第13話 不出来な嘘

 顔面蒼白の桜庭を介抱して家に帰らせたあとで、一時間くらい前から未読のまま放置していたメッセージがあることに気が付いた。相手は倉木さん。

「悪い、ぜんぜん確認してなくて」

「ううん、まだ帰っちゃう前でよかった」

 お互いがいたちょうど中間地点で落ち合う。歩きながら話そうと言われ、街の外れに向かって進み始める。

 文面は、『今から少し会えない?』だった。ファミレスで豪遊するとか、バッティングセンターに行くとかの明確なビジョンが今回はなくて、それが少し珍しい。

 倉木さんの長い髪が、夕陽に照らされて輝いていた。たしか天使の輪とか呼ばれているのだったか。丁寧に手入れをしてキューティクルを整えないと発生しない、自己研鑽の象徴。それは生まれついてのものじゃなくて、きれいな女の子でいるために続けている、倉木さん自身の努力の賜物なのだと思う。

「お昼のさ」

 ひとり、呟くように語り始める倉木さん。

 詳しく指定せずとも、それがなんの話かくらいはわかった。

「すごく、驚いちゃった」

「破天荒なやつで困った」

 この前教室から連れ出された一件で、鈴川への注目や関心が高まっていたというのも一因なのだろう。そんな恩のある相手が忍び込んだプールで着衣水泳を敢行してなんでもなかったように帰宅していく光景は、強烈な印象を伴って記憶されたはずだ。

 あんなにずぶ濡れになっているのに言葉もふるまいもどこまでも普段通りで、そこには小説を最終ページから遡って読み進めていくような違和感があった。そうなるに足る要素をどこかで取りこぼしたのではないか。胸にくゆる不安を滅しきれず、誰かに問いかけたくなる。

「御堂くんって、鈴川さんと連絡とり合ったりしてないの?」

「してない」 

 と、いうよりも。

「とりようがないんだ。あいつの連絡先、知らないから」

「え」 

 スマホを持っていないわけでも、みんなと同じアプリを使っていないわけでもなく、ただ単に連絡先を交換していない。

 俺と鈴川には、面と向かって会話する以外のコミュニケーションが存在しない。

 最初はそんなことあるのかと訝しげな表情を浮かべていた倉木さんも、徐々にそれを裏付ける材料を記憶から拾い集め始めたようだった。

『どんちゃんは騙されている』

 あんなに慌てて、切羽詰まった感じで訪ねてくるくらいなら、もっと早く一報を入れておけばいい。

 だけど、もしそれができないだけの理由があるとしたら、それは。

「えっと……どうして?」

「教えてってどっちも言わなかったから」

 付け加えて、

「大変だろ、24時間いつでも連絡可能って」

 そんなことも言ってみる。どれだけ物理的に距離があってもうっすらつながった状態というのはすっかり今の時代のスタンダードだが、そうなっては参ってしまうコミュニティや関係性もあるのだった。

 明確に途切れる瞬間がないという事実は、思った以上に厄介だと思う。たとえば倉木さんに関してだって、連絡手段を誰も持っていなければ陰で財布扱いを受けるようなことはなかったはずだ。

 見えないもの、なくてもいいものが知らず増幅されていくのが、俺はひどく恐ろしい。

「……どうたずねるのが正解なのか、よくわからないけど」

 歩みを止めて、真下に流れる川を眺めながら倉木さんは言う。

 適する言葉を絞り出そうとしているように、少なくとも俺は感じた。

「御堂くんと鈴川さんって、どういう関係なの?」

 前と同じ質問。けれども、そこに含まれる意味合いが変質していることくらいはわかった。

 だからはぐらかしたり適当な言葉に逃げることは諦めて、順を追って話すことにする。

「倉木さんは知ってただろ。俺が野球少年だったことと、怪我してやめたこと」

「うん。なんとなくは」

 名前で検索をかけたら所属していたチームくらいはすぐ出てくるし、SNSでの発信にまで範囲を広げればアマチュア野球の情報収集に命をかけている好事家たちがたくさんの噂話をしている。

 俺にお友だち契約を打診するにあたって、倉木さんは予め調べられるものは大体調べたといった。内偵済みかよとひやひやした記憶が残っている。

「その日は、練習帰りで疲れてたんだ。暗くて足元が見えなかったのも理由かも。いろんなことが重なって、俺は歩道橋の階段で足を思いっきり滑らせた」

 あるべき場所に地面がなかった、というイメージ。

 元気いっぱいだったらすぐに体勢を整えてヒヤリハット止まりだったんだろうけど、疲労のせいでそうはいかない。

「きっちり一番下の段までゴロゴロ落っこちて激痛で悶えていたところを、たまたま通りかかった鈴川が119番してくれた。俺のどんくささを知ってなにかにつけて心配してくるようになったとか、そういう感じだと思ってもらえればいいかな」

 結果として脚はダメになり、競技者としての寿命は尽きた。鈴川はスポーツエリートだから、それがどんな意味を持つのか痛いくらい理解できてしまった。

 ただ、今の説明ではどうやら不十分だったようだ。

 倉木さんの浮かべる表情はどこか暗くて、硬い。

「御堂くんさ」

「うん」

「私が人間不信どうこう言ってるくせに、どうして自分は最初から信頼されているんだろうって考えたことなかった?」

 当然あった。都合がよすぎる。あり得ないって。

 けれど、その疑問を解消するに足る材料も持っていた。 

「あの冬の一件があったからだろ?」

 倉木さんの存在を認知せず、倉木さんを害した相手に報いを与えた存在として、ある程度信用のおける人物として位置づけられたのだと解釈していた。

 過不足ない……とまでは断言できないが、俺自身を納得させられる程度の説得力がそこにはある。

「もちろん大きく関わってるよ。でも、そっちはどちらかというと決め手」

「他になんかあったっけ?」

 倉木さんのことは本当に知らなかった。学校ですれ違ったことくらいはあっただろうが、学校の外に出て私服なんか着られたらもう一致するわけがない。ただのすごくきれいな女の子。それでおしまい。

 だから当然、あの日以前に印象的な関わりがあったとは考えられないんだけど。

「だって」

 倉木さんが背中を預ける。この前ステッカーまみれの電柱にしていたように、今度は、橋の欄干に。

「あのとき通報したの、鈴川さんじゃなくて私だもん」

 瞬間的に体温が下がるような錯覚をした。

 出来の悪い嘘がバレた恥ずかしさ。そしてそんなのがどうでもよくなるほどの、喉の渇き。


「ちょうどこのあたりだったかな」

『おにーさんおにーさん、ちょっとおはなししませんか?』


「御堂くんより早く、あそこを通り過ぎてた人がいたんだよ」

『スポーツやってますよね、その感じだと』


「たぶんお眼鏡にかなわなくて、その子は話しかけられなかったけど」

『自分もね、スポーツやってるんですけど』


 現在と過去が重なって、視界が霞むようだった。

 欄干の上に座って脚をぷらぷら揺らす女の子。声をかけられたことで、歩みを止めて会話に応じる俺。

 二年も前の話なのに、空気の匂いも、通り過ぎる風の手触りも、昨日のことのように思い出せる。


「ねえ、御堂くん」


 今日はきっと、これを問いかけるためだけに呼ばれたのだと理解した。

 倉木さんの目は真剣そのもので、逸らすことは許されない。


「どうして自分を終わらせた女の子と、今も仲良くしているの?」



********************



 背中から、重力に任せて真っ逆さまに落ちていく女の子を見送った。

 初めはなにが起こったのか理解できずに呆然として、それから急いで真下を眺める。女の子は大雨の後の濁った水に揉まれながら、下流へ運ばれていくところだった。

 まったく状況が整理できなくて、なにひとつ飲みこめなくて、脳みそが漂白されたようだった。

 そこから先はもう、完全に空回り。

 ほかにできることもやるべきこともたくさんあったはずなのに、思考停止で後を追った。

 女の子は流れに身を任せるばかりで、放置したらよくないことになるのだけはわかっていたから。

 なにより、さっきの受け答えにおいて、自分が取り返しのつかない致命的な過ちを犯してしまった気がしたから。

 実際に自分で飛び込んでみた川は上から見るよりもずっと流れが速く、水温も冷たい。服の抵抗もあって、プール遊びとは環境が違いすぎた。

 そうして戸惑っている間にも、女の子はどんどん流されていく。普通に泳ぐだけではどうにもならないと悟って、加速のために橋脚を全力で蹴った。

 やっとの思いで腕をつかんだ女の子は、落下の衝撃ですっかり意識を失っていた。訓練を積んだライフセーバーみたいにかっこよくはいかないもので、汚い川の水をがぶがぶ飲み、無様な片手クロールで何メートルも流されながら、這う這うの体で堤防にたどりつく。

 なんとか女の子を引き上げ、呼吸があることを確認し、救急車を呼ばなくてはと立ち上がったところで。

 ずるりと。

 冗談みたいな転び方をした。

 

 右脚の膝から下が、変な方向に曲がっていた。

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