第2話 硝煙の海に沈む夜
カンヌ港――昼間は観光船と高級ヨットで、
溢れるその海も夜になれば裏社会の匂いに包まれる。
潮風の中に混じるのは、
鉄と火薬、そして血の匂い。
そこに立つ者は、
皆どこかに影を抱えている。
レオン・ヴァレリは、
黒いコートの裾を揺らしながら、
倉庫群の通路を進んでいた。
冷ややかな碧眼が、月明かりを反射する。
その眼差しは静かで、だが、
いつでも引き金に触れられるほど、
研ぎ澄まされている。
「副ボス、例の荷が港に上がりました。
黒海ルートの連中が裏取引を――」
「ヴィルの命令は?」
「“抑えろ、手段は問わない”と……」
レオンは一瞬だけ息を吐いた。
「了解だ。――動け!」
その声を合図に、闇が動いた。
十数人の部下が一斉に散開する。
倉庫の奥から響く怒号、金属の音。
続いて閃光弾が炸裂し、夜が白く光った。
「撃て――!!」
銃声が夜を裂く。
海鳥が驚いて飛び立ち、
潮風に混じって火薬の臭いが濃くなる。
レオンは身を低くし、
滑らかに敵の背後を取った。
「港は俺たちの領分だ。引け」
「はっ、ふざける――」
乾いた銃声。男が崩れる。
――冷徹に見えるが、
レオンは撃つたびに必ず息を整えていた。
その癖は、ボスの影響だった。
いつも咳を押し殺してでも、
姿勢を崩さなかったあの男の背中を、
1番間近で、見てきたから。
敵を制圧し、レオンは無線を掴む。
「港、確保完了。残党は南側へ逃走中。――ボス、どうする?」
だが、応答がなかった。
ザー……という短いノイズのあと、
通信は途絶えた。
「ヴィル……?」
その瞬間、胸の奥を鋭い寒気が貫いた。
嫌な予感がした。
レオンは銃を腰に収めると、
部下に指示を飛ばす。
「残りは任せる。俺は1度戻る!」
アジトの廊下を駆け抜ける。
重厚な扉の前に立つ護衛たちが、
動揺した顔で振り返った。
「副ボス! ボスが――」
その言葉を聞くより早く、
レオンは扉を押し開けた。
――そこには、
机に片手をついて荒く息をする、
ボス…ヴィルドの姿があった。
「…は、…けほっ、けほっ…っ、…ふっ…」
散乱した書類、倒れたグラス、
床にこぼれたワイン。
その中央で、
彼はまるで敵の銃弾を受けたように、
胸を押さえていた。
冷や汗が額を伝い、息は細く、
途切れがちだ。
「ヴィル!」
レオンが駆け寄ると、
ヴィルドは顔を上げ、鋭い目で睨みつけた。
「来るな…っ、…!」
その声は掠れ、震えている。
「俺は……倒れてなど、いない……っ!」
しかし現実には、
息を吸うたびに胸が軋み、
咳が止まらない。
「けほっ、けほっ、…は、…けほっ!」
体を震わせながらも、
彼は机の角を掴み、必死に立っている。
「限界だ! 医者を――」
「黙れっ、!」
ヴィルドは拳で机を叩いた。
鈍い音が鳴り、レオンの言葉が遮られる。
「この街は……俺が守る。俺が息をしている限り、誰にも奪わせない……、」
言葉のたびに咳が混じり、息が詰まる。
それでも、その瞳だけはまだ燃えていた。
「お前がこの組を支えてるんだ、ヴィル。今は休め!」
「……ふざけるな。俺が寝てる間に、何人が裏切ると思ってる?」
ヴィルドの手が机を滑り、軽く倒れかける。
レオンが支えると、
彼はかすかにレオンの肩を掴んだ。
その手は冷たく、震えていた。
だが、まだ力を失ってはいない。
「……俺が、倒れたら終わりだ。あいつらは待ってる。俺が咳き込むその瞬間を……牙を剥くために。」
低い声で吐き出した後、
再び激しい咳が込み上げる。
「けほっ、けほっ、けほっ、けほっ……っ、ふ、……っ」
酸素が足りず、肩が大きく上下する。
喉の奥で、息が擦れる音がする。
レオンの胸が痛んだ。
――この男は、どれだけ自分を削れば気が済むのか。
ヴィルドは荒い息を押さえつけ、
無理に笑みを作った。
「……お前の顔が歪んでるな、レオン。俺を心配してる顔だ。」
「当たり前だろ。命を削って街を抱え込むなんて、正気じゃない。」
「正気じゃなきゃ、マフィアなんざやってられない。」
そう言い、
ヴィルドはゆっくり椅子に腰を下ろした。
深呼吸を試みるが、
肺の奥はうまく空気を受け取らない。
それでも、報告書に目を通す。
「……港の状況を報告しろ。」
「もういい、休めと言っている!」
「命令だ、レオン。」
掠れた声に、
それでも支配の響きが宿っていた。
レオンは拳を握り、唇を噛んだ。
「……港は制圧完了。黒海ルートの連中は撤退した。」
「そうか。」
ヴィルドは短く頷き、ようやく息を吐いた。
「……けほっ、ふ、っ……ご苦労だった。」
言葉の最後が咳に溶ける。
そのまま数秒、呼吸が止まりかける。
レオンは咄嗟に肩を支えた。
「もういい、これ以上は無理だ」
レオンは、そう言うと彼の手に吸入器を、
握らせ休むように促した。
けれど、ヴィルドは休む選択肢は無い様子
だった。吸入器を震える手で掴み使用する。
そうして、また言葉を紡ぐ。
「離せ……俺はまだ――っ……」
言いかけて、再び咳き込み、
息を詰まらせる。
「けほっ、けほっ、けほっ……っ、ぐ、っ……!」
その音が静かな夜に痛々しく響く。
レオンは何も言わず、
ただそっと支え続けた。
ヴィルドの目には、
まだ闇と炎が宿っている。
それは、決して消えることのない男の誇り。
だが、同時に
――その誇りこそが、彼を蝕んでいた。
夜が更け、外では遠くで再び銃声が響く。
カンヌの街は今日も静かに血を流し続けている。
だがアジトの一室では、
誰よりも激しく戦う男が、
息を詰まらせながらその王座に座っていた。
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