第15話:L.D.:図書館の最も深い場所
佐伯悠真は、清陵総合病院から市街地へと続く道を、ただひたすらに走っていた。ポケットには、詩織が最後の力で託した錆びついた鍵と、「庭園には水が必要です」と刻まれた金属プレート。そして、存在の光を失い、冷たくなってしまった猫のピンバッジ。
背後には、彼自身の論理の体現である野々宮会長がいる。野々宮は追跡を続けているだろうが、悠真の行動に命令という感情的な要素が加わったことで、その論理的な行動パターンに迷いが生じているはずだ。
詩織の存在は、完全に消えた。僕の脳内には、もう彼女の思考の振動が届かない。ピンバッジも、ただの金属片に戻ってしまった。
僕は、愛する人を二度、失ったのだ。一度は生前、僕の冷酷な言葉で。二度目は今、僕が彼女の最後の願いを達成する前に、時間の壁によって。
「……ゆ……うま……時間……が……ない……」
最後の悲痛なメッセージが、僕の鼓膜に、そして心に、焼き付いている。
(僕):詩織。必ず、君の「L.D.(Lost Document)」を見つけ出す。君が最後に僕に伝えたかった、言葉の全てを。
病院から図書館までは遠い。僕は、全身の疲労と精神的な消耗を感じながらも、その道のりすべてが、僕が詩織に冷たくしていた後悔の道だと感じていた。
深夜を少し過ぎた頃、悠真は、馴染みの市立図書館の裏口に辿り着いた。街灯は消え、図書館は、巨大な情報の墓標のように、暗闇の中に鎮座していた。
僕は、隠しておいた学生証で通用口の電子ロックを解除した。僕の完璧な日常と規範が、音を立てて崩れていく。
図書館で「失われた文書」が保管される場所は、一つしかない。それは、「利用価値なし」と判断された、廃棄予定の資料室だ。
僕は、かつて優等生として足を踏み入れることさえ拒否していた、図書館の地下深くにある、埃とカビの匂いが充満する場所へと向かった。
地下の倉庫は、ひんやりとしていた。廃棄を待つ書籍の山が、天井まで積み上げられている。どれも、利用者から忘れ去られた、「非効率な情報」だ。
僕は、詩織が最後にくれた錆びついた鍵を取り出した。鍵には「L.D.」の文字。
その鍵が示す扉は、廃棄室の奥にある、さらに古い、木製の頑丈な扉だった。扉には、「関係者以外立入禁止:長期未整理資料保管庫」と、薄れた文字で記されている。
僕は、鍵穴に、その鍵を差し込んだ。ギー、という重い金属音と共に、扉はゆっくりと開いた。
その瞬間、僕の鼻腔を突いたのは、単なる埃の匂いではなかった。それは、詩織の使っていた古い香水のような、微かで懐かしい、記憶の匂いだった。
中に入ると、そこはまるで、図書館の胎内だった。廃棄室よりもさらに古く、棚には、戦前から続くような、黄ばんだ資料がぎっしりと詰まっている。そして、その部屋の真ん中に、奇妙な小さな机が置かれていた。
机の上には、一冊の交換日記。
「これだ…」
僕と詩織が、高校一年生の時に始めた、あの交換日記だ。僕が感情的な内容を避けるようになり、詩織が一人で書き続けていた、彼女の魂の目録。
僕は、震える手で日記を開いた。最終ページ。
そこには、詩織の、乱れた、最後の筆跡が残されていた。
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悠真へ。
私は、知っているよ。あなたが私に冷たかったのは、私を嫌いになったからじゃない。私たちが、遠い未来で出会うための、論理的な防御線を張っていたんだよね。
あなたの完璧な計画に、私が『ノイズ』として入り込むことで、将来、あなたが私を失う痛みに耐えられなくなることを、あなたは計算していた。
でも、悠真。愛は、防御線なんかじゃない。愛は、接続詞だよ。
私の『第四の願い』は、ただ一つ。
あなたが、私との愛着という『非効率なデータ』を、あなたの論理の『最終結論』として受け入れること。
この部屋の、私の『宝物』を開けて。それが、私からの「さよなら」。
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詩織は、僕の冷たさの裏に隠された、僕の臆病な愛まで理解していた。彼女は、僕の論理を愛によって完全に解析し、防御線を接続詞へと書き換えたのだ。
日記の隣には、木製の小さなオルゴール箱が置かれていた。
僕が蓋を開けると、あの夜の図書館で響いた、透き通るようなメロディが流れ始めた。
オルゴールの中には、宝石ではなく、古びた紙切れの束が入っていた。
それは、詩織が、僕と共有したかった、愛と後悔の目録だった。
・「3-10-A 閲覧記録」:僕が詩織に冷たくした日に読んだ、僕の論文(自己中心的な論理)。
・「W.F. 石の写真」:僕が彼女の夢を否定した日に撮られた、虹の滝公園の約束の石。
・「M.G. 患者からの手紙」:僕が「無駄」と評した彼女のボランティア活動が、実際に人々に希望を与えていた証拠。
そして、その全ての上に置かれた、もう一枚の栞。
それは、僕が以前見つけた栞と同じデザインだが、裏面には、詩織の最後の、力強いメッセージが書かれていた。
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「悠真。生きて、笑って、恋をして。そして、もう二度と、愛を『ノイズ』だなんて呼ばないで。それが、私への『告白』の代わりだよ」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
僕の目から、溢れる涙が止まらなかった。彼女が、成仏できなかった理由。それは、僕への告白であり、僕に後悔のない未来を託すという、彼女の愛の論理の完遂だった。
僕が泣き崩れるその時、後ろで、静かな足音が止まった。
「佐伯……」
野々宮会長が、ついにこの場所まで追いついたのだ。
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