旅の準備
酒場を後にして、トモハルは急いで自宅に戻る。善は急げである。出立の準備をせねばならなかった。
「ただいま!」
乱暴に扉を開けて、自室へ駆け込む。どの程度旅をするか見当もつかないが、取り敢えず必要そうなものをバックパックに詰め込んでいく。
テント、焚き火セット、鍋、外套に、ブーツ、保存食にエトセトラエトセトラ。とにかく詰め込めるだけ詰めこむ。
「あ、そうだ! 八百屋に聞き込みに行かないと!」
仕入れ先を聞かなければならない。兎に角今日はもう遅いので、一晩待って明日の朝にでも旅立とう。旅の準備をして、ああ、八百屋に行かないと!
とにかくトモハルの心は踊っていた。久しぶりに煙草を吸えるかもしれない。そんな期待が、トモハルのささくれだった心を優しく満たしていく。
「ミシェル! 俺明日から旅に出るから! 留守番よろしく!」
トモハルはランドリーに居たミシェルにそう告げた。それはもう満面の笑みで。ミシェルはポカンとした顔で頷く。
「そう。分かった。ところで頼んでた食材は買ってきた?」
「あ……」
「はぁ、そんなことだろうと思った……そんなんで旅なんて出来るの?」
ミシェルは呆れ顔でそう言う。ミシェルもメアリーと同様、トモハルのことを子供だと思っている節がある。底辺冒険者の頃からの付き合いということもあるし、何よりトモハルの子供っぽい(この世界基準では)顔つきのせいだろう。
「す、すまん! 急いで買ってくる!」
トモハルは慌てて屋敷を出た。
「夜道には気をつけるのよ!」
ミシェルが叫んだ。トモハルと比べて六つも年下だというのに、まるで母親のような言葉である。
「俺はSランクなんだけど!?」
そのツッコミは、虚しく空へと溶けて消えていった。
「……よし、これでお使い終了だ」
それから怒涛の勢いでトモハルは買い物を終わらせた。Sランク冒険者の身体能力を持ってすれば、この程度の依頼煙草を吸い終わる時間もかけずに終わらせられるのである。いささか勿体無い力の使い方ではあるが。
「よし、それから八百屋だな!」
トモハルは急いで八百屋に向かった。
八百屋、といってもトモハルが勝手にそう呼んでいるだけである。実際は野菜だけではなく、種苗や香木、薬草といった植物全般を扱う店である。
「八百屋! 聞きたいことがある!」
「ヤが多い! 俺はヤオだ!」
店主のヤオが憤慨した様子で訂正する。恰幅の良い、四十代くらいの男である。つるりと光る禿頭が眩しい。
トモハルは気にせずにヤオに問う。
「このタマトは何処から仕入れている!?」
「ん? なんだタマトが欲しいのか? 今なら5個で200ギルにまけといてやる!」
ギルはこの国の通貨の単位である。ざっくり1ギル1円で換算できる。
「買うとかじゃねぇ! 何処で仕入れているか聞いてるんだよ!」
「あ? 仕入れ先か? これは南のローニャの村だったかな? 行商人から仕入れしてるから詳しくは知らないが」
「ローニャの村だな!? 分かった、ありがとう。ついでにタマトを買っていくわ!」
財布から適当に金を掴んでヤオに放り投げる。代わりにタマトを二、三個取っていく。
「お、おい! こんなに貰えねぇよ!?」
「情報量だ! とっとけ八百屋!」
「ヤオだ! ……いや、もうヤオヤでいいや」
トモハルからの駄賃を握りしめて、ニマニマと笑うヤオであった。
「ミシェルただいま!」
トモハルは急いで厨房へ。そこには夕飯の準備をするミシェルが居た。
「おかえり、サナダ。ちゃんと買えた?」
相変わらずお袋全開である。トモハルは紙袋を差し出す。
「俺は風呂に入ってくるから!」
そう言って浴室へ。
庶民の家に風呂があるのは非常に稀である。水系統の魔法が使えなければ大量の水を用意するのも困難だ。用意できたとしても体を温めるだけのために使うなど贅の極み、普通の市民には到底できない。しかも湯を沸かすために薪を使うのだから、尚更真似できない。
大抵は少量の水で布を湿らせ、垢を拭く程度である。体臭は香木を焚いて誤魔化す。それがこの世界の常識である。
しかし、トモハルはSランク冒険者である。金は唸るほどある。この屋敷を設計したときに、どうしても風呂が欲しいと無理をいって作らせた。
「あ゛ー! 生き返る!」
掛け湯をして、浴槽にドボン、と飛び込む。薪で沸かしたお湯は、じんわりと身体の奥からあったまるような優しい、まろやかな熱を持っている気がする。
「ふんふんふーん!」
鼻歌を歌いながら明日の旅程について想いを馳せる。もしタバコの葉が見つかるならば、この異世界での生活も少しは楽しくなるだろう。トモハルの顔がついニヤける。
「サナダ、ご飯できましたよ!」
ミシェルの声が聞こえてくる。
「んー、もうちょっと!」
トモハルが答える。明日から旅に出るのだ。帰ってくるのはいつになるか。今のうちにこの至福の時間を出来るだけ長く堪能していたかった。
するとミシェルの声が近づいてくる。
「サナダ! ワガママ言わない!」
「お前は俺のオカンか!」
「なんですか、そのオカンというのは! それよりご飯が冷めちゃいます!」
「あとちょっと! あとほんの少しだから!」
「もう!」
浴室のドアが開け放たれた。
「はやく上がりなさい!」
「きゃー!?」
トモハルは咄嗟に胸を隠した。そんな自分が情けなくて、トモハルは浴槽に沈んだ。
§
「ご馳走様でした」
夕飯を終え、トモハルは手を合わした。ミシェルもそれに倣って手を合わせる。おそらく意味は理解していないだろうが。
空いた皿をミシェルが手早く片付ける。この辺は流石元宿屋の娘である。手慣れた様子で洗い物をこなす。
「というわけで明日から不在にするけど、風呂とか食糧とか自由に使って良いから。別に両親呼んでしばらく滞在してもらっても良いし」
宿屋が潰れてから、ミシェルの両親は王都の外れの方で生活している。元気にしているそうだが、親子の時間を作るのも大切だろう。
「どういう訳なんだか……両親は別にほっといても大丈夫よ。今ごろ夫婦水入らずで過ごしてるでしょうから。親の惚気話聞かされる立場も、辛いものよ?」
ミシェルが辟易とした表情でそう言った。それは、確かに最悪である。
「まあ、これまで懸命に働いてきたんだから、それは多めに見てあげて?」
「分かってるわよ。だからこうして私が働いて両親に恩返ししてるんじゃない」
トモハルはミシェルにかなり多めの給金を渡している。親切にしてくれた恩もあり、どうにか力になりたいと思ったのだ。
「でもそれとこれとは別。私は久しぶりにゆっくり一人で過ごすことにするわ」
「そっか。そしたら戸締りには気をつけて。世の中には悪い人が大勢いるから」
「この屋敷を襲撃しようなんて奇特な人、いるのかしら?」
「いたけど、もう居ないかな?」
そんな奴らはすでにトモハルが血祭りにあげた後である。
この屋敷はトモハルがAランク冒険者の頃に建てたものである。その頃の彼には両手で数えきれない程の敵が居た。厄介ごとに首を突っ込む悪癖のせいで、敵対するものがわんさかいたのだ。
当然、夜襲をかけてくる不届きものもいたが、全て返り討ちにする内に、自ずと王都内のマフィアや地下組織がことごとく壊滅したのであった。
それでも馬鹿というのは治らない病気だ。トモハルが不在なのを良いことに、忍び込んでくる輩が居ないと限らない。
「できるだけ早く帰ってくるけど、もし何かあればギルドを頼ってくれ。サナダの関係者と言えば向こうも無碍にしないから」
「分かりました」
それからしばらくリビングでグダグダと過ごしてから、自室に戻る。明日が楽しみでトモハルはなかなか寝付けなかった。
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