第2話 焦げた記憶

 翌日、亮介はまた《ローズティアラ》の跡地に立っていた。

 雨は止み、灰色の空の隙間から薄日が差している。

 焦げた壁の向こう、まだ煙の匂いが残る。

 焼け落ちた空間を前にしても、どうしても信じられなかった。

 あの中で美月が——あの笑顔のまま、消えてしまったなんて。


 彼は瓦礫の隙間にしゃがみ込み、慎重に何かを探した。

 焦げたメニュー表、溶けたスプーン、割れたティーカップ。

 それぞれに、記憶がこびりついている。


 ——「お砂糖、ひとつでいいですか?」

 ——「ご主人様は、甘いの好きですよね」


 耳の奥に、美月の声が蘇る。

 瞬間、喉が焼けるように熱くなり、胸の奥に重たい何かが沈んだ。


 出火元から離れた所に、古いポスターが一枚だけ残っていた。

 雨に濡れ、端が破れかけている。

 それは《ローズティアラ・感謝祭》の告知だった。

 笑顔の美月が、中央でマイクを持って写っている。


「……これ、二ヶ月前だ」


 亮介はその日をはっきり覚えていた。

 イベントの日、美月は体調が悪そうだった。

「ちょっと熱があるんです」と笑っていたが、無理をしてステージに立った。

 その夜、彼女は何度も咳をしていた。

 ——そのとき、何か言いかけていた気がする。

「亮介さん、もし……」

 その続きを、彼は聞けなかった。


 焦げたポスターを見つめるうち、視界がぼやけていく。

 気づけば、街の音が消えていた。

 代わりに、かすかなメイド服の擦れる音と、カップを置く音が響く。


「いらっしゃいませ、《ローズティアラ》へようこそ」


 反射的に顔を上げた。

 そこには、燃え落ちたはずの店があった。

 まるで時間が巻き戻ったかのように、カウンターもテーブルも元通り。

 制服姿のメイドたちが笑顔で客を迎えている。


 ——幻覚だ。

 頭ではわかっている。

 けれど、体が動かない。


「亮介さん、こっちです」


 美月が、カウンターの向こうで手を振っていた。

 白いカチューシャ、柔らかい黒髪。

 光の中で微笑むその姿は、確かに彼女だった。


 亮介は思わず駆け出す。

 だが、足を踏み出した瞬間——視界が歪み、炎が弾けた。


 ごう、と音がして、周囲が赤く染まる。

 次の瞬間、店はまた焼け跡に戻っていた。

 彼は息を荒げながら立ち尽くした。

 幻だった。

 だが、あの笑顔の温もりは、まだ頬に残っている。


「……俺、壊れてきてるのか……?」


 自分の声が、ひどく遠く聞こえた。

 手のひらを見ると、灰が付着している。

 夢か、現実か。

 区別がつかなくなっていく。


 その夜、帰宅した亮介は眠れなかった。

 机の上には、昨日拾ったリボンとネームプレート。

 蛍光灯の光がリボンの焦げを鈍く照らす。

 風もないのに、ふわりと揺れたように見えた。


「……美月?」


 返事はない。

 しかし、リボンの焦げた端が、わずかに震えていた。


 不意に、スマートフォンが鳴った。

 画面には“非通知”。

 恐る恐る通話ボタンを押す。


「……亮介さん」


 その声を聞いた瞬間、全身の血が逆流した。

 間違いようがない。

 ——美月の声だった。


「み、美月? どこにいるんだ、どうやって——」


『……覚えて、いますか。あの約束』


 声は小さく、掠れていた。

 電波が悪いのか、ところどころノイズが混じる。

 約束? なんのことだ?

 亮介は必死に思い出そうとする。

 だが、記憶の中に靄がかかっている。


「……どんな約束だ?」


 その問いに、少しの沈黙が続いた。

 やがて、美月の声が低く囁いた。


『——次の雨の日に、また会いましょう』


 通話が切れた。

 スマートフォンの画面には通話履歴も残っていない。

 ただ、心臓の鼓動だけが異様に速く響いている。


 窓の外では、また雨が降り出していた。

 屋根を叩く音が、遠くの拍手のように続く。

 亮介は、震える手でリボンを握りしめた。

 "次の雨の日"

 それは、まるで彼女がまだこの世界のどこかにいるような言葉だった。


 彼は窓を見つめた。

 雨の向こうに、誰かの影が立っている気がした。

 街灯の明かりに照らされたその輪郭は、白い服を着ていた。


「……美月?」


 声を出した瞬間、影は静かに消えた。

 雨音だけが残る。


 彼は、胸の奥に渦巻く感情を抑えきれずに呟いた。


「次の雨の日……必ず、会いに行く」


 その声に応えるように、遠くで雷が鳴った。

 焦げた記憶が、再び疼き始めていた。


 ——彼の中で、何かが確かに目を覚まそうとしていた。

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