第十二話 目的

 呼吸は意味をなさない。息だけが、荒く。でも息を吸っていない。空気が来ない。


 何故。こんなところに――


「木村――公彦さん」

 声を、掛けられる。


 だ、だれだ? 知らない、そんな名前は。


 いやそれはたぶん。おじさんの、からだのなまえ。


 芳樹の表情は暗かった。


 暗い道。


 暗いくらい、月も出ないその夜。


 電信柱、照明の下で。


 俺たちは立ち尽くす。


 返事が、できない。呼吸だけが、荒く聞こえる。


「わかっているんです。近藤沙良さんとパパ活されていますよね」


 わかって、る。知って、る……



「それを、即刻辞めていただきたいんです。――申し遅れました。俺は、彼女の彼氏、東城芳樹と言います」



 ぴ、さめ……?



 俺はもう理解していた。充分に。ピサメは、彼女の蛮行を止めるために、俺と入れ替わったのだと。

 だから言った。


「……ピサメ、わかったよ」

 芳樹はひるんだ。


「は……。ピサメ? 何の……いやまさか、お前ピサメか?」


「……そうだ」


「そうか、お前も、アイツと入れ替わって、沙良を守ろうと――」

 も? どういうことだ。いや、それより。


「何も、何も分からないんだ。気が付いたら、こうなってた。これは戻るのか。それに沙良は。あの子はいつもこんなことを――」


「詳しい説明は後だ。沙良が出てくる」


「おれは、俺はどうしたら。このままの体で生きるのか? いやだ! おれは、俺、は」


「そのおっさんの事ならわかっている。自宅もな。おっさんのスマホ分かるか? 住所を説明してやる。とにかく帰れ」


「こわい。いやだ。帰りたくない。ピサメ、お前、俺の体を返せよ。今すぐ早く、そしたら。解決する話じゃないか」


「それは……今はできない。それに。お前がもとに戻る方法を、俺は知らない。自分の感覚なんだ。入れ替わりは」


 自分の、かんかく。

 それは衝動の、ように。


「俺の感覚ではない。だから、お前に教えられることはない。俺はお前を戻す、術を持たない。いいから今は、その体の家へ帰れ。それ以外に、お前がやれることはない」


 それは正論なのか? 何も考えらえず。


 ただ従う――


 俺は混乱している。混乱して、いる。

 


 芳樹に説明された住所は、おじさんの財布にある証明書と同じ住所だった。


 芳樹の奴、どうやって。


 いつから。知っていたんだ。おじさんの事を。沙良の、事を。


 混迷する意識はいつ途切れてもおかしくはなかった。


 地図アプリを頼りに、なんとかその住所へ向かう。



 おじさんの家。それは、思ったより普通の家、だった。


 こんなにも、ありふれた普通のおっさんが、彼女を――女子大生を「買って」いたっていうのか。


 黙って家に入る。

 荷物に在った鍵は、無情にもするりと鍵穴に入り込んだ。

 小さい音がして、中に入る事を許される。

 


 知らない家。知らない、靴。知らない、椅子。知らない、時計。

 時刻は夜の二十三時。いつの間にか、こんな時間になっていた。


 どうしたものか。


 一瞬の間。その後に。



「あなた、遅かったわね」

 知らないおばさんに、声を掛けられる。



 これは、この人は、おじさんの奥さんか? 綺麗めだが、確実におばさんだった。目元のしわ。残酷な、時間の流れ。年齢は恐らく四十代。そんな感じ。


「あ、ああ……」


「なにがあったんです? 服が乱れて……髪も」


 言われてみれば、俺の格好はいささかボロボロだった。


 慌てて服を着たし、風呂上りに外に出たようなものだから、体は冷えていた。



 今更――気が付く。



 大きなくしゃみが出た。

「あらあら。お風呂、入れましょうね」


 おばさんが浴槽に湯を張ってくれた。


 言われるがまま、湯につかった。


 熱い湯にすべてがほどけていく感覚。あるいは。


 体の芯は冷たいのに外側だけが温まっていく空虚な感覚。


 織のように何かが溜まって。


 それは俺を確実に蝕んでいて。


「あなた? お着換え、ここにおきましたよ」


 おばさんの、こえ。

 脱衣所から、声を掛けているのだ。ドアに、おばさんの影がうごめく。


 俺は、お礼を言おうとして、動きを、止める。


 扉が、開く。


 風呂の扉が。



 へ。



 空っぽの頭。何かを考えていたようで、何も考えられていない。のに。


 現実は俺をただ、狂わせる。



 おばさんは。そして言う。



「あなた、たまには――いっしょ、に」




 何かが弾けた。

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