【議論開始】[恋って何?]
「ねえ、その化学反応?の考え方って“恋にどう感動するか”の話でしょ。
“恋とは何か”を説明してるわけじゃないと思う」
リチの声は穏やかだった。でも、その言葉の一つひとつがカサネの理屈を切り裂くように鋭い。
「……違います。」
カサネは一拍置いて、低く言った。
「この世に、説明できない現象なんて存在しないと思います。
それを“神秘”とか“奇跡”とか呼ぶのは、ただの思考放棄です。」
空気がピンと張り詰める。
窓の外の春風の音さえ、遠くに聞こえた。
「思考放棄、ね」
リチが小さく笑う。
「でもさ、考えたからって全部が説明できるわけじゃないでしょ?
誰かを好きになる瞬間を“化学反応”で片づけるのって、ちょっと味気なくない?」
「味気ないかどうかは問題じゃないでしょう。」
カサネの声が少し強くなる。
「現象を“正しく理解する”ことこそ、人間の理性です。
恋なんて、ホルモンと記憶の反応でしかない。神秘性も味気も知ったことではないです。」
「でも、その“反応”に泣いたり笑ったりしてるのが人間じゃないの?」
「感情は錯覚であり、条件が揃えば誰にでも起こる」
「それを“誰にでも起こる”って言い切れるのが錯覚なんだよ」
声が重なる。
トコ先輩が少しペンを止め、ナツメが湯呑を口に運ぶ手を止めた。
シオリ部長だけが、面白そうに顎を乗せて笑っている。
「ねえ、カサネくん」
リチが一歩、身を乗り出す。
「たとえば誰かを見て、心臓が勝手に早くなる瞬間――それも説明できるの?」
「できるでしょう。脳が“その人を安全かつ魅力的な対象”と判断した結果です。」
「じゃあ、“なぜその人だけ”なの?」
「……条件が揃ったからでしょうか、」
「条件、ね」
「ずいぶん切り捨てるんだね」
「切り捨てているわけではありません。事実を述べただけです」
「でもさ――錯覚って、そんなに悪いもの?」
リチは頬杖をつきながら、机の上に広がる光を指でなぞった。
「たとえば、“桜が綺麗”って思うとき。
その“綺麗”って感情も、同じく脳の反応でしかないよね。
でも、それを『錯覚だから意味がない』って言い切れる?」
カサネは一瞬だけ黙った。
「……意味があるかどうかは、個人の主観でしょう。少なくとも、“なぜそう思うか”が説明できなければ、それは感情に支配されているだけです」
「でも、説明できないのに“そう思ってしまう”ことこそ、人間の面白さじゃない?」
リチの声は穏やかだが、芯があった。
「私はね、説明できないものが好きなんだ。
だって、それって“未知”だから。
私たちがまだ届かない、理屈の外側にあるものだから。
――恋も、その一つかもしれない」
カサネはリチの目を見た。
まっすぐで、でもどこか不安定な光。
彼女は論理を愛しているのに、論理の外を夢見ている。
「……では質問です、花空さん」
「なに?」
「あなたが言う“理屈の外側”は、存在する証拠があるんですか?」
「証拠なんて、まだないよ」
リチは笑った。
「でも、“証拠がない”ってだけで、存在しないって言える?」
「それはもう悪魔の証明ですね。議論に値しない結末になるので別の方向性で考えて……」
「でも!あったほうが面白いよね!」
部室が静まり返った。
カサネは口を開きかけて、やめた。
どんな反論も、いまの一言の“熱”に勝てる気がしなかった。
理知的でも何でもないただの感情論。
さっきまで建設的な議論ができていたのに急に子供っぽい、理屈が通らない考え方。
それでもその言葉に心を惹かれそうになっていたのはなぜだろうか。
ナツメ副部長が小さく呟いた。
「――いいですね。その対立。論理と憧憬。まるで永遠に交わらない直線のよう」
成海トコは静かにノートを閉じ、シオリは満足げに笑った。
「面白いな! なあ、二人とも、ロジカル部に入らないか?」
カサネとリチは、同時に顔を見合わせた。
その瞬間、どちらの心にも同じ疑問が浮かんでいた。
――この議論を、もっと続けたい。
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