雨に沈むローズティアラ
もちうさ
第1話 消えた笑顔
雨は、まだ降り続いていた。
焼け跡の残るビルの前で、神谷亮介(かみや りょうすけ)は傘もささずに立ち尽くしていた。
《ローズティアラ》。秋葉の片隅にあった、彼の心の拠り所。
その看板は黒く焦げ、文字の輪郭すら判別できない。
焦げた鉄骨から、まだ微かに煤の匂いが漂っていた。
焼け落ちたガラスの破片が、雨のしずくを受けて鈍く光る。
彼はその光景を見つめながら、ぼんやりと呟いた。
「……うそだろ、美月(みづき)……」
黒髪に白いエプロン、少し不器用だけど、笑うと世界が明るくなるような彼女。
いつも注文を取るたびに小首を傾げて、「亮介さん、今日も来てくれたんですね」と微笑んでいた。
あの声も、あの笑顔も、もう二度と聞けない。
火災は三日前の夜だった。
ニュースでは「電気系統のショートによる事故」と報じられた。
死者一名、行方不明者なし。
死者の名は——美月。
信じられなかった。
火災の夜、亮介はたまたま家にいた。
だが、あの日の夢の中で、なぜか彼は店の中にいた気がする。
焼けるような熱気、焦げるカーテン、悲鳴。
そして、美月の声。
——「亮介さん、逃げて……」
その瞬間に目を覚ました。
だが、ニュースを見たとき、心臓が止まるような感覚に襲われた。
夢なのか記憶なのか、区別がつかない。
デジャヴ、そんな言葉では足りない。
まるで、自分があの火の中にいたような感覚が残っている。
「俺が、あのとき……助けに行ってたら……」
言葉は雨に溶けた。
周囲の通行人たちは、焦げ跡の前を避けるように歩いていく。
その中で亮介だけが時間を失ったように動けなかった。
火災現場に、何かが落ちていた。
しゃがみこんで拾い上げる。
それは、焼け焦げたリボンの破片。
彼はすぐにわかった——美月が髪に結んでいたものだ。
指先に残る焦げの匂いが、彼の心を締めつける。
なぜだろう、涙は出ない。
現実感がないのだ。
「死んだ」という言葉が、どうしても彼女に結びつかない。
——カラン。
足元で、風に飛ばされた金属片が転がる音がした。
見ると、焦げたプレートが裏返しに落ちていた。
拾い上げると、そこにはかすかに文字が残っていた。
《MIZUKI》。
美月のネームプレートだった。
亮介はそれを胸に抱き、ようやく膝から崩れ落ちた。
「……なんで、こんな終わり方なんだよ」
雨が強くなる。
空から降る冷たい水が、火の痕跡を少しずつ洗い流していく。
しかし、心の中の焦げ跡だけは消えなかった。
その夜。
亮介は自宅の机の上に、拾ってきたリボンとネームプレートを並べた。
蛍光灯の光に照らされ、焦げた布地がかすかに光る。
目を閉じると、あの店の景色が浮かぶ。
紅茶の香り、優しい笑い声、そして美月の笑顔。
「ご主人様、いつもありがとうございます」
「えへへ、ちょっと恥ずかしいですね」
聞こえるはずのない声が、耳の奥で囁く。
彼はゆっくりと顔を上げた。
そこには、鏡越しに美月が立っていた。
白いメイド服、少し煤けた頬。
笑っている。確かに、そこにいた。
「……美月?」
瞬きをした瞬間、彼女の姿は消えた。
ただ、鏡の中の自分の目に、うっすらと涙の跡が映っていた。
彼は震える手で鏡を撫でる。
冷たい。だが、ほんの一瞬、温もりを感じた気がした。
——彼女は、本当に死んだのだろうか?
心のどこかで、そう思ってしまう自分がいた。
ありえない。だが、確かに感じた。
あの笑顔を、もう一度見た気がした。
雨は、夜通し降り続いた。
窓の外で、街灯の光が水滴を照らして揺れる。
それはまるで、ローズティアラのシャンデリアが、炎に包まれて揺れているかのようだった。
——そして、亮介の長い夜が始まった。
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