのように頭の中で繰り返される。
本当に、そうだったのだろうか。
侑作は過去の記憶を必死に手繰り寄せる。
先週の日曜日の笑顔。三日前の生姜焼き。昨日の朝のキス。
思い出されるのは、幸せな記憶ばかりだ。どこにも距離を感じさせるような綻びは見当たらない。
それとも、それは全て自分だけの思い込みだったのか?
彼女はずっと我慢していて、自分だけがそれに気づいていなかったのか?
分からない。
何が真実で、何が嘘なのか。
自分の記憶さえも、信じられなくなっていく。
思考はまとまらず、ただ時間だけが過ぎていった。
スマートフォンの画面には愛奈からの着信履歴と『話がしたい』というメッセージが何件も表示されていたが、それに応える気力はなかった。
夜空を覆っていた雲が切れ、冷たい月光が地上に降り注ぐ。
侑作はその光の中でただ一人、世界の迷子になっていた。
◇
どれくらいの時間が経ったのか。
東の空が、徐々に白み始めていた。カラスの鳴き声が遠くから聞こえてくる。
絶望に満ちた夜が終わり、無慈悲な朝がやってくる。
侑作の体は冷え切っていた。心も、体も、感覚がない。
このまま会社に行くことも、どこかへ行くこともできず、まるで引力に引かれるように、足はあのアパートへと向かっていた。
逃げ出した場所。しかし、今は他に帰る場所もない。
アパートの前に着くと、心臓が嫌な音を立てて脈打った。あの部屋のドアを開けるのが怖い。中に愛奈がいるのか、いないのか。どちらにしても、地獄が待っていることに変わりはなかった。
深呼吸を一つして鍵を差し込もうとした、その時だった。
隣の部屋、201号室のドアが静かに開いた。
現れたのは、隣人の女性だった。
小笠原麗奈。
確か市役所に勤めていると聞いたことがある。長い黒髪をきっちりと一つに束ね、フレームの細い眼鏡をかけている。装飾のないシンプルなネイビーのパンツスーツ。
いつも感情の起伏が見えない、静かな女性だった。
彼女は出勤するところなのだろう。手には書類の入ったシンプルなトートバッグを持っている。
麗奈はアパートの前に幽鬼のように佇む侑作の姿を認めると、ほんの少しだけ歩みを止めた。
そしてその冷静な瞳が、侑作の全身を、レントゲン写真でも撮るかのように一瞬で捉えた。
一睡もしていない血走った目。皺だらけのシャツ。何より、その顔に浮かぶ常軌を逸した憔悴の色。
彼女の視線は次に、侑作の背後にある202号室のドアへと移った。
ドアは、侑作が慌てて飛び出したせいで、わずかに半開きになっていた。
その隙間から見える玄関。昨夜、侑作が見た覚えのない、華奢なピンヒールのパンプスが無造作に転がっている。愛奈の趣味ではない、挑発的なデザインだ。
そしてその奥には床に落ちて潰れた、白いケーキの箱。都内でも有名なパティスリーのロゴが、歪んだクリームに汚れて滲んでいた。
麗奈の細い眉が、ごく僅かにひそめられた。
それは驚きや同情といった感情の表れではなかった。
もっと無機質で、分析的な――パズルの最後のピースが、あるべき場所に嵌まったかのような、冷徹な納得の色だった。
彼の絶望と、半開きのドアと、見慣れない靴と、高級店の潰れたケーキ。
バラバラの事象が、彼女の頭の中で一本の論理的な線となって繋がっていく。
だが、それも一瞬のこと。
彼女はすぐに無表情に戻ると、侑作に一瞥もくれず、静かに階段を下りていった。
その指先が、トートバッグの中でスマートフォンのカメラを起動し、半開きのドアの隙間――無残な光景を、音もなく一枚の写真に収めたことを、絶望に沈む侑作は知る由もなかった。
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