第14話 堰を切る
翌日の金曜日。荷物をまとめて帰りの準備をしていたところで、珍しいことが起きた。
「御堂くん、ちょっと」
「ん、ああ」
倉木さんはおしとやかでおとなしい性格で、基本的に自分から男子に話しかけることはない。
だからなにかクラス関係の用事でもあるのだろうと思っていると、かなり顔を近づけ、俺たちにしか聞こえないくらいの声量でこう言った。
(一時間後、この前のファミレスで集合ね)
ほとんど耳打ちに近い囁き。倉木さんの甘いソプラノが、じわじわ脳みその深くに浸透してくる。
さては新手の音響兵器だなとか訝っていられたのはごくわずかな間だけで、クラス中の視線がこっちを向いていることに気が付いてからは、なにも怪しいものは持っていないぞと証明するために小さくホールドアップすることしかできなかった。みんなにとっての高嶺の花とどういう関係なんだと問われたら、俺は苦笑いを浮かべて誤魔化すしかない。叩かれるとたくさん埃の出る身なのだ。
しばし人気者の気分を堪能したところで足早に教室を出ていく。
この前のファミレス、と倉木さんは言った。結構距離があるので、歩きだと早めに向かわなきゃ間に合わない。
そう思って靴を履き替え終わってから、なにかおかしいなと思って引き返した。
決定打があったわけではないが、倉木さんが直接、それも人目のあるところで話しかけてきたという違和感を消化しきれなかったのだ。
それに、昨日のこともある。
あれ以上話を進めることも深めることもなく別れたけれど、倉木さんになにかしら思うところがあるのは明白だった。
隠形気分で気配を殺しながら校内を散策していると、おあつらえ向きに倉木さんを見つけた。こちらには気づいていないようで、空き教室に入っていく。
そしてもうひとり、その後ろに続く人影があった。
昨日ずぶ濡れになって帰ったっきり音沙汰のない、鈴川瑠璃羽だった。
「どうかしたの~、倉木ちゃん」
ふたりの第三者対策はおざなりなもので、扉にはわずかな隙間があった。そこから覗き見る形で、会話を拾う。
一日経っても、鈴川はいつも通りなんの変哲もない。まるで昨日のことなんてなかったみたいだ。
「うん、どうしても伝えたいことがあって」
俺の知っている倉木さんは、急に呼んでごめんねとか、きてくれてありがとうとか、そういう言葉から話し始める。
だけどどうやら、今日はそうじゃないらしい。
女の子によくあるような、和気あいあいといったテンションではなかった。ふたりはそれ以上なにか言うことなく、ただ視線をあちこちにやりながら、沈黙を守っている。
そんな、どこか張り詰めた空気がしばらく続いた後。
「この前、助けてくれてどうもありがとう。お礼、すっかり言いそびれちゃって」
倉木さんが口を開いた。
「なーんだ、そんなこと。いいよいいよ、気にしないで」
あっけらかんと受け流す鈴川。あの程度恩に感じることはないと、そう言っているみたいだった。
「それから、お礼と一緒になって申し訳ないんだけど」
倉木さんが深く息を吸う。
なんとなく、その先を聞くべきではないのだろうと思った。同時に、倉木さんは万一にも俺が聞いてしまう可能性を排除したかったんだろうな、とも。
俺を遠くに行かせて、学校に長居しにくくなるような芝居まで打ったのだ。それだけ準備を整えてまで、やりたいことがあった。
「鈴川さんって、御堂くんの怪我のこと、知ってる?」
息を呑む気配。
あれだけ飄々としていた鈴川が見せる、初めての動揺。
その中にあって、はっきりこう言った。
「うん。よく知ってる」
「そうだよね。自分のせいで、怪我させちゃったんだもんね」
なんでそこまで知っているのかと驚いた様子の鈴川。
まさか俺が好き勝手に言いふらすわけない。そんな表情。
それを悟ってか、倉木さんが続ける。
「私もね、あの日、鈴川さんの前を通ってたんだよ。髪がずいぶん長くなってたから、昨日、びしょ濡れになったところを見るまで同一人物だとは気づけなかったけど。
危ないことしてる人がいるなと思って、目も合ったんだ。会話はできなかったけど、なんとなく胸騒ぎがして、その後も遠くから見てたの。
そしたらすぐ、次の人が現れた。スポーツバッグとバットケースを背負った、野球部の男の子。
御堂修麿くん」
当時の状況をぴたりと言い当てられ、倉木さんの言葉が適当なものではないと確信したらしい。
鈴川はなにも言い返さずに、ただじっと次の言葉を待っている。
「すごかったんだよ。鈴川さんが落っこちて一秒も経たないうちに御堂くんは荷物全部放り投げて、欄干を乗り越えて、川に飛び込んでいったの。その後、ものすごい勢いの水流にどんどん流されながらなんとか鈴川さんをつかまえて、岸まで泳いで、私がレスキューを呼んでる間に、あっという間に助けちゃった。」
極限の混乱状態だった当事者の俺と、見ていた側の倉木さんでは捉え方が違うようだった。俺はもっとテンパっていたし、ボタンをひとつ掛け違えただけで水死体がふたりぶん仕上がっていただけの可能性もあった。実際、その無茶は後日事情をたずねにやってきたおまわりさんにやんわりたしなめられている。
たまたまうまくいってしまったからこその、今。
二年経っても、たまに考えることがある。もしかすると鈴川は、あのままひとりで流されていた方が幸せだったんじゃないかって。
「でも、なにもかもはうまくいかなかった。御堂くんは、後遺症が残るくらいひどい骨折をした」
「……追いつこうと思って、本気で橋を蹴ったって言ってた」
実力のあるボクサーがそのパワーゆえに自らの拳を痛めるように、打棒と同じくらい売りにしていた脚力が火事場で出力の限界を超えて、自壊するくらいの大暴れをした。以前、鈴川にはそんな説明をしたように記憶している。どこか茶化して、笑い話にするみたいに。ギプスでがちがちに固定された脚を吊られながら。
「御堂、笑ってたよ。高くついちゃったなって」
ワード選びが危うい。
もっとかしこまって、申し訳なさそうにふるまった方がいい。
そんな常識に、しかし鈴川は縛られない。
「そこで安く済んだなって言ってくれたら、もっとかっこよかったんだけど」
「笑い話じゃないよ」
言葉には温度がなかった。代わりに、倉木さんがこれまで一度も見せたことのないような怒気を感じた。
「鈴川さんのせいで御堂くんの人生めちゃくちゃになってるのに、どうしてへらへらしていられるの?」
「ぺこぺこふるまって御堂の脚が元通りになるのなら、喜んでそうしてたかもね」
売り言葉に買い言葉。神経を逆撫でする煽り文句に、とうとう倉木さんが臨界を迎えた。
倉木さんは、本来争いごとに向いている性格じゃない。避けられるなら喧嘩なんてしたくなくて、傷つけるくらいなら傷つく側に回った方がいいと思っているようなタイプ。
カメラロールいっぱいに撮りためた家の猫の写真を眺めながら、財布扱いを受けてボロボロになった心をなんとか回復させようとする、心優しい女の子。
そんな子が見せる初めての激情は、当然のことながら、自分以外の誰かを思ってのもの。
「鈴川さんは知らないだろうけど……」
きっと、それは封印しておくつもりだったのだろう。どんな展開になっても、そこにまで手をつけるつもりはなかった。そうするのがいいと理性的に考えていた。
だけど、堰を切って溢れ出すものが、温存を許してはくれなかった。
「御堂くん、泣いてたんだよ」
「え」
「鈴川さんを引き上げてから救急車が到着するまでの間ずっと、折れた脚を見て、泣いてたんだよ?」
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