第10話:ぶつかる心

 もみやの暖簾をくぐると、湿った夜風が背中にまとわりついた。

 冷房の効いた店内に一歩入っただけで、外のざらついた空気が一瞬で遠のく。

 カウンターの隅に、いつものように祐樹がいた。

 グラスの中の氷は、ほとんど溶けかけていた。


「……呼び出しといて悪いな」


 そう言いながら隣に座ると、祐樹はゆっくりと顔を上げた。

 目の下の隈が濃い。まともに寝ていないのがすぐに分かる。


 店主が黙ってビールを置いていった。

 その泡が落ち着くまでの沈黙がやけに長く感じる。


「昨日眠れてないのか?」


「あまり寝れなかったな」


 当然か。

 前にあれだけ美咲の事を言っていたんだ。

 俺はあまり口に出したくなかったが、本題を切り出す事に決めた。


「……美咲、見合いうまくいったらしいな」


 自分でも驚くほど声が硬かった。

 近所の人から聞いた話だ。母親が嬉しそうに話していたらしい。

 誰に聞かせるでもなく、ただ“ようやく”という言葉を口にしていたとか。


 祐樹は一瞬だけまばたきをして、低く答えた。


「らしいな」


 それだけ。

 だけどその言葉に秘められた思いは分かっている。

 氷の溶ける音と、店内の時計の針の音だけが続く。

 遠くで古臭い演歌が流れていた。

 けれど誰も聞いていなかった。


「……お前、大丈夫だよな?

 まだ何かしようなんて思ってないだろうな?」


 問いかけた声に、祐樹は少し歪な笑顔を見せた。


「する訳ないだろ

 第一もう俺の出る幕じゃないだろ」


「本当にそう思ってるならいいけどな」


 俺の言葉に、祐樹はわずかに眉を寄せた。

 “思おうとしてる”——そんな顔だ。

 だけど言葉には出さない。

 こいつは本当に昔から本音を溜め込む。

 だから俺が続けるしかなかった。


「まだ引きずってる顔してるぞ」


 何か言いたい顔をしていた。

 当たりか、俺はため息をつく。

 少しの沈黙の後、祐樹が呟いた。


「……当たり前だろ

 どうしても……あいつのことが頭から離れないんだよ」


 声が震えていた。

 強がりでも開き直りでもない。

 ただ、未練だけが生々しく滲んでいた。

 だけどこれがこいつの本音だ。


「お前の気持ちは分かる

 だけど美咲の未来は見守ってやろう」


 グラスを持つ祐樹の手が震えている。


「分かってるよ

 分かってるけど……

 でも、どうしてもあの時の顔が忘れられないんだ」


 まただ。

 “どうしても”“忘れられない”

 そればっかりだ。

 やっぱりこいつは前を向けないでいる。


 俺はため息をついて、グラスをカウンターに置いた。


「お前さ、いつまで“あの頃”に縋ってんだよ

 もうあいつは、お前の知らない時間を生きてるんだぞ」


 祐樹は何も言わない。

 けれど、手の中のグラスを強く握りしめていた。


「それぐらい分かってるよ

 でもまだ俺の中で踏ん切りがつかないんだ……」


 ようやく絞り出すように呟いた声に、俺は静かに返した。


「今のお前は忘れられないんじゃない

 忘れたくないだけだろ」


 その瞬間、祐樹の視線が鋭く上がった。

 目の奥が濡れている。

 その目に、俺は一瞬だけ怯んだ。


「そうだよ!

 忘れたくないんだよ!

 お前に何が分かる!」


 カウンターに響いた拳の音。

 周りの客が一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らす。

 店主も何も言わず、黙ってグラスを拭き続けていた。


「俺だって!

 もう終わりにしようって自分に言い聞かせても、気づけばあいつのこと考えてる!

 何してても、どこにいても、心のどっかにあいつがいるんだよ!」


 声が掠れていた。

 こいつの中でいつまでもずっと渦巻いていたものが、やっと形になって出てきた。

 一瞬、何も言えなかった。

 でも、飲み込んでいた言葉が勝手に口を突いて出た。


「祐樹、それはただの我儘だ」


 その一言を口にした瞬間、祐樹の顔が歪んだ。

 何かが壊れる音が、たしかに聞こえた気がした。


「……そうかもな

 でも、それのどこが悪いんだよ!」


 叫びながら祐樹が立ち上がる。

 椅子が後ろに勢いよく転がった。


「俺はただ、あいつがあんな顔で笑ってるのが見たくないだけなんだ!」


 ああ、やっぱりだ。

 こいつは放っておけば今からでも美咲の未来を壊しに行きかねない。


「本当に助けてやりたいんだよ!

 今すぐでも美咲を連れてどこかに逃げたいんだよ!」


 最後の言葉は、ほとんど涙混じりだった。

 その姿を見て、俺の胸の奥がぐしゃぐしゃになった。


 このまま黙ってたら、こいつが壊れてしまう気がした。


 気づいた時には体と拳が動いていた。


 鈍い音。

 祐樹がよろけて、カウンターに手をついた。

 俺を憎むような目で見てくる。

 だけどこうしないとこいつの暴走を止めれないと思った。


「何するんだ!」


「……悪い。こうしないとお前は止まらないと思った」


 それだけ言って、深く息を吐いた。

 祐樹は頬を押さえたまま、呆然とした顔でこちらを見ていた。


「……お前の気持ちは分かってるよ

 ずっと見てきた親友だからな」


 俺は今使った拳を強く握りしめる。


「だけどな、もう前を見ろよ

 お前がそんな顔してたら、美咲が笑えるわけないだろ」


 祐樹の唇がわずかに震えた。

 その目から、静かに涙が落ちた。


「……分かってるよ」


 その声は、壊れたみたいにかすれていた。

 俺は何も言わず、ただグラスを持ち上げた。

 もう乾いていた泡の底で、氷が小さく音を立てた。


 ——外では、夜風がのれんを揺らしていた。


 夜が終わらないような気がした。

 それでも、いつか朝は来るのだろう。

 その向こうで、まだ蝉が鳴いていた。

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