第2話:拒絶されたピンバッジ

 僕、佐伯悠真の日常は、一夜にして予測不能な変数によって汚染された。


 亡くなったはずの幼馴染、立花詩織の存在を秘密裏に受け入れたあの日から、僕の完璧なスケジュールは、詩織との逢瀬という非論理的なタスクを最優先事項として組み込まなければならなくなった。


(午後7時15分、図書館閉館。7時30分、生徒会業務完了を装い、全職員が退館したことを確認。7時45分、約束の書庫へ移動し、詩織と合流。逢瀬の時間、約2時間。帰宅後、喪失した学習時間120分を補填するために、就寝時間を午前2時に変更。睡眠効率は最大化するが、リスク値は上昇傾向にある。)


 毎朝、スケジュールを更新するたび、僕の脳内で警鐘が鳴り響く。詩織との逢瀬は、受験や未来の計画にとって、最も無駄で、最も効率の悪い行為だ。だが、僕にはそれをやめるという選択肢が存在しなかった。


 それは、詩織が僕の前に現れたときに感じた、あの非論理的な感情から発している。「今度こそ、彼女を失いたくない」。この感情一つが、僕の過去二年間の論理的な防御壁を、いとも簡単に打ち破ってしまった。


 僕の心の中で、論理と感情が激しく対立していた。


 論理は「彼女を成仏させ、日常に戻れ」と叫ぶ。感情は「彼女が消える前に、一秒でも長くこの奇跡を享受しろ」と懇願する。僕は、後者の声に逆らえなかった。それは、僕の心に刻まれた「後悔」の深さを示していた。


 生徒会室で、後輩に「最近、佐伯先輩、夜間の残務が多いですね」と問われたとき、僕は初めて、彼女の存在を隠すために嘘をついた。


「ああ。来年度予算のデータ解析に、想定外のノイズが確認された。その処理に時間を要している」


 僕の口から出た言葉は、常に論理的で正確だったが、その言葉の裏側にある「ノイズ」こそが、詩織という非論理的な奇跡であった。僕は、詩織との逢瀬に、まるで中毒のように期待感を抱きながら、罪悪感と秘密を抱えて、夜の図書館へと向かう。


 午後7時45分。図書館の冷たい空気が、僕の頬を撫でる。非常灯の薄暗い光の中、僕は歴史書の書架と古い文学全集が並ぶ「約束の書庫」へ足を踏み入れた。


「遅いよ、悠真。今日、解析数学の課題、5分遅れてたよ? 効率低下だよ、効率」


 詩織は、古びた大判の文学全集の背に寄りかかりながら、僕を迎え入れた。


「君との逢瀬自体が、僕のスケジュールにとって最大の非効率だ」


 僕は冷徹に言い放ち、書架の影に隠れるように立っている彼女から、わずかに距離を取って、自習用の机に座った。


 詩織は、僕の冷たい言葉を全く気にしない。それが、彼女の生前からの変わらぬ性質だった。


「はいはい、分かってますよ、優等生様。でもさ、この空間、素敵でしょ?誰もいないよ。静かで、時が止まってるみたい」


 彼女は、指先で埃をかぶった本の背をなぞる。その指先が、空気を通過し、本の背に触れることはない。


 僕は、その光景を見るたびに、胸が締め付けられるような痛みを感じた。彼女はそこにいる。話せる。笑い合える。しかし、触れることは、決してできない。


「君は、何をしているんだ」


「え?べつに。…あ、そうだ。悠真、これ見てよ」


 詩織は、歴史書の棚から、無造作に一冊の本を引っ張り出した。それは、中世ヨーロッパの歴史に関する分厚い書籍だった。


「見て、これ。この本、私たちが小学生の時、図書館で見つけて、どっちが先に読むかケンカした本だよ」


 彼女は笑う。僕の脳裏に、当時の光景がフラッシュバックした。


(過去の記憶の呼び出し。これは、僕の感情の防御壁を突破するための、彼女の無意識的な、あるいは意図的な行為か?)


「覚えてない」僕は即座に否定した。


「嘘だ。悠真は、絶対覚えてる。だって、この本の奥付に、悠真が鉛筆で書いた『僕の物』っていう落書きが残ってるんだから」


 彼女は、パラパラとページをめくる。僕は、反射的に視線を逸らした。


 僕が彼女との過去の記憶を避けるのは、そのすべての記憶が、後悔という終点に繋がっていることを知っているからだ。楽しかった記憶ほど、最後の悲劇との落差が激しく、僕を深く傷つける。


 詩織は、僕が思い出を拒否する理由を察しているかのように、すぐに話題を変えた。


「ねえ、悠真は今、何を勉強してるの?」


「都市計画のための、最適化モデルの解析だ。人間行動の非論理的な要素を、どう論理的に組み込むか、その基礎を学んでいる」


「ふーん。非論理的な要素ね」詩織は、いたずらっぽく微笑んだ。


「私の存在も、悠真のモデルにとっては、最大の非論理的な要素でしょ?しかも、消滅の期限付きの」


 僕の喉が詰まる。その通りだ。彼女の存在は、僕の論理にとって許容できないエラーであり、いつ消えるか分からないという期限が、僕の心を最も苛む変数だった。


 しばらくの間、僕は自分の参考書に向き合い、詩織は書架の周りを歩き回ったり、僕の勉強を静かに眺めたりしていた。その時間こそが、僕にとっての**「非効率な贅沢」**であり、唯一、心が静寂を取り戻す瞬間だった。


 僕が、都市開発に関する論文の難しい数式を解き終えたとき、詩織が、突然、僕の耳元に囁いた。声はクリアだが、体温はない。


「ねえ、悠真。私、お願いがあるの」


「なんだ」


「私ね、高校に入ってすぐ、悠真にプレゼントしようと思って買ったものがあるの。それがどこかにあるはずで、それを見つけたいんだ」


 詩織は、僕のノートの上をすり抜けるように、人差し指で、空中に小さな円を描いた。


「……どんなものだ」


「それはね、猫のピンバッジだよ。銀色の、小さな、笑ってる猫のピンバッジ」


 その言葉を聞いた瞬間、僕の体内の血液が一瞬で凍りついたような感覚に襲われた。心臓が、先ほどとは比べ物にならない速さで不規則に暴れ出す。


(猫のピンバッジ…)


 僕の脳内で、二年半前の、あの冷たい冬の日が、鮮明な映像としてフラッシュバックし始めた。それは、僕が詩織の好意を、最も冷酷な言葉で切り捨てた日の象徴だった。僕の「後悔」が生まれた、その原点。


「どうして、そんなものを探す?」


 僕の声は、低く、押し殺したような音になった。


 詩織は、僕の異様な動揺に気づいていないかのように、屈託のない笑顔で言った。


「だって、それが私の大事な手がかりなの。それをちゃんと悠真に渡せて、気持ちを整理できたら、私、次の世界に行ける気がするんだ」


「次の世界」——それは、「成仏」、すなわち詩織の消滅を意味する。


 僕の心は、二つに引き裂かれた。一つは、彼女が成仏できるように手伝わなければならないという「責任感」。もう一つは、あのピンバッジを見つければ、彼女が消えてしまうという恐怖。


 そして何より、僕が最も避けていた過去の失敗と、正面から向き合わなければならないという、耐え難い苦痛。


 僕の眼前で、図書館の静寂は消え、二年半前の冷たい冬の放課後が展開した。


 場所は、校舎裏の、人目のない倉庫の横。詩織は、珍しく緊張した面持ちで、僕を呼び出した。


「悠真、これ…」


 彼女は、少ししわくちゃになったラッピング袋を、僕の前に差し出した。その中には、確かに銀色の、笑っている猫のピンバッジが入っていた。


「高校に入学して、お揃いでつけたいなって思って。お守りにもなるし、一緒に頑張ろうよ」


 彼女の瞳は、期待と、微かな不安で揺れていた。それは、彼女の僕への「好意」の、控えめな、しかし確実な告白だった。


 当時の僕は、まさに優等生の鎧を最も強固にしていた時期だ。生徒会役員としての業務に没頭し、僕の時間を侵害するあらゆる「ノイズ」を排除することに執着していた。


 僕は、そのプレゼントを、手で受け取ることすらしなかった。


「立花。君の行動は、僕の計画にとってノイズだ」


 僕の口から出た言葉は、冷たく、感情が一切込められていなかった。


「……え?」詩織の笑顔が、一瞬で凍り付いた。


「僕は、君との関係を、非論理的な感情の延長線上に置くつもりはない。君が今、僕に差し出している『好意』や『愛着』といった感情的な介入は、僕の受験や、将来の都市計画コンサルタントとしてのキャリアにとって、最大の無駄であり、予測不能なエラー因子となる」


 僕は、彼女の瞳の奥をまっすぐに見つめながら、最も残酷な言葉を続けた。


「君の時間は、もっと有効に使うべきだ。僕の進路に影響を与えようとする行為は、迷惑だ」


 詩織は、差し出したままのピンバッジを、ゆっくりと下げた。彼女の瞳から、光が消えるのが見えた。涙は流さなかったが、その表情は、まるで心臓を抉られたかのような、深い痛みに満ちていた。


「そっか…そうだよね。ごめん、僕の時間、無駄にしたね」


 彼女は、そう言って、ピンバッジを自分の学生カバンにしまい、その場を立ち去った。


 それが、僕が彼女にかけた、生前の最後の、そして最も冷酷な言葉となった。数ヶ月後、彼女は交通事故で亡くなった。


 フラッシュバックから覚めた僕は、図書館の冷たい空気の中で、震えている自分に気づいた。


「猫のピンバッジ…」


 僕は、心の中で呻いた。それは、僕がどれほど愚かで、どれほど残酷だったかを、再認識させるための**「罪の証拠」**だった。それを探し出すことは、僕の心の傷口を自ら広げる行為に等しい。


「悠真?どうしたの?急に顔色が悪くなったよ?」詩織が心配そうに、僕の顔を覗き込む。


「何でもない」僕は即座に否定した。「それを探すことは、論理的ではない。高校の備品ではないし、君の私物を探すのは非効率極まりない」


 詩織は、僕の言葉を優しく遮った。


「いいじゃん、非効率で。あのね、悠真。私はね、悠真が、私とのことで、これ以上後悔してほしくないんだよ」


 彼女の言葉は、まるで僕の心の奥底を覗き込んでいるかのようだった。彼女は、僕がこのピンバッジに抱く感情を、完璧に理解していた。


「私の言葉を聞いて、成仏しなきゃいけないのは分かってる。でも、悠真が、もし私への後悔を乗り越えずに生きていくなら、それは私にとって最も悲しい結末だよ」


 彼女は、僕の固く閉ざされた心を、愛と優しさで解きほぐそうとしていた。


「だからさ、私と一緒に、あのピンバッジ探そう?悠真が笑って、過去の失敗を笑い飛ばせるようになったら、それでいいんだ」


 詩織の無邪気な願いは、僕にとって、拒否できない**「非論理的な命令」**だった。


 僕は、深く息を吸い込み、固く閉ざしていた感情を、わずかに解放した。


「…わかった。生徒会室、教室、そして君のロッカー。順番に探す。ただし、僕の受験計画に影響が出た場合、この捜索は即座に中止する」


 僕の返答は、やはり論理の殻を被っていた。しかし、僕の心の中では、**「愛」という非論理的な感情が、初めて「行動」**という形で、論理を上回り始めていた。


 詩織は、満面の笑顔になった。彼女が、幽霊として僕の目の前で、心から喜んでいる。


「ありがとう、悠真!やっぱり悠真は、最高の幼馴染だよ!」


 その夜、夜の図書館での逢瀬は、二人の間に、後悔のピンバッジを探すという、切ない、そして限りある時間の使命を与えた。僕の人生における「後悔」を「愛」で塗り替える旅は、今、静かに、そして非効率的に始まった。


夜の図書館の時計は、午前0時を回っていた。

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