第3話
あの日から、いったい何時間が過ぎただろうか。
西浦侑作は遮光カーテンを閉め切った薄暗いリビングのソファで、ただ虚空を見つめていた。時間は溶けて意味を失い、腹は空かず喉も渇かない。生きているという感覚だけが鈍い頭痛と共に、頭蓋の内側で不愉快に脈打っていた。
手元に放り出したままのスマートフォンが、不定期に震えては光を放つ。その振動がまるで自分の神経を直接逆撫でするようで、侑作は眉間に深い皺を刻んだ。
ディスプレイには画面を埋め尽くすほどの不在着信とメッセージの通知。ほとんどは会社の同僚からのものだった。
『西浦、大丈夫か?』
『急に休むなんて珍しいな』
『何かあったら言えよ』
純粋な心配からくる言葉だと頭では分かっている。だが今の侑作には、その善意すらもが耐え難い重荷だった。
無数の通知の中に、一際長く丁寧な文章が混じっていた。
送信者は、月島学人。
『侑作、大丈夫か? 無断欠勤なんてお前らしくもない。何かあったなら俺でよければ相談に乗るぞ。愛奈ちゃんのこと、もし何か進展があったなら……いや、今は聞かないでおこう。とにかく、俺たちはただの同僚じゃない、親友だろ? 一人で抱え込むなよ』
画面をなぞる指が、怒りよりも先に、冷たい無力感で震えた。
親友。
その言葉が胃の腑からせり上がってくる吐き気を助長する。
つい先日、酒を酌み交わしながら打ち明けたばかりだった。「そろそろ、愛奈にプロポーズしようと思ってるんだ」と。月島は「お前らなら絶対幸せになれる」と、自分のことのように喜んでくれたはずだった。
あの夜、侑作の全てを嘲笑うかのように見下ろしてきた男の顔が、瞼の裏に焼き付いて離れない。この偽善に満ちた文字列を打ち込んでいる時の、あの男の表情を想像するだけで気が狂いそうだった。
愛奈の体を貪りながら、その耳元で「親友だろ?」と囁いていたのではないか。そんな悍ましい幻聴が、脳髄にこびりつく。
侑作はスマートフォンの電源を落とし、ソファのクッションの間に深く押し込んだ。着信音も光も、もう見たくなかった。
静寂が戻った部屋は、恐ろしいほどに広かった。
愛奈が、去ったからだ。
彼女の荷物が、部屋の半分ほどごっそりと綺麗になくなっていた。クローゼットには侑作の服だけが間隔を空けて並び、洗面台の棚からは彼女が愛用していた化粧水やヘアオイルのボトルが消えている。
部屋中に染みついていたはずのフローラルなシャンプーの甘い香りも、今はもう感じられなかった。
代わりにがらんとした空間には、澱んだ空気と冷たい孤独だけが満ちている。
テーブルの上では、二人で笑いながら書き込みをした沖縄旅行のパンフレットの隣で、愛奈の写真が入ったフレームがうつ伏せに倒れていた。
ふと、侑作はジュエリーボックスが開けっ放しになっていることに気づく。
三ヶ月前、彼女の誕生日に少し奮発してプレゼントしたネックレス。照れながらも嬉しそうに着けてくれた、あの輝くような笑顔……。そのネックレスが、あるべき場所から消え失せていた。
荷物だけではない。思い出ごと、全てをなかったことにされたのだ。
視界の端に、愛奈が残した置き手紙が映る。ダイニングテーブルの上に、ぽつんと一枚。
『悪いのは私だけじゃないと思う』
その一文が、呪いのように侑作の思考にまとわりつく。きっと月島に吹き込まれたのだろう。『侑作は君を理解していない』『君はもっと華やかな世界にいるべきだ』。そんな甘い言葉で、彼女は自分自身の罪悪感を捻じ曲げていったに違いない。
「俺が……何か、間違ってたのかな……」
絞り出した声は、ひどく掠れていた。
侑作は必死に記憶の糸をたぐり寄せた。自分たちの関係のどこに、あんな結末に至るほどの亀裂があったというのか。
思い出されるのは幸せな記憶ばかりだった。
先週の週末、二人で近所のスーパーへ買い物に行った時のこと。特売の卵を巡って愛奈が子供のようにはしゃいでいた顔。
一ヶ月前、侑作が風邪で寝込んだ時、彼女が慣れない手つきで作ってくれた少し味の濃い卵粥の温かさ。
どの記憶を切り取っても、そこに不幸の影は見当たらない。
いや、見えていなかっただけなのかもしれない。
『あなたはずっと仕事ばっかりで……』
いつだったか彼女が寂しそうに呟いた言葉が、遅れて耳の奥で蘇る。あの時、侑作は重要なプロジェクトを抱えていて、彼女の言葉を真剣に受け止めてやれなかった。
「大丈夫だよ。侑作が頑張ってるの、ちゃんと分かってるから」
彼女はそう言って笑ってくれたはずだ。だが、その笑顔の裏にあった本当の気持ちに、自分は気づけていなかったのではないか。
愛奈の置き手紙の言葉が、毒のように思考を侵食していく。
そうだ、俺が悪かったんだ。仕事にかまけて一番そばにいる彼女の孤独を見て見ぬふりをした。俺が彼女を追い詰めたんだ。だから彼女は……。
月島と体を重ねていた時の、あの蕩けるような愛奈の表情。あれが彼女の本当の姿だったのではないか。俺が今まで見てきた彼女は全て、我慢させて作り上げた偽りの笑顔だったのではないか。
俺の愛は、彼女にとっては何の価値もなかったのか?
思考が自己不信の沼へと沈んでいく。自分の記憶さえもが、自分に都合の良いように改竄された偽物のように思えてくる。
ぐるぐると同じ場所を思考が回り続ける。出口のない迷路。正解のない問い。
その時だった。
ピンポーン、と。
静寂を切り裂くように、無機質なインターホンの音が鳴り響いた。
侑作はびくりと肩を震わせる。宅配便だろうか。いや、何も頼んだ覚えはない。では、誰だ。
無視をしようと再びソファに深く身を沈めた。だがチャイムはもう一度、今度は少し間を置いて執拗に鳴らされた。
侑作は重い体を叱咤し、のろのろと立ち上がった。壁のモニターには、見慣れた女性の姿が映っていた。
隣室の住人、小笠原麗奈。
長い黒髪をきっちりと一つに束ね、フレームの細い眼鏡をかけた、いつも感情の読めない能面のような表情の女性。
なぜ彼女が?
疑問に思いながらも無視し続けるわけにもいかず、侑作は玄関のドアをゆっくりと開けた。
「……はい」
「こんにちは、西浦さん」
麗奈はいつもと変わらない平坦な声で言った。その手には数枚の書類が挟まれたクリップボードが握られている。
「あの……回覧板です。次、お願いします」
彼女はそう言って事務的に回覧板を差し出した。侑作はぼんやりとした頭でそれを受け取る。
「……あ、はい。どうも」
用件はそれだけらしかった。麗奈は軽く会釈をするとすぐに踵を返そうとする。そのあまりにも日常的な、何の感情も含まないやり取りが、今の侑作にはわずかな救いのように感じられた。同情も好奇心も、彼女のガラス玉のような瞳には一切浮かんでいなかったからだ。
だが麗奈は二、三歩進んだところでふと足を止めた。そして侑作の方を振り返ることなく、静かに口を開いた。
「西浦さん」
「……え?」
「昨日の夜。あなたの部屋の前に、男性ものの革靴がありました」
唐突な言葉だった。侑作の思考が一瞬停止する。
麗奈はなおも壁の方を向いたまま、淡々と続けた。
「イタリア製の、ウイングチップ。見たことのないデザインでしたので、少し記憶に残っていました」
それは事実の報告だった。ただ、それだけ。彼女の声には何の含みもない。非難も詮索も同情もない。ただそこにあった事実を観測結果として口にしているだけ。
だが、その感情を排した言葉が、侑作の混乱した頭の中に一本の杭のように強く深く打ち込まれた。
イタリア製の、ウイングチップ。
間違いない。あの夜、玄関で見た月島の靴だ。
安堵が込み上げた。俺が見たものは幻覚でも妄想でもなかった。
だがその直後、凄まじい屈辱が全身を駆け巡った。あれは紛れもない現実だったのだ。自分がいかに愚かしく、無様に騙されていたのかという真実が、はっきりと突きつけられた。
「……そう、ですか」
侑作がようやく絞り出した声に、麗奈は答えなかった。彼女はそのまま無言で階段を下り、自分の部屋へと消えていく。
侑作は回覧板を握りしめたまま、その場に立ち尽くしていた。
絶望の沼の底に沈みかけていた意識に、わずかな足場ができたような感覚。自己不信という濃い霧の中に、ほんの小さな光が差し込んだような、そんな感覚だった。
部屋に戻った侑作は回覧板をテーブルに置くと、ソファに埋めたスマートフォンではなく、書斎のノートパソコンの電源を入れた。
麗奈の言葉が、侑作の思考のベクトルをわずかに変えていた。
内へ内へと向かっていた自己批判の矢印が、初めて外側の世界へと向き始めたのだ。
ブラウザを立ち上げ、検索窓に打ち込む。
『月島 学人 SNS』
すぐに彼のものと思われるアカウントがいくつかヒットした。その中でも特に更新頻度の高いインスタグラムのアカウントをクリックする。
画面に表示されたのは、月島の完璧な日常を切り取った写真の数々だった。高級ホテルのラウンジでの一枚。海外出張先のエキゾチックな風景。有名ブランドの新作発表会でのモデルと並んだツーショット。そのどれもが自信に満ちた彼の笑顔で彩られている。
その華やかな写真の数々を、侑作は無心でスクロールしていく。嫉妬や羨望は感じなかった。ただ、何かを探していた。
そしてある一枚の写真で、侑作の指がぴたりと止まった。
三週間前の投稿。
都内の有名レストランのディナーコースのメインディッシュの写真だ。添えられたコメントには『たまには、こういう非日常も悪くない』とだけ書かれている。
侑作の心臓が、どくんと大きく跳ねた。
このレストラン……。愛奈が一ヶ月ほど前から「一度でいいから行ってみたい」と雑誌の切り抜きを見せてしきりに話していた店だった。
投稿された日付を見る。三週間前の金曜日の夜。その日、愛奈は『アパレルの同期と女子会があるから夕飯はいらない』と言って、遅くに帰ってきたはずだ。
まさか。
震える指でさらに過去の投稿へと遡っていく。
五週間前。お洒落なカフェのテラス席でコーヒーカップを持つ手の写真。その手首には最新モデルの高級腕時計がきらりと光っている。
そしてその写真の隅に、ほんのわずかに映り込んでいるものがあった。
女性もののハンドバッグ。そして、月島の腕に寄り添うように置かれた、見覚えのある細い指先。
侑作の全身から血の気が引いていく。
そのバッグは、愛奈がつい最近、「頑張って自分で買ったんだ」と嬉しそうに見せてくれた限定デザインのバッグだった。
さらに遡る。
二ヶ月前。『新しい相棒』というコメントと共に投稿された新車のキーの写真。外車のエンブレムがこれみよがしに輝いている。
その翌週の愛奈の言葉が、脳内で鮮明に再生された。
『ねえ、侑作。私たちも車買わない? 世田谷だとあった方が便利じゃないかなって』
当時は、ただの彼女の気まぐれだと思っていた。
一つ、また一つと、パズルのピースがはまっていく。
愛奈が好きだと言っていたもの。
愛奈が欲しがっていたもの。
愛奈が行きたがっていた場所。
それらが全て、示し合わせたかのように月島のSNSの中に彼の「日常」の一部として散りばめられていた。
そしてそれらが投稿された日付はことごとく、愛奈が「残業」や「友人との約束」を理由に侑作との時間を避けていた日と、不気味なまでに一致していた。
これは、偶然などではない。
侑作は画面を凝視したまま、奥歯を強く噛みしめた。歯がぎりと軋む音が、静まり返った部屋に響く。
これは、計画的な略奪だ。
月島はただ愛奈の体を奪っただけではない。彼は、侑作が愛奈に与えられなかったものを一つずつ見せびらかすように与えていったのだ。ブランド品を、高級レストランを、華やかな世界を。
そうやってゆっくりと、しかし確実に、愛奈の心を、そして二人の日常を、内側から侵食していったのだ。
自分の人生そのものが、月島の手のひらの上で転がされていた道化だったのだと、ようやく理解した。
あの夜の裏切りは、この長い侵食の、最後の仕上げに過ぎなかった。
全てを理解した瞬間、侑作の体を支配していた無力感は、熱いどす黒い怒りへと変わっていた。それはもはや、ただの感情の爆発ではない。
冷静に、そして徹底的に、この罠を暴き、全てを奪い返す。
氷のように冷たい、復讐への決意だった。
パソコンのモニターに映る、月島の自信に満ちた笑顔。
その笑顔が、今、はっきりと侑作だけを狙った嘲笑に見えた。俺の絶望を、今か今かと待ち望んでいた、悪意に満ちた笑みに。
――――必ず、お前を引きずり下ろしてやる。
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