第17話 残念ながら、悲しいことに。
じゃあ実際ヤバいことってなんだよ、という当然の疑問に対するアンサーは、意外にも早く得ることができた。
駅近の商業ビルに入ってなにを買うでもなくうろうろ見物していたところで、倉木さんが俺のシャツの裾を引っ張って小声で言う。
「ねえ御堂くん、ちょっとふたりで抜け出さない?」
「つまんないパーティ以外で聞くことあるんだ」
鈴川が化粧水の成分表とにらめっこしている隙をつく形でその場から離れた。「ちょっとだけ、一瞬だけだから」という後押しを信じたが、よくよく考えたら先っちょだけという約束が守られたことは古今東西一度もない。限定というのは、覆されるのが相場だった。
漠然と、鈴川に声が届かないところで少し会話するくらいのものと考えていたのだが、倉木さんは俺のシャツをつかんだままどんどん進んでいく。エスカレータに乗ってフロアまで移動してしまう。
「あんまりこういうこと言っちゃいけないってわかってるんだけど」
伏し目がちに切り出す倉木さん。「なんだよ、言ってよ、水臭い」そういう言葉の行き先として俺がいるはずではないかと促す。
感情というのは、ためこみすぎるとロクなことにならない。鈴川が言ったように、適度に発散する必要がある。
背中を押されたことで決心がついたのか、倉木さんが口を開いた。
「鈴川さんと仲良くするの、やめてほしいんだ」
促すんじゃなかったな~。俺はめちゃくちゃ後悔した。
ここから先はミステイクできないっぽいので、とりあえず「どうして?」とだけ絞り出す。一にも二にも原因究明。患部を知らずに治療はできない。
「ふたりが一緒にいるのを見ていると、とても苦しい気持ちになるから」
「事故のこと、気にしてる?」
問うと、小さな頷きが帰ってきた。
倉木さんは、裏で自分を財布扱いしている相手と表面上は友人であり続けた過去を持っている。
正しくない人間関係。間違ったつながり。
だから人一倍、そういうのに嗅覚が働いてしまうのかもしれない。
「それに、御堂くんが私以外の女の子と話しているのを見るだけで、なんだか胸が張り裂けそうになるの」
「そっか~」
どうしよう、なんかいきなり風向きが変わり始めた。ヤバいことになるってこういう意味?
ただ、倉木さんはこれで結構女優だから、やりにいっている可能性も十分考えられる。
とにかく今のは聞かなかったことにして、俺は話を強引に切り替えにかかった。
「まあ、当事者間でとっくに折り合いはつけてあるし、心配いらないよ。それよりいい加減戻んないと――」
「前からちょっと気になってたんだけど、御堂くんのメガネ、テンプルのところが若干歪んでるよね」
自分以上の強引さで、話を遮られた。
「いや、そんなことはないと思うが……」
「毎日使うものだから慣れちゃってるだけだよ、きっと。もしかしたら、去年殴られたときの衝撃で壊れたのかも」
言われて注視するも、これといっておかしなところは見つけられない。ちょっと賢く見られたいという邪な動機でかけているだけだから、歪んだ持ち主と歪んだ持ち物でプラマイゼロになっているということも考えられる。
ともあれ普段使いに支障はないので、今のままで大丈夫。
「倉木さん、そろそろ――」
「ちょうどそこにメガネ屋さんあるし、見ていこうよ」
「わかってはいたけども」
作為を感じるんだよな~作為を。どう考えてもこの誘導のために階層移動してるじゃん。
いい加減鈴川も置き去りに気づいているだろうが、生憎と連絡手段がないため事情の説明も合流もできない。まださっきの化粧品売り場にいてくれればいいのだが。
「スタンダードな黒縁もいいけど、御堂くんだとクリアフレームも似合うんじゃないかって前から思ってたんだ」
「え、俺ってクリアフレーム顔だったの?」
「うん。アロハシャツとサンダルとパーマも似合いそう」
「胡散臭い大学生のテンプレについて話してる?」
大好きなのは酒と麻雀とギャンブル。嫌いなものは午前の講義。探せばどこにでもいそうなダメ大学生を想像する。
そんな未来にはたどりつきたくないので、どんなものに縋ってでも知的なイメージを作り上げなければいけない。そういうことだと無理矢理解釈。
もともとかけていた方は胸ポケットにしまって、お洒落番長倉木さんのチョイスに身を任せる。ハリボテレンズの伊達眼鏡とはいえ専門店の売り物なので、雑貨屋で適当に選んだ今の安物よりはどれも洗練されて見えた。
ふたつみっつ試してみて、「うーん、うーん」と唸る倉木さん。一応ユーザーであるはずの俺よりよっぽど真剣な眼差しだ。
「……一周回って、やっぱり黒縁なのかも」
散々悩んだ果てに、同じ場所に帰ってきた。その過程を徒労と捉えるか、財産と捉えるかは受け取り手次第。眼鏡選びって人生だ。
「じゃあ、お会計してくるね」
「待った待った待った」
「どうしたの?」
「逆戻りしてる気がする」
倉木さんはぽかんとしたとぼけ顔を浮かべ、結構いい値段のする商品と俺とを順々に見比べた。逆戻り? なんのこと? そんな言葉が聴こえてくるようだ。
金銭を伴わずとも信じられるものを作りましょうというのが、ひとつ大きなテーマとしてある。明言こそしていないが、それは共通認識だったはず。
なのに今、倉木さんはめちゃくちゃ原始回帰して契約絶対ガールの面影をのぞかせ始めている。
「御堂くんには日頃から感謝してるし、そもそも私のせいで壊れちゃったものを私が買い替えるんだから、普通のことでしょ?」
「そういうレトリックできたか~」
感謝を込めたプレゼントとか、弁償とか、どれもこれも絶妙に断りにくいやつだ。むしろ固辞する方が空気読めてない感が出て、場が白ける。
贈り物文化が悪いものだとはちっとも思わないけど、それが倉木さんからとなると途端に頭の中でアラートが鳴り響く。
彼女なりの処世術。
人心が離れていかないように編み出した、倉木詩歌の生存戦略。
それを俺に用いることの意味。
思い返すのは、先日結局最後まで話題にすることのできなかった大量のコーヒーカップについてだ。
倉木さんは、俺を待ちながらどんな気持ちで注文を重ねていったのだろう。
信じたいと言った相手が、連絡ひとつ寄越さず遅刻してきたことに、なにを感じたのだろう。
なにを意図して、四六時中身に着ける日用品を俺に買い与えようとしているのだろう。
思考が混線し始めたのを感じる。壊れてしまった女の子との関わり方に一家言ある俺が頭を悩ませるというのはつまり、そういうこと。
願わくば、ただの早とちりであってほしかったのだが。
「ありがとう倉木さん。でも、ここは遠慮しておく」
「どうして?」
「ご褒美にと思って高級缶詰を与えたばっかりに、普段のカリカリに手をつけなくなる猫っているだろ。一般に、要求というのはエスカレートするようにできてる。ここで俺を甘やかすと、明日にはきっと『ボッテガのメガネじゃないと耳にフィットしないよ~』とか身の丈に合わない贅沢を言い始めるに決まっている」
「御堂くんに限ってそんなことはないと思うけど……」
「いいや言う。言うったら言う! 自分の堪え性のなさは俺が一番よくわかってる! レンズ以外全部純金じゃないと耐えられなくなる!」
「それは重くて不便そうかも」
「そうなんだよ。だから、俺を助けると思って」
とんちんかんな理論で強引に押し切ると、倉木さんは困ったような笑みを浮かべた。結局最後に勝つのって勢いがあって声が大きいやつなんだ。俺の偏見が火を噴く。
なんとかなった。内心そう思って胸を撫でおろしていたところで、倉木さんが控えめに手をあげる。「あの」視線の先には店員さん。「お会計いいですか?」
おいおいマジかよと俺は目を見開いて、
「ちょちょちょ」
慌てるばかりの言葉にならない言葉で制止する。けれども店員さんは既に気づいてしまっていて、今さらやっぱりなしですなんて言えっこない空気。
「大丈夫だよ」
トリッキーな技術を披露したばかりの倉木さんが言う。場を利用するやり方は、どちらかといえばこれまでずっと彼女が巻き込まれてきたもの。どうやらそこに学びを得たらしい。
「私が、自分用に買うから」
「いやいや……」
それはきっと方便で、なにかしらの理由をつけてすぐさま俺に譲渡してくるに違いない。そんな風に訝っていたけれども、杞憂に終わった。
会計を済ませるなり、早速ケースから眼鏡を取り出す倉木さん。そのまま身に着けて、一言。
「これでおそろいだね」
「…………」
やってんなぁ~~~!
思うことこそあっても、言葉には出さないように努めた。
「似合う?」
「似合う似合う」
「知的に見えるかな?」
「見える見える」
ついさっき、他の誰かともこんなやり取りをした記憶がある。いくつかの不穏なワード――たとえば意地の張り合いであったり、縄張り争いであったり――が瞬間的に頭の中に浮かんできて、消えた。というよりも消した。人間、ときには意識を鈍化させるのが長生きのコツ。そんなことを考えている俺は、めっちゃ早死にしそうだとも思う。
ともあれ、今のやり取りこそが鈴川の言っていた発散に該当するというジャッジを下した。
言葉の響きが好きなのか、「おそろい、おそろい」と何度か呟きながら、上機嫌に売り場を後にする倉木さん。さすがに鈴川を置き去り帰宅するような真似はできないみたいだ。
来た道をなぞるように引き返す。鈴川のことだから、ひとりにされたと理解した途端に帰っていてもさほど疑問には感じない。倉木さんの状態を理解していたようでもあったし、俺がなにかしら対策しているのだろうと考えるのは思考の流れとしてつじつまも合う。
しかしながら俺という生き物は極端に詰めが甘くて、いつも最重要要素を考慮に入れ損ねるのだ。
俺の楽観視は、基本的によくない方向へと転びがち。残念ながら。悲しいことに。
先ほどの化粧品売り場からすぐ近くの通路。建物を支える大きな柱にもたれかかるようにして、鈴川はひとりずっと立ち尽くしていた。いつもの快活さが嘘のような無表情で、焦点のぼやけた目はなにも写していないのが丸わかりで。なにかに耐えるように、自分の体をぎゅっと抱いたまま。
レーシングカーのタイヤを思い浮かべた。表面はつるりとしていて、いかにもな機能性を感じる。余計な摩擦を排除して速く走ることのみに特化しているのだと一目でわかる。
次いで、極限まで摩耗してすっかり溝のなくなった普通車のタイヤを思い浮かべた。輪郭は円形で、直進くらいなら問題なくできる。けれども、それ以外の動作となると途端にすべてがガタガタになる。
さて、今の鈴川はどっち?
「……ん、お~、どんちゃん。どこ行ってたの?」
「……おう」
俺の存在を認識した瞬間、スイッチのオンオフを切り替えるみたいに鈴川は表情をぱあっと明るくした。そこに痛々しさを感じなかったかと問われれば嘘になって、平静を装わねばといくら考えようにも、言葉や行動がぎこちなくなる。なんとなく手を握ると、思った通りに冷え切っていた。
「ちょっとな」
「まだ若いのにトイレ近すぎでしょ~」
「カフェインの漬物みたいな現代人にとって、頻尿に老いも若いもないから」
適当な話で誤魔化している間に、鈴川が後ろにいる倉木さんに気づいたみたいだった。
発作のように俺が鈴川のところへと慌てて駆け寄ったから、距離が空いてしまった。
俺の体越しに、倉木さんの様子をうかがう鈴川。見なくてもわかる。倉木さんは今、おそろいだと喜んでいた黒縁の伊達眼鏡をかけている。
視線。
交錯。
沈黙。
とても振り向くことはできなかった。
倉木さんの言葉。『鈴川さんと仲良くするの、やめてほしいんだ』今の俺が、その願いに大きく背いた行動をとったのは明らかだったから。
鈴川の言葉。『適度に発散しないと、ため込みすぎてヤバいことになるかも』さっき発散した分に等しいか、それを上回るだけのエネルギーが供給されたことを悟ってしまったから。
きっと、ヤバいことになる。
俺の悲観視は、基本的にいつだって的中しがち。残念ながら、悲しいことに。
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