プロローグ

朝の教室は、まだザワザワとした声が少なく、窓から射しこむ光が机の上にやわらかく落ちていた。


カーテンを揺らす微かな風が、新しい一日の始まりを告げている。


僕はカバンを机の横にかけて、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。


まだ冷たい感触の木製の机に手を置くと、昨日までの宿題の疲れがじんわりと溶けていくようだった。


ふと、ワイシャツのボタンがひとつだけ留められていないことに気づく。


どおりで少し肌寒いと思ったわけだ。


慌てて手を伸ばして直そうとしたその瞬間


横から伸びてきた指が、僕より先に器用にボタンを留めてくれた。


「ひとみってば、またボタン止め忘れてる。もう、慣れっこだけどさ」


「…えへへ、僕も今気づいたところなんだ」


僕の幼馴染、渡瀬學くん


彼は呆れたような声でそう言ったけれど


その表情は少しも怒っていなかった。


それどころか、まるで猫を可愛がるみたいに、優しい目で見つめてくる。


「本当に、おっちょこちょいだよね~」


そう言いながら、彼は僕のふわふわとした髪をくしゃっと撫でた。


「ほら、これで出来た。って、まだ寝癖もついてんじゃん」


僕は照れ隠しに頬を掻いた。


學くんの指摘はいつも少し口うるさいけど


その瞳に映る僕はいつだって大切にされているみたいで、その視線に耐えきれなくなる。


「そんなことないよ、多分……」


「あるって。はい、ちゃんと直して」


僕は彼の言葉に素直に従い、ポケットから櫛を取り出して髪を整えた。


そんな時、予鈴が鳴り響き、がらりと教室のドアが開いて担任が入ってくる。


生徒たちの話し声がぴたりと止み、緊張感に包まれた。


「ほらみんな、席につけ。ホームルーム始めるぞ」


その声に従って、みんなが自分の席に戻っていく。


僕も學くんと一緒に席についた。


「よし、みんないるなー。じゃ、出席取ってくぞー」


先生が次々に名前を呼んでいく中、僕はぼんやりと窓の外の景色を眺めていた。


都会の空は少しだけくすんでいるけれど


流れていく雲は自由で、まるで時計の針のようにゆっくりと


しかし確実に進んでいるように見えた。


その心地よい時間の流れに身を任せていると、心がだんだんと落ち着いていく。


「東雲眸」


「…あ、はい!」


突如名前を呼ばれて、僕ははっと我に返った。


慌てて返事をすると、先生はクスッと笑った。


「黄昏れてたのか?さすがは東雲ホールディングスの跡取り息子だな~」


先生の言葉に、クラスのみんながくすくすと笑い出した。


その温かい反応に、僕は少し恥ずかしくなる。


「あはは……」


照れ隠しに頭を掻きながら微笑むと、周りから優しい視線を感じた。


僕が東雲ホールディングスの息子だということは


皆から距離を取られてしまうんじゃないかと心配していたが、それは杞憂だった。


特別視されることもなく、ごく普通の友達として接してくれている。


そのことが、いつも僕を安心させてくれた。


「よし、ホームルーム終わりだ。次は移動教室だからな、各自準備をしておくように」


先生が教室を出て行くと同時に、生徒たちのざわめきが戻ってきた。


まるで一気に春が来たみたいに、教室は活気を取り戻した。


「ひとみ~、また『ぼーっとタイム』だったね」


學くんが僕の背中を軽く叩きながら言った。


「もう、まなぶくんまでからかわないでよ……」


拗ねたフリをするけど、彼の顔には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。


「ごめんごめん、てか次情報じゃん。2階だし、早めに行こ?」


學くんはそう言って、僕の腕を軽く引っ張る。


「わ、分かったからそんな急かさないでよ、今出すから…」


僕は慌てて情報の教科書とファイル


そしてヒヨコの形をしたお気に入りの筆箱をカバンに詰め込んだ。


立ち上がって彼の方を振り返ると、彼はもうドアの方に向かっている。


「ほらひとみ、置いてくよ~?」


「今行くってば!」


廊下に出ると、他のクラスの生徒たちが楽しそうに話しているのが見える。


そんな中でも、僕たちは特別仲良しだという自覚があった。


階段を登り始めると、大きな窓越しに青空が広がっているのが見えた。


澄んだ青色に浮かぶ白い雲が、僕たちの歩みに合わせて流れていく。


その瞬間、僕の気持ちも晴れやかになり、自然と笑みがこぼれた。


「ねぇ、學くん」


「ん?」


「今日のお昼なんだけどさ……」


僕は少し言いづらそうに切り出した。


「どしたの?」


「ちょっと放送局の集まりがあるから、先に空き教室で食べててくれるかな?」


僕がそう言うと、學くんは少し考える素振りを見せた後、すぐにいつもの笑顔に戻った。


「おけ、そーゆーことなら待ってるよ。ひとみと話しながら食いたいし」


「えっ、でもお腹すいちゃうよ?」


「いいって、どうせ集まりなんかすぐ終わんだし」


彼の言葉に、僕の胸は温かくなった。


こんな風に僕を気遣って、待ってくれる。


そんな優しさが、僕にはとても嬉しかった。


「…そっか、うん、なるべく早く済ましてくるね!」


僕は精一杯の笑顔でそう言った。


こんな会話も日常茶飯事で、お互い理解し合ってる安心感があるからこそできるやり取りだと思って、胸が熱くなった。




それから1時間、2時間、3時間と時間は過ぎていき、待ちに待った昼休みを迎えた。


僕は放送局の集まりを終えると、足早に1年A組の隣にある空き教室に向かった。


僕が扉を開けると、彼はすでに席についてスマホゲームに夢中になっているところだった。


いつものようにAirPodsをつけ、真剣な顔で画面を見つめている。


「遅くなってごめん!」


僕が慌てて駆け寄ると、彼は顔を上げてAirPodsとスマホをテーブルに置いた。


そして、いつもの優しい微笑みを浮かべて首を横に振った。


「全然平気だよ。お疲れ」


そう言ってくれるだけで、ホッとする。


そして2人でお弁当を開け始める。


「わぁ、美味しそう!!」


僕は學くんのお弁当を見て、思わず歓声を上げた。


「今日もまた母さんが張り切って作ってたからねぇ」


自慢げに言いながら蓋を開けて箸を持つと、中には唐揚げや玉子焼きがぎっしりと詰まっていた。


見るからに美味しそうで、お腹がぐーっと鳴る。


「ま、食おっか」


「うん、いただきます!」


2人で手を合わせて食べ始める。この時間が、とても幸せだった。


ただ隣にいるだけで、他愛もない話をしながら笑い合って、同じ時間を共有している。


それだけで、僕の一日は特別なものに変わるのだ。



◆◇◆◇


「そーだ、今日発売された新作ゲームあったじゃん?今日の放課後、買いに行かね?」


唐揚げを頬張りながら、學くんが唐突に言った。


「えっ、あの新発売の対戦ゲームだよね?!もちろん行く!買って僕の家でやろうよ!」


僕は興奮して身を乗り出した。


「よっしゃ、じゃあ決まりな」


「うんっ!!楽しみだなぁ~♪」


僕たちは、これから始まるゲーム対決に胸を躍らせた。



◆◇◆◇


放課後になると、僕たちは足早にゲオに寄って


買ったばかりのゲームをカバンに入れ、僕の家へと向かった。


家に着いてリビングのドアを開けると、いつものようにふんわりと優しい香りが漂ってきた。


「んじゃ、早速やろ」


「うん!負けないよ!」


僕はソファに座ってテレビをつけ、ゲーム機を起動した。


學くんは僕の隣に座り、コントローラーを握りしめる。


ゲーム画面が映ると、軽快なBGMと共にキャラクター選択画面になった。


僕はいつも使っている魔法使いを選ぶ。


一方、學くんは剣士を選んでいた。


「今回も俺が勝つからね〜。覚悟しときなよ」


「望む所だよ!今日こそ僕が絶対勝つ!」


そしてバトルが始まる……


画面の中の僕たちは、互いの技をぶつけ合い、激しく動き回った。


僕の魔法が光を放ち、學くんの剣が風を切る。


コントローラーを握る手に自然と力が入った。


「っしゃあ!5勝3敗で俺の勝ち!」


隣で學くんがガッツポーズを取りながら喜ぶ。


それとは裏腹に、僕はコントローラーをそっとテーブルに置いて、呆然としていた。


まさかこんなに負けるなんて思わなかったのだ。


「はぁ~、まなぶくん強すぎ……!」


そう呟きながらソファにもたれかかる。


そんな僕を見て、學くんは嬉しそうに笑った。


「チッチッチ…俺が強いんじゃなくて、ひとみが弱すぎるだけ♡」


「まなぶくんと言えどぶん殴るよ!?」


「ふっ、俺の方が握力強いのに?」


「も、もう!次は絶対勝つもん!!」


思わずそう叫んでしまい、2人で顔を見合わせると吹き出してしまった。


やっぱり彼といると退屈しないし、いつだって楽しい。


そんなことを思いつつ、時刻は6時を回ろうとしていた。


彼の隣で過ごす時間は、いつもあっという間に過ぎてしまう。


僕にとって、それはきっと、特別な時間で


學くんも同じ気持ちだったらいいなって思う。

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