第6話 デジクリとアイリズ
劇場内は、予想通りの光景が広がっていた。
親子連れで埋め尽くされた座席。あちこちから聞こえる子どもたちの興奮した囁き声。「静かにしなさい」と優しくなだめる母親たち。
美味そうなホットスナックの匂いと、ささやかに聞こえる炭酸飲料の泡が弾ける音。紛れもないファミリー空間だ。
俺たちは中央やや後方の席に腰を下ろした。凛音は慣れた手つきで、膝の上にポップコーンバケットを置き、几帳面にナプキンを広げている。
彼女の一連の動作があまりにも自然で、一人で映画を見ることが日常になっているのが分かった。
「食べる? 私いつも食べきれないの」
差し出されたポップコーンを、遠慮がちに摘まむ。キャラメルコーティングの甘ったるい味が、口に広がる。砂糖の結晶が舌の上で溶けていく感覚が、なんだか懐かしかった。
「そうだ!」
俺は急に立ち上がった。
「映画館といえば、ポップコーンだけじゃないんだぜ?」
「は? 何言って――」
「ちょっと待ってろ」
凛音が何か言いかけたが、既に売店へと駆け出していた。
上映ギリギリになってしまったが、両手いっぱいに戦利品を抱えて戻ってくる。ナチョス、フライドポテト、チュロス、ホットドッグ。さらにドリンクも二つ。我ながら、買いすぎた。
「じゃーん! 映画館フルコースだ!」
誇らしげにトレイを見せると、凛音の顔が見る見るうちに青ざめていく。
「……なにこれ」
「え」
「ポップコーンすら食べきれないって言ったでしょ!」
容赦ない怒号が、静かな場内に響き渡った。
「これ全部どうするの! 上映中に食べきれるわけないじゃん!」
小さな拳を震わせながら、凛音は俺を糾弾する。
「しかも、ドリンク! 私タンブラーにもたっぷりジュース入ってるのに! こんなに飲んだら、上映中トイレ行かなきゃいけなくなるのわからない?!」
正論の嵐に、ただ縮こまるしかなかった。
「……ごめん」
「もう……」
凛音は大きくため息をついた。そして、フライドポテトを一本つまむ。
「仕方ないから、頑張って食べよ。もったいないし」
「お、おう」
場内の照明が徐々に落ちていく。
まずは映画館のマナーCM。スマホの電源を切る呼びかけに、あちこちで画面の光が消えていく。続いて、ビデオカメラの頭をした謎のキャラクターが、撮影禁止を訴えるパントマイム。子どもたちが笑いを堪えている。
そして始まる長い長い予告編の嵐。新作アニメ、実写映画、また別のアニメ。子ども向け作品の予告が、これでもかと続く。
そうしてようやく、場内が暗転しきった。
『劇場版アイリズ ぜんかいドリズムライブ!』
タイトルロゴが画面いっぱいに広がる。ピンクと水色のグラデーションで彩られた文字が、きらきらと輝きながら現れた瞬間、劇場中から歓声が沸き起こった。
実を言うと、開始十分で瞼が重くなってきた。
主人公の少女が仲間を集め、困難を乗り越え、最高のライブを成功させる――筋書きは開始数分で完全に読めてしまった。台詞も展開も予定調和の極み。これなら家で寝ていた方が有意義だったかもしれない。
うとうとし始めた時、隣から微かな衣擦れの音が聞こえた。
凛音が身を乗り出すようにして、画面を見つめている。
その横顔に、睡魔が吹き飛んだ。
彼女の瞳が、文字通り輝いていた。スクリーンの光を反射しているだけではない。奥から、内なる光が生み出されているかのようだった。
登場人物が笑えば口元が緩み、ピンチになれば眉間に皺を寄せる。手に汗を握り、時に小さく息を呑む。まるで自分がその世界の住人であるかのように、物語と完全に同化していたのだ。
俺は姿勢を正した。
もう一度、偏見を捨てて画面に向き合う。すると不思議なことに、さっきまで退屈だった物語が、全く違って見えてきた。
そりゃもう王道だ。予定調和かもしれない。だが、キャラクターたちの表情の豊かさ、動きの繊細さ、背景美術の緻密さ――全てが一級品だった。
友情や努力、夢を諦めないことの大切さ。陳腐と切り捨てるには、あまりにも真摯に、丁寧に描かれている。
気づけば、俺も完全に物語に引き込まれていた。
主人公がステージで失敗し、涙を流すシーン。仲間たちが一人ずつ手を差し伸べ、再び立ち上がるシーン。そして全員で作り上げる、最高のステージ。
不意に記憶の扉が開いた。
小学生の時、初めて映画館で見た『デジクリ』。巨大スクリーンに映し出された仲間との絆、最後の進化シーンで思わず泣いてしまったあの日。
いつからだろう。そういう素直な気持ちを、『子ども騙し』と切り捨てるようになったのは。
斜に構えることが大人だと勘違いして、純粋に物語を楽しむ心を、どこかに置き忘れてきてしまった。年を重ねるごとに、感動することが恥ずかしいことのように思えて、心に分厚い壁を作っていた。
でも今、隣で映画にのめり込む凛音を見て、思い出した。
物語を誠実に楽しむことの素晴らしさを。あの頃の俺が持っていた、真っ直ぐな心を。
クライマックス。ライブシーンが始まると、俺は息を呑んだ。
「すごい……」
思わず感嘆がこぼれた。
画面いっぱいに広がる光の洪水。無数のペンライトが揺れ、レーザービームが交錯する。キャラクターたちの完璧なフォーメーションダンス。
カメラワークは縦横無尽に動き回り、時に観客席から、時にステージ上から、本物のライブ会場にいるかと錯覚する臨場感を演出していた。重低音が座席を震わせ、腹の底まで響いてくる。
「……綺麗」
凛音が、まるで祈るように声を漏らす。
ポップコーンを持つ手も止まり、微動だにせず画面に見入っていた。純粋な感動が、そこにはあった。
エンディング。キャラクターたちが手を繋ぎ、観客に向かって深々とお辞儀をする。劇場中から惜しみない拍手が沸き起こった。
どこかから「サンソフィアありがとー!!」というおじさんの熱烈な叫び声が聞こえたが、怖いので深く考えないことにした。
約九十分後、エンドロールと共に場内がゆっくりと明るくなっていく。
周囲では子どもたちが興奮冷めやらぬ様子で感想を言い合っている。「かっこよかった!」「もう一回見たい!」「ひなみんが一番!」という声が飛び交う中、俺は隣を見た。
凛音は無言で空になった食べ物の容器を片付けている。几帳面にゴミをまとめる手つきは、いつもの冷静さを取り戻しているようにうかがえた。
「なあ、凛音」
「なに。どうせ子ども騙しだとか言うん――」
「面白かったな! 最後のライブシーン、迫力ハンパなかったぞ!」
遮るように放たれた感想に、凛音は一瞬、目を丸くした。
「あのさ、ひなみんが失敗して泣いてるところで、他のみんなが一人ずつ手を差し伸べるシーンあったろ? あそこでもうグッときて」
溜め込んで言葉が、決壊したダムのように溢れ出す。
「それと、クライマックスの全員でステージ作るところ! カメラがぐるーって回り込んで、観客席の光が星みたいに見えて――」
「分かる! あそこの演出天才的だった!」
凛音が身を乗り出してきた。
「だろ!? あと、全員で手を繋いでフィナーレ迎えるところとか」
「そうそう! あそこで音楽が最初のテーマに戻るの、ズルい!」
「な! 思わず泣きそうになった」
「私も! 実はちょっと泣いた」
「マジか。俺も実は目頭が――」
「それにあのラストの『みんなで一緒なら』っていう台詞が――」
最初は席に座ったままだったのが、いつの間にか互いに前のめりになり、最後には膝が触れ合うほどの距離で語り合っていた。
凛音も夢中で話していたが、図らずも周りの視線に気づく。親子連れが微笑ましそうにこちらを見ている。
急に我に返ったのか、咳払いをして姿勢を正した。
「……ふん、当然でしょ」
頬を赤らめながら、澄まし顔を作る。
「アイリズを舐めちゃダメ。映画だって、ゲームだって、全部本気で作られてるんだから」
凛音は立ち上がり、さっさと荷物を持ち上げる。取り繕っているが、彼女の隠そうにも隠しきれない満足そうな笑みに、俺は気付いていた。本当に、心から嬉しそうだった。
いや、でも映画はマジで良かった。正直、完全に見直した。
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