戻らせない
夜風が冷たく肌を刺した。
蒼は腕を振りほどこうと必死にもがいたが、元彼の指は鉄のように固く、簡単には離れなかった。
「離して……っくださいつ!」
掠れた声に、元彼が苛立ち混じりに息を吐く。
「まだ逃げようとすんのかよ。あんな奴のとこ、戻る価値あると思ってんのか?」
その時だった。
公園の外から車のライトが差し込み、白く蒼たちの影を照らした。
扉が勢いよく開く音。
「――蒼」
走ってきたのは、恭弥だった。
彼の目だけは真っ直ぐで、鋭く光っている。
蒼はその姿を見た瞬間、安堵よりも先に怯えが勝った。
また、怒られるかもしれない。
また、傷つけ合うのかもしれない。
恭弥の少し見えた位置情報のスマホの画面を見て
元彼が低く笑った。
「さすがだな。位置情報で追ってくるとか、まじで監視じゃん」
「黙れ」
恭弥の声は短く、冷たい。
それだけで空気が震えた。
「なんだよ。また怒鳴るか?昨日のこと、こいつから聞いたよ。約束すっぽかして泣かせたんだってな。仕事が忙しい? そんなの理由になんねぇだろうが。」
恭弥の眉がわずかに動いた。
反論しようとしても、喉の奥が詰まって声が出ない。
自分のしたことを正当化できるはずがなかった。
「だからこいつ、また泣いてたんだよ。お前が追い詰めたんだ」
元彼の手が蒼の肩に触れる。
恭弥の目が、刃物のように鋭く光った。
「その手を離せ」
低く、震えるような声。
「蒼は俺の…」
言いかけたその瞬間、
蒼が「やめてくださいっ!」と叫んだ。
二人の間の空気が、一瞬で張り詰める。
蒼の目には涙が滲み、声が震えていた。
「もう、喧嘩しないで…ください…お願い、もう怖いの、嫌なんです…」
沈黙。
恭弥の拳がゆっくりと下ろされ、元彼は舌打ちをして手を引いた。
「蒼、いいのかよ。またあんな奴のとこ行って、泣くだけだぞ」
その言葉に、蒼の肩がびくりと揺れた。
恭弥は一歩前に出て、蒼をかばうように立つ。
「お前がまた蒼に触れた瞬間、俺は容赦しない」
元彼の口元がわずかに歪む。
「容赦?何言ってんだ。それで守ったつもりか?さっきからお前の方がよっぽど怖ぇよ。そんな気味悪い顔で睨まれて、こいつ、また怯えてるじゃねぇか」
その言葉で、恭弥の動きが止まった。
ほんの一瞬。
視線の先で、確かに蒼は小刻みに震えている。
その震えは、冷たさではなく恐れだった。
恭弥の胸が痛んだ。
「……蒼」
呼びかけても、返事はない。
元彼がその隙を逃さず、蒼の腕をもう一度取ろうとした。
「行こう。俺なら泣かせねぇ。お前のこと、今度こそちゃんと…」
その手が触れる前に、恭弥の腕が蒼を引き寄せた。
強く、迷いのない力で。
「黙れ」
低く抑えた声が、夜気を切り裂いた。
「これ以上、こいつを混乱させるな」
元彼が何かを言い返そうと口を開くより早く、恭弥は蒼の肩を抱えたまま駐車場へ向かう。
蒼は戸惑いながらも抵抗できず、ただ引き寄せられるまま。
「恭弥さんっ…うっ、まって、やだ……っ!」
「今は黙ってろ」
車のドアが開く音。
恭弥は蒼を助手席に押し込み、シートベルトをかける。
その動作は荒いのに、どこか震えていた。
元彼が駐車場の端から叫ぶ。
「そうやってまた力で縛るのかよ! 結局同じだろ!」
恭弥は何も言わなかった。
ただ、運転席に乗り込み、ハンドルを握る手に力を込めた。
エンジン音が夜の静けさを裂く。
蒼は震える指先で、シートの端を握っていた。
涙が頬を伝う。
隣の恭弥は、何も言わないまま前だけを見ていた。
窓の外で、元彼の姿が遠ざかっていく。
ただ、視界から消える最後の瞬間まで、その笑みだけは薄く、消えずに残っていた。
車内を照らす信号の赤が、ふたりの顔を交互に染めては消えていった。
ハンドルを握る恭弥の指が、わずかに震えている。
蒼は視線を伏せたまま、唇を噛みしめていた。
「……恭弥さん」
その声は、擦れた。
「もし、元彼のほうがちゃんとしてたら……僕、戻ってたかもしれません。」
恭弥の手が一瞬、ハンドルから離れそうになった。
その音のない瞬間に、車内の空気が一気に凍る。
「……なんだと?」
低く、喉の奥から絞り出した声。
蒼は俯いたまま、怯えと苦しさの混じった息を吐いた。
「だって、怖かったんです。恭弥さん、さっきあんな顔して……。僕のこと本当に好きなのかも、もうわからなくなって……」
「……言葉を選べ。」
恭弥の声は低く静かだが、内側に怒りが渦巻いている。
「お前、あんな男のとこに“戻るかもしれない”って……それを俺に言うのか。」
「違う、そうじゃなくて……!ただ、もう誰かに守られてるほうが楽だと思っただけで…恭弥さんは…」
恭弥がハンドルを強く握る。
車がわずかに揺れた。
赤信号の光がフロントガラスに滲み、彼の表情を歪ませた。
「蒼、黙れ」
その一言が、短く鋭く響いた。
蒼は息を呑んで、言葉を飲み込む。
涙が頬を伝う音さえ聞こえそうな沈黙が落ちる。
「今、お前と喋ったら……俺、事故を起こす。」
恭弥の声は怒鳴りではなく、抑えた叫びに近かった。
「だから頼む、家に帰るまで黙ってろ。」
蒼は何も言えなかった。
ただ、隣の男の顔なんて見る勇気がなく、窓の外に流れる街灯を見つめながら、
胸の奥が締めつけられるように痛かった。
ハンドルを握る恭弥のは、ただ必死だった。
怒りでも悲しみでもなく、
「蒼を無事に家まで連れて帰る」
その一点にすべての理性を注いでいた
車は無言のまま夜道を走り続けた。
信号の光が何度もふたりの顔を照らしては、また闇に戻る。
沈黙のまま、車はやがて家の前に停まった。
エンジンが止まる音が、妙に大きく響く。
その音が消えると、ふたりの呼吸だけが残った。
「……降りろ」
恭弥の声は、かすかに掠れていた。
蒼は震える手でシートベルトを外し、無言で車を降りる。
玄関の鍵を開ける音だけが響く。
ドアを閉めると、ようやく恭弥の低い声が落ちた。
「……話を、続けようか」
その声には、怒りよりも痛みが滲んでいた。
嵐のような夜はいつまでも続いた。
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