第3話
僕には可愛い彼女がいるけれど、普通に他の人との交流もある。
その子と初めて会ったのは、一週間くらい前のことだ。
夕方、小雨どころか本降りの雨の中、コンビニの前で。
ビニール傘の列から少し離れたところ、人影がしゃがみ込んでいた。
ピンク色のカーディガンが、雨を吸ってぐっしょりしている。
「大丈夫?」
思わず声をかけると、彼女はびくっと肩を揺らして、うつむいたまま顔だけこっちを向いた。
前髪がまとわりついた白い頬。アイラインが少し滲んで、涙みたいに見える。手元には破れたビニール傘と、コンビニの袋。中身のおにぎりがアスファルトに転がっていた。
「あ、ごめん。驚かせちゃった?」
「……ごめんなさい」
「え?」
「ごめんなさい、邪魔で。すぐどきますから」
彼女はそう言って、濡れたおにぎりを抱きかかえるみたいに拾い集めた。
なんだか、それがやけに痛々しく見えた。
「いや、邪魔とかじゃなくて。ほら、タオル。顔、拭いたほうがいいよ」
いつもカバンに入れてるやつを差し出す。
彼女の指先が、おそるおそるタオルの端をつまんだ。
「……汚しちゃう」
「どうせ洗うし。っていうか、もう結構濡れてるからあげるよ」
彼女は小さく笑った。笑った、ように見えた。
「やさしいね。……成瀬くん?」
「え、なんで僕のこと知ってるの?」
「同じ学年だよ。二年C組の、高槻沙耶。……覚えてないよね。いいの。私、透明だから」
「透明ってことはないでしょ。高槻さん可愛いのに」
言い返したら、彼女は一瞬だけ、ほんとに驚いたみたいな顔をした。
それが、高槻沙耶さんとの最初の会話だった。
そのとき僕は、自分がビニール傘を一本、彼女に渡して帰ったことしか気にしてなかった。
雨の日に一人で濡れているのは、風邪を引きそうで見ていられなかったから。
それだけのはずだった。
♢
数日後、放課後の校門を出ると、空はどんよりしたまま、細かい雨を降らせ始めていた。
「わ、降ってきちゃったね」
「はいっ。悠真くん、傘、入ってください」
白いカーディガンが、今日も僕の隣にある。
凛の傘は、二人用みたいに大きくて、持ち手のところに小さなハートのチャームが揺れている。
ペアリングが、指先でくすぐったく振動した。
『心拍:少し上昇/天気:雨/状態:良好』
「ふふ、ドキドキしてますね?」
「そりゃ、彼女と相合い傘してたら、誰でもドキドキするでしょ」
「キュン……記録に残しておきます」
凛はスマホを取り出して、ぱしゃっと何かを撮る。
僕と、雨と、リングのインジケーター。
校門から少し離れたところに、横断歩道に続く小さな三角地帯がある。
そのガードレールの影に、誰かが立っていた。
黒いマスク。パーカーのフード。でも、中から覗くのは、見覚えのあるピンク色のカーディガン。
「あれ、高槻さん?」
思わず立ち止まる。彼女は、傘をさしていなかった。
肩まで伸びた髪が、雨でぺたんと頬に張りついている。
手には、あの日と同じコンビニ袋。
「沙耶ちゃん?」
凛が、僕の隣で小さく首を傾げる。名前を知っているあたり、知り合いなのかな?
高槻沙耶さんは、僕たちを見て、ほんの一秒だけ、目を見開いた。
次の瞬間には、唇だけが笑っていた。
「成瀬くんだ。……やっぱり優しいね」
「え?」
「雨、降ってきたのに、女の子をちゃんと傘に入れてあげてるなんて。……さすが、だね」
声は静かなのに、どこか震えていた。寒さのせいか、別の何かのせいか。
「沙耶ちゃん? 濡れちゃうから、ほら、入る?」
凛が、自分の傘を少し傾ける。
でも沙耶は、一歩だけ後ろに下がった。
「いいの。……私は、こういうの慣れてるから」
「慣れてるって、風邪引いたら大変だよ」
「風邪引いても、誰も困らないよ?」
あっさりと言うその口調は本当にそう思っているのが感じられる。
「家族の人だって心配するよ」
「……成瀬くんは?」
凛の問いかけではなく、沙耶さんの目が、まっすぐに僕を射抜く。
「成瀬くんは、心配してくれる?」
「それは、もちろん」
「……そっか」
ふっと、彼女の表情から色が消えた。それから、じわじわと、別の色が塗られていく。黒と、赤。
「ねぇ、成瀬くん。この前さ、雨のとき、助けてくれたよね」
「うん。たまたま通りかかって」
「たまたまって言葉、好き。私に起きるいいことって、いつもたまたまだから、そのくせ悪いことだけ、ちゃんと必然なんだよね。……生まれた家とか、親とか、クラスの席とか」
凛が、僕の袖をそっとつまんだ。気づけば、彼女のリングのインジケーターがじわり、と光を増している。
「沙耶ちゃん」
「うん?」
「ねぇ、その話を悠真くんにどうしてするの?」
「……やだ」
即答だった。
沙耶さんはすっと僕に近づいて、僕と凛の間に、体を滑り込ませる。
傘からはみ出した肩に、雨粒が当たって弾ける。
「成瀬くん、優しかった。タオル貸してくれたし、傘くれたし、名前、呼んでくれた」
「それは、普通のことで」
「普通じゃないよ」
喉の奥から、押し殺したみたいな笑いが漏れた。
「だって、みんな、私のこと見てないもん。あの子、またって目だけ向けて、名前なんか呼ばない。成瀬くんは呼んでくれたから……特別だよ」
リングが、ぴ、と震えた。
『心拍:上昇/状況:軽いストレス』
凛の指が、少し強く僕の袖を握る。
「ねぇ、成瀬くん。私、がんばるから」
「がんばる?」
「ちゃんと生きる。ちゃんと学校行く。ちゃんとご飯食べる。ちゃんと寝る。その代わり、特別のままでいて?」
彼女の瞳は、雨粒なのか涙なのか、わからない光で潤んでいた。
凛に近い可愛さを持っていると思う。
それはたぶん、本心だ。
びしょ濡れで必死に笑おうとしてる姿は、胸が締めつけられる。
「沙耶さん」
僕は、できるだけ優しく声をかけた。
「僕、そういうことしてもらえるのは嬉しいけど……僕の彼女は凛だからさ」
沙耶の肩が、びくり、と揺れた。
「凛の前で、他の女の子を特別扱いしちゃったら、凛が悲しむでしょ?」
「……」
「沙耶さんがちゃんと生きるのは、沙耶さん自身のためであってほしい。僕がいなくてもちゃんと幸せでいられるように、っていうのも、勝手だけど、願ってるから」
自分で言っておいて、ちょっと気恥ずかしい。でも、誰かひとりに全部の幸せを預けるのって、きっとすごく苦しい。
凛にも、沙耶さんにも、そうなってほしくない。
「だから、僕のことを好きになってくれるのは嬉しいけど、それだけになっちゃうのは、ダメ、かな」
「……やさしいね」
沙耶さんはうつむいて、唇を噛んだ。しばらく、雨と車の音だけが聞こえる。
「ごめんね。なんか、説教っぽくなっちゃった」
「ううん」
彼女は顔を上げた。さっきまでと違う笑顔。何かが、すっと奥に引っ込んで、代わりに透明な幕がかかったみたいな。
「ありがと。よく、わかった」
「わかってくれた?」
「うん。凛さんだっけ?」
沙耶さんは、くるりと凛に向き直る。
「彼女、って」
「はい。白崎凛です。悠真くんの、彼女です」
凛の笑顔もまた、完璧だった。
「成瀬くんは優しいから、勘違いしちゃう人も出てくると思うんです。だから、沙耶ちゃんが理解してくれたのは、私も嬉しいです」
「そっか。よかった」
僕がそう言うと、二人とも同時に「はい」と返事した。
息が合ってるな、と妙なところで感心する。
「それじゃ、僕たちそろそろ行くね。沙耶さんも、ちゃんと帰りなよ?」
「うん。またね」
またね、という言葉に、少しだけひっかかりを覚えた。
でもすぐに流してしまった。だって、同学年だしね。
廊下ですれ違ったら、また挨拶くらいはするだろうし。
そう思って、僕は二人に軽く手を振り、凛と一緒に歩き出した。
背中に、視線が刺さる。
ペアリングが、ふたたび震えた。
『心拍:安定/位置:白崎凛・隣』
「ふふっ、悠真くん、さっきの言葉、録音しておきました」
「え、どこから?」
「僕の彼女は凛だから、からです。とっても貴重な資料です」
「資料って言い方やめない?」
「なら、教科書に格上げしてもいいですよ?」
「もっとやめて」
そんな話をしながら、僕たちは角を曲がった。
雨音にかき消された。
それで終わったと僕は思った。
♢
《side三人称》
「ねぇ、沙耶ちゃん」
成瀬悠真の背中が見えなくなった歩道で、凛はくるりと振り返った。白いカーディガンの裾から、薄いワンピースのレースが覗く。
沙耶は、まだガードレールのそばに立っていた。
雨で濡れて、マスカラが少しだけ黒く頬についている。
「理解してくれて、ありがとうございました」
「うん。理解したよ」
沙耶は、マスクの内側で小さく笑った。
「成瀬くんを奪えばいいんだよね?」
凛の笑顔が、一瞬だけ止まる。
「……?」
「だってさ。僕の彼女は凛だからって、言ってたよね。だったら、彼女じゃなくなれば、いいんだよね?」
瞳の奥に、ぎらり、と何かが灯る。
「ちょっと待てばいい。信頼って、壊すの簡単だもん。ねぇ、白崎さん。あなただって知ってるでしょ? 人間関係って、いつも崩れる前提でできてる」
凛は、ゆっくりと瞬きをした。
「……雨、冷たくないですか?」
「平気。冷たいの、好きだから」
「そうですか。それは良かったです」
凛は傘を閉じた。ふたりの上に、わざと雨を降らせるように。
「沙耶ちゃん。ひとつ、訂正してもいいですか?」
「なに?」
「人間関係は、崩れる前提ではできていません。少なくとも、私はそう信じていません」
凛の瞳が、雨粒を映して煌めく。
「ただ、崩れたときに、誰のせいにするかでだいたいの人が壊れます」
「……」
「たとえば、全部自分のせいにしてしまう人。沙耶ちゃんみたいに」
沙耶の肩が、ぴくりと震えた。
「全部自分のせいにして、傷つけて、壊して、それでもまだ足りないから、誰かの大事なものまで壊したくなる」
「優等生だね、白崎さん」
沙耶はくすりと笑う。
「教科書の答え、全部知ってる顔してる。そういう子が、一番嫌い」
「私もです。私から悠真くんを奪おうとするなら、一番嫌いです」
凛は即答した。
「私も、全部わかってる風にしゃべる人が一番嫌いです。だから、悠真くんの前では、できるだけそうしないように気をつけてます」
「でも今、やってるよね」
「はい。今は、沙耶ちゃんの前なので」
雨音が、ふたりの間に線を引くように降り注ぐ。
「警告しておきますね」
凛は一歩、近づいた。距離を詰めても、決して触れないぎりぎりのライン。
「悠真くんとの関係を壊れる前提の中に入れようとしたら、私は、沙耶ちゃんを壊したくなります」
「ふふ、そんなことできるのかな? こわっ! 悠真くんに相応しくないね」
沙耶は楽しそうに笑った。
「ねぇ、白崎さん。自分がどんくらい怖いこと言ってるか、自覚ある?」
「もちろんです。録音しておきましたから」
凛はスマホを掲げる。画面には、さっきからの会話の波形がずらりと並んでいた。
「証拠は大事です。もし沙耶ちゃんが、悠真くんとの関係に何かしようとしたら、ちゃんと示さないといけませんから」
「ねぇ、それさ」
沙耶の笑顔から、ゆっくりと色が抜けていく。
「どっちもおかしいって、考えは、ないんだ?」
「ありません。世界はいつも、私たちと私たち以外で分かれていますから」
沙耶は、ほんの一瞬だけ、何かを見つけたような顔をした。
「……いいね」
囁き声は、雨に溶けそうなくらい小さかった。
「やっぱり、成瀬くん、いい人選んだね。白崎さんと私は似た者同士だ。あなたがいなければ私は幸せになれそう」
「光栄です」
「じゃあさ」
沙耶は、濡れた前髪をかき上げながら言った。
「ゲームしよ?」
「ゲーム?」
「どっちが先に壊れるか。どっちが先に、成瀬くんの世界から弾き出されるか」
凛は、ほんの少し考えるように首を傾げて、微笑んだ。
「お断りします」
「え?」
「ゲームは、攻略条件が明示されているものしか受け付けていませんので」
その言葉に、沙耶は目を細めた。
「そっか。じゃあルール、作らなきゃね」
雨は、まだやまない。
校門から少し離れたその三角地帯で、ふたりのヤンデレが、静かに笑い合っていたことを。
一人は地上最強のヤンデレ。もう一人は地雷系ヤンデレ。
その日、成瀬悠真は、何も知らない。
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