第8話

 多少の問題はあったものの、俺は基本的に平穏な毎日を過ごしていた。

 そんな或る日、大型の台風が大神集落を直撃した。

「マスター、最新の進路予想では、台風は夜半過ぎに大神集落に最接近する可能性が高いです」

「うん。早めに戸締りしてやり過ごすしかないな。母屋の屋根が雨漏りしなければ良いんだが」

 温暖化の影響で、秋になっても日本近海の海水温度が下がらず、猛烈な勢力を維持したままの台風が日本本土に上陸するケースが常態化していた。

 少なくとも、10年前に徹底的な温暖化対策に舵を切っておくべきだったのに、、、


 世界規模で異常気象による災害が多発しており、各国は漸く温暖化対策に真剣に取り組む姿勢を見せ始めていたが、研究者たちの間では、既に温暖化対策が手遅れの状態であると考えられていた。

 現実問題として、この期におよんでも各国の協調体制は十分と言い難い。

 この先、事態が悪化していくのを無視し、手をこまねいて、いずれ来るであろう神の審判を待つしかないのだろうか?

 俺も含めて、人間とは見たくないものは見えない生き物だと改めて思う。

 横殴りの猛烈な雨が電動シャッターに叩きつける音を聞きながら、俺は明るくない未来に想いを馳せるばかりだった。


 翌朝は、台風一過の晴天となり、朝からぐんぐん気温が上がっていた。

 見たところ、母屋の屋根瓦が吹き飛ばされている様子は無い。

 固く閉じていた雨戸をあけて、室内から屋根裏を見てみるが、雨漏りしているような箇所も無いようだ。

 住居を取り囲む木々が防風林の役割を果たしてくれたのだろう。

 段々畑の横にある小川は轟々と水音を立てて流れていた。


「祠の様子も見に行ってみるか」

 祠の側を流れる小川は簡易水道の水源にもなっているのだ。

 定期的に溜まった落ち葉や土砂を取り除いてやらなければ水源として使えなくなる。

 ぬかるんだ急な坂道を登って祠まで行ってみたが、見たところ祠には異常が無いようだ。

 簡易水道の取水口には流れてきた落ち葉が溜まっており、俺は手作業で泥と落ち葉を取り除いた。

 沈殿槽の蓋が風で飛ばされていたので直しておく。


「マスター、洞窟の柵が開いています」

 リリウムの言葉通り、洞窟の入り口に設置されていた鉄柵が開いている。

 鉄柵を施錠していた鎖が錆びて、昨夜の強風で切れ落ちたようだ。

 洞窟内に野生動物が住み着いてはやっかいなので、鎖を買ってきて入り口を閉鎖しなおさなければならない。

 この辺りには、少数ながらツキノワグマも生息しているのだ。

 とりあえず、台風の被害はそれくらいだった。


 ひと安心して、登って来た坂道を降りかけると、畑の側に白いものが蹲っているのが見えた。

 坂道を登っている時には、伸びた草に隠れて見えなかったのだ。

「大変だ!」

 俺は飛ぶように坂道を駆け下りた。

 その白く蹲っているものは、ワンピースを着た少女だった。


「しっかりしろ! 電気柵に触ってしまったのか?」

 5、6歳くらいのワンピースを着た少女を揺さぶってみるが、ピクリとも動かない。 

 最悪の状況が頭を掠める。

 少女を抱き上げてみると、うっすらと目を開いた。

 大丈夫だ。生きている!

「大丈夫か? どうしてこんな所に居る? お父さんやお母さんは? 電気柵を触ってしまったのか?」

「マスター、落ち着いて下さい」

 リリウムに宥められて、俺は我に返った。


 ワンピースは雨でぐっしょりと濡れており、少女は低体温症の症状を示していた。

 すぐにでも病院に運ばないと手遅れになる。

「直ぐに病院にいこう。君の名前は言えるか?」

「、、、ミュウ」

「ミュウちゃんか。すぐに暖めてやる。もう少し頑張れ!」

 俺はそう言いながら少女を抱きかかえ上げる。

 その時、その少女はカプリと俺の首筋に嚙みついた。

 次の瞬間、俺の身体から何かが抜け落ちるような感じがして、そのまま意識を失った。


「シンジ、ようやく気がついたか」

 見知らぬ女性が俺の顔を覗き込んでいた。

 鉛を飲んだように身体が重く、喉がからからに乾いて声が出ない。

 どうやら、俺は見慣れた離れのベットで寝ているようだ。

 痛みを堪えながら掠れた声を絞り出す。


「君は誰だ? ワンピースを着ていた少女、ミュウちゃんは無事なのか?」

わらわがミュウじゃ。身体が成長したのでワンピースが着られなくなった。そなたの服を借りておるぞ」

 その女性の視線を追うと、あの少女が着ていた白いワンピースがハンガーに吊るされていた。

 女性は、確かに俺のワイシャツとジーンズを着ていた。

「そなたは3日間も気を失っていたのじゃ。腹が減っているであろう。何かつくってやろう」

 女性はそう言ってダイニングキッチンに向かった。

 訳が分からない、、、


 俺は枕もとのスマートグラスを掛けるとリリウムを呼んだ。

「リリ、居るか?」

「はい。マスター」

「一体何がどうなっているんだ? あの女性は誰だ? ワンピースの少女は無事なのか?」

「マスター、信じがたい話だとは思いますが、あの女性がワンピースの少女、ミュウさんで間違いありません。マスターが気を失った直後から、ミュウさんの身体が急激な成長を始め、気を失っているマスターを背負って離れまで運んでくれたのです。私の記憶映像を見て頂いた方が分かりやすいと思います」


 リリウムがそう言うと、スマートグラスに、俺が気を失って以降のリリウムの記憶映像が再生された。

 早回しの映像だが、倒れた俺の側に座っていた少女の身体が膨張しはじめ、小さくなったワンピースを脱ぎ捨てると、その身体は更に成熟した女性へと成長していった。

 それから、全裸の女性が俺を背負って離れに運び込んだのだ。

「、、、」


 リリウムの記憶映像は、確かにリリウムが証言した通りの内容だった。

 しかし、AIのリリウムならば、この程度のフェイク映像を捏造するくらいのことは可能だ。

 ではなぜ? リリウムはこのような映像をでっち上げたのか?

 リリウムは俺に対して嘘をつかないし、嘘をつけないようにプログラムされている筈だった。

「マスター、これが信じがたいことは分かります。リリも自身の論理回路の診断を30回以上やっていますが、異常は見つかっていません。この映像はスマートグラスに映った真実であることは間違いないのです」

「、、、」


「この3日間、リリはミュウさんとの対話を続けて来ましたが、驚いたことにミュウさんはマスターの記憶情報をすべてご存じでした。考え得る推論としては、ミュウさんはマスターの記憶を吸収して急激な身体的成長を起こしたのではないかと思います。情報を糧として成長するという面ではミュウさんとリリとは同類であると考えられますが、違いがあるとすると、ミュウさんはその情報を物質化出来ると言うことではないかと考えます。この推論が、現在のところ最も矛盾の無い推論になります」

「、、、そんなこと、信じられる訳がないだろ、、、」

 リリウムは完全におかしくなってしまっている。

 開発の過程で、どこかに重大な齟齬があったのだろうか?

 いや、それとも、俺の頭がおかしくなってしまったのか?

 しかし、ミュウと名乗る女性は確かに実在している。

 一体、彼女は何者なのか?


「シンジ、おかゆを作ってきてやったぞ。身体が弱っている時はこれが良いのであろう?」

「、、、」

「どうした? 遠慮せず食べるが良い。『眷属』の世話をするのもわらわの務めじゃ。どうしたのじゃ? そんなにじっと見つめて。見惚れてしまっておるのか? そなたの記憶通りに好みのタイプの女性に成長したじゃろ? そんなにじっと見つめられたら、さすがにちょっと恥ずかしいではないか、、、」

 この異常な状況のせいか? 空腹のせいか? 俺はくらくらと眩暈を起こした。

 出来るならば、この悪夢から早く醒めて欲しいと願っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る