第11話:今は、それでいい

 朝、蝉の声で目を覚ました。

 障子の隙間から光が差し込む。

 目を開けると昨夜の痛みが残っていて、俺は思わず頬に触れた。

 まだ腫れがあり熱い。

 だけどこの熱さは隆也に殴られただけでないのは分かっていた。

 思わず昨日の隆也の言葉が頭に浮かぶ。


 ——お前がそんな顔してたら、美咲が笑えるわけないだろ


 確かに今の俺の顔を見たら美咲は笑えないだろうな。

 思わずふっと笑みが溢れた。


 机の上には、一度開けた後に置いたままの封筒。

 これも捨てなきゃいけない。

 だけどまだ俺はそれを捨てたいと思えない。

 その思い出の残骸を見つめながら、呟いた。


「……本当は、まだ何も終わってないんだよな」


 荷物をまとめ、実家を出る。

 坂を下る途中、潮の匂いが風に混じった。

 またしばらく、この匂いを嗅ぐことはないのだろう。

 夏の終わりの陽射しがどこか懐かしく、少し遠かった。




「もみや」の前で立ち止まる。

 暖簾はまだ出ていない。

 昨日のことが思い出され、腫れの引かない頬に痛みが走る。

 俺の事を思って殴ってくれた親友。

 次に会えるのはあいつの結婚式かな。


「……ありがとう」


 小さく呟いて、歩き出した。




 堤防に出ると、海が静かに広がっていた。

 カバンを置くと大きく息を吸い込む。

 潮風の少し甘い空気が俺の体に取り込まれていく。

 俺はやっぱり網代の海が好きなんだ。

 昔から何も変わらないこの町の雰囲気、海の匂い、全てが俺の思い出だ。

 ここで過ごしている間に起きた全ての事はもう過去なんだ。

 東京に戻ったらまたいつもの生活に戻る。

 いつかはきっと過去にしっかり決別できるはずだ。


 ふと思い出してカバンから封筒を取り出す。

 ドラマみたいにこの中身全てを海にばら撒こうかと思った。

 でも中身を取り出そうとしてやめた。

 俺の中の何かがまだ引っかかっていた。


「……今じゃないな」


 波の音だけが、遠くで途切れずに続いていた。

 潮風が頬を撫で、心の奥のざわめきを少しだけさらっていく。


 その時、スマホが震えた。

 画面には「隆也」の文字。

 今度は何のつもりだ。

 俺は訝しげに電話に出た。


「……なんだよ」


『お前の実家寄ったらもういないって言われてさ。

 どうせ海だろって思ったら当たりだったみたいだな』


 後ろに響く波の音で気づいたのだろうか。

 昨日あれだけ言い争いをしたのに、もうケロッとしている。

 こいつのこういうところが、やっぱり好きだ。


『熱海まで送る。いいだろ?』


「いいよ、網代駅から乗る」


『そう言うなよ。どうせしばらく帰って来ないんだろ?

 親友の顔を最後に見せてくれよ』


 その親友の顔を殴っておいて、よく言う。

 思わず笑ってしまった。


『どうした? 何かあったか?』


「いや、別に……」


『まあとにかく海で待ってろ。今すぐ行くから』


 そう言って、隆也は乱暴に電話を切った。

 まったく、強引すぎて困る。

 でも、そういうところも隆也らしい。


 やがて、隆也の車が海の前に停まった。


「ほら、乗れ」


 仕方ない。

 俺は頷き、助手席に乗り込む。


 車は網代の町を抜け、海沿いの道を北へ走る。

 国道の先は観光客の車で詰まっていた。


「やっぱり混んでるな」


「夏の熱海は毎年これだ」


 隆也がウインカーを出し、山側へ入る細い道にハンドルを切った。


「少し遠回りになるけど、こっちの方が早い」


 道はゆるやかに登り、木々の間から時折、海が見えた。

 その青さが、どこか懐かしく胸に刺さる。


 ——あの場所だ。

 数日前、美咲が連れてきた場所が見えてきた。

 だけど隆也に止まってほしいと言える訳もなく。

 車はその思い出の場所を通り過ぎる。


「……あの時、何であんな顔してたんだろうな」


 隆也に言うでもなくポツリと言葉が出る。


「美咲のことか?」


「うん

 あいつ、笑ってたけど……

 なんか、遠かった」


 俺の言葉に隆也は「そうか」とだけ言う。

 車内にラジオDJの声が響く。


「前に進もうとしてるんだよ、あいつも」


 こちらを見るでもなく隆也が答えた。

 今までただの幼馴染だったこいつが俺より大人に見えた。


「そっか……」


 車の中に静けさが戻った。

 木々のざわめきと蝉の声が、窓の外で混ざり合う。

 海と山の境を抜ける風が、少し涼しかった。




 やがて坂を下り、熱海の街並みが見えてきた。

 駅のロータリーに車が滑り込む。


「今度帰ってくるときは、もう少しマシな顔で来いよ」


「……考えとく」


 トランクから荷物を受け取り、駅へ向かう。

 背中に隆也の声がかかる。


「俺の結婚式の時に招待状出すから来いよ!」


 俺は振り返らずに、ただ手を上げた。




 改札を抜け、新幹線のホームへ続く階段を上がる。

 ポケットの中の封筒を指で押さえる。

 まだ開けられないけれど、その重さはどこか優しかった。


 列車に乗り込むと窓際の席に腰を下ろす。

 発車のベルが鳴り、ホームの風景がゆっくりと流れ出した。

 海が遠ざかる。

 あの夏が、静かに過ぎていく。


 やがて車窓に再び海が映った。

 陽の光が波に跳ね、眩しく滲んで見える。

 その時、スマホが震えた。

 画面には「美咲」の名前。


 喉がひりつく。

 指先が、微かに震えた。


『今日、帰るんだよね

 私も頑張るから、祐樹も東京帰っても頑張って』


 たったそれだけの言葉だった。

 それなのに、何度も何度も読み返してしまう。


 本当は返信したかった。

 “ありがとう”って言いたかった。

 でも、ここで返したら、きっとまた立ち止まってしまう。

 前に進めなくなる。

 俺の夏は永遠に終わらなくなってしまう。


 胸の奥が痛む。

 何かが込み上げてくる。


 気づけば、頬を涙が伝っていた。

 止めようとしても、止まらなかった。


 車内に子供の声が大きく響く。

 それ以上に大声で叫びたかった。

 切なくて、悔しくて、色々な感情がぐちゃぐちゃに入り混じって。

 まだ俺は戻りたかった。

 キラキラと輝く、あの夏の思い出に。

 あの光の中に、もう一度だけ立ちたかった。


 でも俺も前に進まなきゃいけないんだ。

 そう決めたんだ。

 だからあの日の続きを思い描いちゃいけない。

 ——それだけは分かっていた。


 しばらく動けなかった。

 スマホの画面がぼやけたまま、ただ呼吸だけを繰り返す。

 そのうち、胸の奥で何かが静かに落ち着いていく。


 俺は深く息を吸い込み、スマホを胸に押し当てた。

 その温かさに包まれながら静かに目を閉じた。

 窓の外の海が、光に溶けて消えていく。


 夏は終わる。

 けれど、また次の季節が来る。

 それでいい。

 ——今は、それでいい。

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