2-6

 盲点だった。いくら異性と親交を深めていようと、靴下を脱がした経験など朗義にはない。しかも樹が着用しているのはロングスカートだ。抵抗感を抱くのも無理はない。

「えっと」

「あっ、そっか。立ったままじゃできませんよね」

 そういうことではないのだが、女性の靴下を脱がすのが恥ずかしいのですとは言えない。だが冷静になって考えれば、二人は店員と客という立場以外の何でもない。仕事なのだから、余計なことは考えずに手を動かすのも、プロフェッショナルに必要な素養というものだ。

「失礼しますね」

 ソファに座った樹の前に跪き、まず右足のローファーに手を伸ばした。指先が崩れているからか一センチほどの隙間があり、脱がすというよりかは外すという表現が正しいのかもしれない。それからスカートの裾を少しだけ持ち上げ、傷ひとつない足首に手を伸ばし、靴下に指をかけて下ろす。指に滑る肌は、サテン生地と比べるに難くない。偶然にも昨晩、爪を切っておいてよかったと朗義は思った。

「なんだか、すみません。城戸さんが召使いみたいになっちゃいました」

「……ふふ、そうですね」

 こうしていると、等身大のキャストドールを相手に仕上げ作業をしているようで、何だか可笑しくなってしまう。

「あっ、やっと笑いましたね。城戸さん」

「え?」

「笑ったところ、お店に来てから初めて見ました」

 新規の客相手にヘラヘラしていたら職人として信用などされない気もするが、確かに今日はあまり笑っていない。急に舞い込んだ依頼と辰良の訪問で、そんな余裕もなかったのかもしれない。

 いつだったか、製作をにやけながら進める姿を辰良に見られて『気持ちの悪い奴だな』と言われたことを朗義は思い出した。ショックでしばらくは真顔を心がけていたのだが、その後作業中に辰良がにやけていたのを見て、どうでもよくなったのは一つの思い出である。

 しかし、傍から見て女性の靴下を脱がしながら笑っているのはまずいなあ、などとも思う。

「安心しました。私のせいで憂鬱にさせてしまったかなって思っていたので」

「そんなことないですよ。最初は驚きましたけど、依頼を受けたからには全うします」

 そう言って、靴下を最後まで脱がした。想像した通り、指は生えていた痕跡を少しだけ残して全て崩れ落ちていた。靴下の中に、小さな破片が散らかっている。

 朗義は一度立ち上がり、棚にしまっていた除菌シートを取り出した。

「ああ。ノンアルコールのシートですので、ご安心を」

 メジャーのテープと足裏を軽く拭いて、足首を持ち上げる。

 足長そくちょう足幅そくふく、足囲──一箇所ずつ、丁寧に測る。指の根本にメジャーを通し、

 手の採寸に比べて、足の採寸はすんなりと終わった。樹の手に感じていた、ある種官能的な感情も希薄になり、何も考えることはなくなった。

「採寸終わりです」

 メジャーをエプロンにしまいながら、樹に声をかける。

 しかし、返事がない。「楔野さん?」

「わっ。な、何でしょうかっ」

 朗義が目線を上げると、驚いて両手で顔を覆う樹の姿があった。隠しきれていない頬と耳には朱が差している。明らかに赤面していた。

「……その、慣れていなくって……」

 人と手を繋ぐことはあれ、足を触らせるという機会はそうそうない。朗義はあまり意識していなかったが、採寸であったとしても男性が女性の足に触れるというのは、過剰なスキンシップを想像させたのかもしれない。

「こちらこそ、すみません。無遠慮でした」

「いえ……」

 互いに視線を逸らして、二人は押し黙る。沈黙だけがある空間で、何秒が経ったのだろう。重苦しい空気に耐えかねて、樹がソファから飛び上がるように起立した。

「あのっ」

「はいっ」声が裏返る。

「そういえば、定休日でしたよね。ええと、長くお邪魔しちゃ悪いので、失礼しますっ」

 素早くローファーに足を通して朗義の横を通り過ぎたかと思うと、次の瞬間にはがちゃんと音を鳴らし、応接間のドアノブに手をかけていた。

「あの、あのっ。何かあったら電話してくださいっ」

「楔野さんっ」

 樹はその勢いのままドアを威勢よく開け、走って店を出てしまった。慌ただしい足音は、ローファーの踵が浮いてパカパカと鳴っていた。

「手袋と、靴下」

 忘れてますよ、と。その声は届くあてもなくさまよった。

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