第16話:愛の論理と、規範の崩壊
長期未整理資料保管庫――図書館の地下深くに広がる、埃と記憶が眠る部屋。
佐伯悠真がオルゴール箱の中のメッセージに打ちひしがれ、涙を流すその背後で、野々宮会長は静かに立ち尽くしていた。彼の顔は、照明の届かない暗闇の中で、判別できないほどに無表情だったが、その瞳だけは、悠真と、机の上のオルゴール箱に、鋭い光を放っていた。
「佐伯……やはり、君はここにいたか」
野々宮の声は、威圧的でも、責める調子でもなかった。それは、規範という完璧なシステムが、予測不能なエラーに直面した時の、静かな報告のようだった。
悠真は、涙を拭うことなく、ゆっくりと立ち上がった。手の中には、詩織の最後の告白が書かれた栞と、オルゴール箱。彼は、その全てを野々宮に向かって差し出した。
「野々宮会長。君は、僕を止めるためにここへ来た。僕の非効率な感情が、君の論理的な規範を破ることを許さないからだ」
野々宮は、一歩前に出た。
「そうだ。君は、受験という最も重要なデータを捨てて、亡くなった友人の幻想を追った。それは、君自身の未来の裏切りだ。今すぐ、ここから出て、君の本来の論理的な役割に戻れ」
悠真は、深く呼吸をした。この地下の部屋は、詩織の愛の論理と、野々宮の規範の論理が激突する、世界の縮図のようだった。
「僕の論理は、もう君の論理ではない。詩織は、僕に新しい論理を教えた」
僕は、オルゴール箱の中身を、机の上に広げた。リコリスのプレート、交換日記の最終ページ、そして、僕がノイズとして否定した、詩織の愛の証拠の数々。
「見てくれ、野々宮会長。詩織は、僕が彼女に冷たくした理由を、『遠い未来で出会うための論理的な防御線』だと解釈した。彼女は、僕の臆病な論理を肯定してくれたんだ」
「しかし、彼女は続けた。『愛は、防御線なんかじゃない。愛は、接続詞だ』と」
野々宮は、顔を近づけ、交換日記の乱れた文字を読んだ。彼の瞳が、微かに揺れる。
「接続詞…?それが、どう論理的だというんだ?」
「君の論理は、『僕の完璧な未来』という一つの結論のために、感情や失敗という非効率なノイズを全て切り捨てる。だが、それは、僕が詩織を失った時の痛みのデータまでをも、無視することになる」
悠真は、プランターのプレートを指差した。
「『庭園には水が必要です』。この水とは、僕が失った感情的な潤いのことだ。そして、詩織は、その水を僕に戻すために、彼女の命を懸けた」
僕は、オルゴール箱の中から、M.G. 患者からの手紙を取り出し、野々宮に渡した。それは、詩織がボランティアで関わった、末期の患者からのお礼の手紙だった。
――
「あなたの笑顔と、庭の花を見るたび、あと一日生きてみようと思えました。あなたの『無駄な時間』は、私にとっての『命』でした」
――
野々宮の手が、その薄い手紙を握りしめた。彼の規範は、効率を求めるが、この手紙は、非効率な愛が、命という最も価値のあるものを維持したという、究極の経済効率を証明していた。
悠真は、声を震わせながらも、はっきりと言い切った。
「詩織は、僕の心の機能不全を防ぐために、この愛着という非効率なデータを、僕の人生にインストールしたんだ。これが、彼女の第四の願いであり、僕に**『後悔のない未来』**を託すための、彼女の愛の論理だ」
「愛を『ノイズ』だと切り捨てる僕の論理は、結果的に僕を孤独にし、最終的に僕の精神を破壊するという致命的なバグを抱えていた。詩織の愛は、そのバグを修正する、最終結論なんだ!」
野々宮の瞳から、それまでの冷たい光が消え、代わりに、深い戸惑いと、人間の感情が滲み出てきた。彼の完璧な論理の壁は、詩織の純粋な愛の論理によって、完全に打ち砕かれたのだ。
野々宮は、ゆっくりと頭を垂れた。彼の肩が、微かに震えている。
「佐伯……僕は…間違っていた」
彼の声は、これまでの生徒会長としての冷たい規範ではなく、一人の高校生としての苦悩を帯びていた。
「僕は、君を優秀なデータとして守ろうとした。だが、詩織くんは、君を一人の人間として救おうとした。彼女の論理の方が…僕の規範よりも、遥かに、優しく、そして完成されている」
野々宮は、僕が持っていたオルゴール箱を、恭しく両手で受け取った。
「彼女は、君のために命の全てを使った。それを非効率な幻想と呼ぶのは、僕の傲慢だ。僕は、君の新しい論理を、ここにいる第三者として、承認する」
彼は、周囲を見回した。
「佐伯。時間は、もうない。君は、ここで過去と訣別しなければならない。そして、君の新しい論理を、未来の証明としなければならない」
野々宮は、僕の背中を押した。そして、彼の規範を破る、最後の、そして最も非論理的な行動に出た。
彼は、工具箱を取り出し、僕が侵入に使った通用口の電子ロックに、ごくわずかな細工を施した。それは、侵入の痕跡を、完全に消去するための細工だった。
「僕の規範は、一度崩壊した。だが、君の『愛の論理』という新しい規範を、僕が監視者として守る。これが、僕の贖罪だ」
二人は、静かに、図書館の地下室を後にした。
地下室の重い扉を閉じ、悠真は、詩織が残した全ての宝物、そして新しい論理を胸に、外の暗闇へと出た。
夜明け前の空気は冷たかったが、僕の心は、もはや冷たくなかった。
僕の手の中に、猫のピンバッジが握られていた。それは、もう詩織の存在を感知する装置ではない。彼女の愛と告白の証であり、僕の新しい人生の羅針盤だ。
僕は、夜空を見上げた。詩織の姿はどこにもない。だが、僕の心の中には、彼女の**「生きて、笑って、恋をして」**という力強いメッセージが、永遠に響いている。
「さよなら、詩織」
僕は、初めて、心から、彼女の死を受け入れ、そして、別れを告げた。涙は、もう流れていなかった。それは、未来への決意の光に変わっていた。
僕の前に、野々宮会長が、静かに立っていた。
「さあ、佐伯。行くぞ。君の新しい論理を、大学受験という現実の結論で証明するときだ」
僕は、頷いた。
野々宮会長との対決を乗り越え、詩織の愛の論理を自分のものとした佐伯悠真の心は、後悔の闇から解放され、未来への灯火によって満たされていた。
二人の影は、夜明け前の街へと、力強く伸びていった。
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