さよならを言えなかった、夜の図書館 (全23話)

睦月椋

第1話:優等生の完璧な日常と、白い影

 僕、佐伯悠真の日常は、一切の感情ノイズを排除し、完璧な論理と効率によって構築されていた。


 高校三年生。夏休みといえど、僕のスケジュールは秒単位で管理されていた。起床は午前5時45分。30分の瞑想でメンタルをフラットにし、15分の軽いストレッチで肉体的な効率を最大化する。朝食は、計算されたカロリーと栄養素を持つシリアルとプロテイン。そこには、「美味しい」や「気分がいい」といった感情的な評価軸は存在しない。「必要な機能を満たしているか」——それだけが僕の判断基準だった。


 僕の目標は、東大理IIIへの現役合格、そして卒業後は国際的な都市計画コンサルタントとして活躍すること。そのためには、時間、労力、そして精神エネルギーのすべてを、この目標の達成に集中させる必要があった。


 僕にとって、感情は「システムのエラー」だった。特に、「恋愛」や「親しい人間関係」は、予測不能な変数であり、時間とエネルギーを浪費させる最大の非効率性を持つノイズだと定義していた。僕は、過去の経験から、それらのノイズが僕の完璧な世界を崩壊させることを、身をもって知っていたからだ。


 僕が持つ、この極端なまでの完璧主義は、自分を守るための「鎧」だった。


 二年半前、中学三年生の冬に起こした、僕にとっての「最大の失敗」。その「後悔」を二度と味わわないために、僕は自分自身に「感情のシャットアウト」という厳格なルールを課した。この鎧を着ている限り、僕は傷つかないし、誰かを傷つけることもない。


 僕は、学校では生徒会副会長を務めていた。これも、対外的な評価と推薦入試のための「効率的なタスク」の一つに過ぎない。僕の振る舞いは常に冷静沈着、議事録は完璧で、スケジュール管理は誰よりも優れていた。周囲の生徒たちが僕を「クールな優等生」と評するのを知っていたが、彼らの評価は、僕の「防御システムが正常に機能している」ことを示すデータに過ぎなかった。


「佐伯くん、明日の文化祭予算会議の資料、最終チェックお願いします」


 放課後、生徒会室で資料を受け取った後輩の言葉に、僕は一瞬、微かに表情を緩めそうになったが、すぐにそれを打ち消した。


「了解した。午後7時にはメールで送付する。ミス発生確率は0.0001%未満で保証する」


 冷徹に言い放ち、僕は自分の居場所である図書館へと向かった。


 学校の図書館は、僕にとって唯一の聖域だった。


 古びたレンガ造りの建物の二階に位置し、高い天井と、木製の書架が整然と並ぶその空間は、秩序と静寂に満ちていた。本は、十進分類法に基づき、正確無比な位置に並べられている。この空間では、すべてが論理によって支配され、感情的な混乱の入る余地がない。


 午後7時。図書館の閉館ベルが鳴り響き、最後の利用者と司書が退館していく。僕は、生徒会業務という名目のもと、特別な入館パスを使って、そのまま居残る。この「夜の図書館」での一時間が、僕の最も重要な優良時間だった。


 最終下校のアナウンスが終わり、校内の明かりが消えると、図書館全体が冷たい空気に包まれる。僕は、静かに自習スペースの席についた。窓の外は、まだ微かに夕焼けの残る空だが、内側はもう深海のような静寂だ。


 僕は、参考書とノートを広げ、無感情にペンを走らせ始めた。心臓の鼓動は安定し、呼吸は一定のリズムを保っている。僕の思考はクリアで、すべての情報が分類され、効率的に処理されていく。


 完璧だ。この静寂と秩序の中でのみ、僕は真の安心感を得ることができた。


 その時だった。


 僕の完璧な集中が、突如として、「存在しないはずの音」によって破られた。


 音は、書架の奥、美術書のコーナーから聞こえてきた。


 カタン。


 ごく小さな、何かが棚に当たったような、あるいは軽いものが床に落ちたような音。僕は即座にペンを止め、音源に意識を集中させた。


 論理は、この現象を説明できない。僕は慎重に立ち上がり、音のした美術書コーナーへと向かった。


 書架の通路に入ると、背の高い木製の棚が、通路の両側を重々しく覆っている。蛍光灯は消え、非常灯の薄いオレンジ色の光だけが、棚の間に不気味な影を落としていた。


 そして、その通路の突き当り、僕の目の前の棚に、誰かがいた。


 白い夏服のセーラー服。肩まで伸びた黒髪が、ぼんやりとした光の中で揺れている。その女性は、棚に手を伸ばし、何かを探しているように見える。


「…閉館時間ですが」


 僕は、心臓の不規則な鼓動を抑え込み、冷徹な生徒会役員の声で問いかけた。不審者であった場合を想定し、常に冷静な対処を優先する。


 彼女は、僕の声に、まるで待っていたかのようにゆっくりと振り返った。


 その瞬間、僕の脳内で全論理回路がフリーズした。


 そこに立っていたのは、僕がこの世界で最も愛し、そして最も深く後悔している、立花詩織だった。


 詩織は、二年前に交通事故で亡くなった。その葬儀の日から、僕は感情を完全に機能停止させた。彼女の死は、僕の人生の論理的な計算式に、無限大の誤差を生み出した、修復不可能なバグだった。


 しかし、そのバグが、今、僕の目の前で現実の肉体を持って存在している。


「あれ?悠真じゃん。まさか、まだいたんだ」


 彼女は、生きていた頃と全く変わらない、屈託のない、明るい笑顔で言った。その声は、クリアで、現実的で、幽霊の出す音としてはあまりにも**「生々しい」**ものだった。


 僕の体は硬直していた。呼吸が浅い。体内の酸素量が急激に低下し、思考が麻痺している。


「き、みは…詩織、なのか?」


 僕の声は、自分で認識できないほど震えていた。


「えー、誰だと思ったのさ。幽霊に会うのがそんなに珍しい?もっとドラマチックな反応を期待してたんだけどな」


 彼女は、棚から一冊の画集を取り出し、パラパラとめくりながら、まるで今日の献立について話すかのように、軽やかに言った。その手に持っている画集の、ざらついた紙の質感まで、僕の視覚は正確に捉えていた。


「冗談はやめろ。君は、二年前の七月、桜木坂の交差点で…」


「うん、死んだよ。知ってる」彼女はあっさりと言った。「自分で言うのもなんだけど、ちょっと非効率な死に方だったよね。あ、でも、あの交差点の信号の構造は、確かにちょっと設計ミスだと思うよ。悠真が作ったモデルなら、もっと事故発生率が高く出たはずなのにね」


 彼女は、僕の論理的な思考を逆手に取り、僕の現実を揺さぶる。


 僕は理性で自分を制御しようと試みるが、彼女の存在が、僕の持つすべての論理を否定していた。


 僕は、なんとか震える足で一歩、二歩と後ずさりした。しかし、彼女は僕の行動を予期していたかのように、画集を棚に戻し、僕に一歩、二歩と近づいてくる。


 その距離が縮まるたびに、僕の肌を撫でる空気が、異常に冷たいことに気づいた。エアコンは切れている。校内の暖房も停止している。この低温は、彼女の体温がないことを示していた。


「ねえ、悠真。そんなに怖がらないでよ」


 彼女は、口元を緩めた。その笑顔は、僕が最後に見た、僕を心配する、あの日の詩織の笑顔と寸分違わない。


「どうしてここにいるんだ?なぜ、僕の前に現れた?」


「んー、どうしてって言われてもね。たぶん、私が成仏できないからだよ」


 詩織は、僕の目の前で、ひらひらと手を振った。


「私、心残りが一個だけあってさ。どうしても、悠真に伝えられなかった、すっごく大事な言葉があるんだ。それを言わないと、この図書館の書架から、次の世界に移動できないみたい」


 彼女の言葉は、冗談めかしているが、その瞳の奥には、僕の心の奥底に埋まっていた後悔の種を直視させるような、切実な光があった。


「伝えられなかった言葉…」


 僕の心臓が、再び激しく鼓動する。僕の脳は、彼女が伝えたい言葉を即座に予測した。それは、僕が生前、最も無駄で非効率だと決めつけ、冷酷に拒絶した感情、すなわち愛の言葉に違いない。


 彼女の存在は、僕に、「あの日の失敗」を思い出させ、僕の完璧な世界を崩壊させる「トリガー」となっていた。


「そんなもの、聞かなくてもいい。君の存在は、僕の現実の論理から逸脱している。君は、今すぐ消滅するべきだ」


 僕は、自分を守るために、最も冷酷で論理的な言葉を選んだ。彼女の存在を否定することで、僕の日常を取り戻そうとした。


 しかし、詩織は、その僕の冷たい言葉を聞いても、表情を曇らせなかった。ただ、僕の目をまっすぐに見つめ返した。


「悠真は、相変わらずだね。でもね、悠真。私の言葉が消えちゃうと、悠真は一生後悔するよ」


 その言葉は、僕の鎧の最も脆い部分を正確に射抜いた。僕の論理が崩壊しても、僕の心が何よりも恐れているのは、「二度目の後悔」だった。


 僕は、深いため息をつき、手を下ろした。抵抗を、やめた。


「……わかった。君の存在を、誰にも言うな。もし、誰かに知られたら、君はすぐに消滅する。僕の人生のモデルに、これ以上のバグは不要だ」


 僕の決断は、論理的ではなかった。それは、「今度こそ、彼女を失いたくない」という、僕の心に刻まれた唯一の非論理的な感情から発したものだった。僕の理性は、彼女の存在が脅威だと叫んでいる。だが、僕の心は、彼女の目の前で「孤独」を曝け出すことを選んだ。


 詩織は、勝利を確信したように、明るく笑った。


「やった!やっぱり悠真は、私のことを見捨てられないんだ!」


「違う。これは、あくまで事態の収拾だ。君の言葉を聞き終えれば、僕の日常は元に戻る」


 僕は、自分自身に言い聞かせるように、そう言った。


「ねえ、悠真。じゃあさ、私たちの秘密の場所を決めようよ」


 詩織は、無邪気に提案した。


「ここ、約束の書庫がいい」


 彼女が指差したのは、図書館の最も古く、人目につかない、歴史書の書架と、古い文学全集が並ぶエリアだった。埃っぽく、冷たい空気が常に漂っている場所だ。


「ここなら、誰も来ない。最高の隠れ家だもんね。『夜の誰もいない図書館で、幽霊と過ごす』なんて、最高の非効率な贅沢だ!」


 彼女は、生きていた頃と全く変わらない軽やかさで、僕の論理をからかった。そして、僕が「非効率」だと定義したその空間に、彼女の「愛着」という非論理的な価値を注入した。


 僕は、彼女の存在がもたらす予測不能なノイズを、自分の日常に組み込むことを、受け入れてしまった。


(僕は、何を始めているんだ?)


 僕の頭の中は、激しく混乱していた。彼女の存在を受け入れた瞬間、僕の完璧な世界を築いていた壁に、大きな亀裂が入った。その亀裂からは、過去の「後悔」という冷たい風が吹き込み、僕の心を揺さぶり始める。


「伝えられなかった言葉」。その言葉が、僕の「後悔」を「愛」へと変貌させ、僕の人生を救済するのか、それとも、僕を二度目の絶望へと突き落とすのか。


 夜の図書館の時計は、午前0時を指していた。二人の、秘密の、そして残り時間の限られた逢瀬は、始まったばかりだ。僕の完璧な世界は崩壊し、「非論理的な奇跡」が、僕の孤独な日常を侵食し始めた。

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