第4話 雨の日の傘、片側だけ濡れるやつ



 朝、目が覚めたら、世界が静かだった。


 雨の朝って、外の音が全部やわらかくなる。車のタイヤの音も、小鳥の声も、遠くの踏切の音も、なにもかも毛布みたいに丸まって聞こえる。部屋の中の空気も少しだけ冷えてて、布団がいつもより気持ちよくて、結果として──


「ゆうとー。起きてるー?」


 ベランダの窓から聞こえたその声で、俺は飛び起きた。


「お、起きてる!!」

「今起きたでしょ」

「いや、いまはもう起きてる!」

「それ起きたって言わないんだよ……かわいいな……」


 最後のほう小声で付け足されたやつは聞こえなかったことにしておく。


 カーテンを少し開けると、雨粒がガラスをつたって落ちていくのが見えた。外は灰色で、でもどこか落ち着く色だ。向こうのベランダには、真咲がいた。


 今日はいつもの寝起きパーカーじゃなくて、前髪をヘアピンで止めてる。顔を近づけて、窓ごしにちょっとだけ眉を寄せる。


「ねぇゆうと」

「ん」

「カッパ着る?」

「カッパって……小学生かよ」

「小学生のときは一緒に黄色いの着てたじゃん」

「それまだ覚えてんのかよ」

「覚えてるよ。ゆうとのカッパ、背中だけ泥跳ねですごいことなってた」

「それは真咲が水たまりに入るからだろ」

「呼んだのはゆうとだよ?」

「いや俺は“水たまり入るなよ”って言ったんだよ」

「『入んなよ? 絶対入んなよ?』って二回言った時点でもうさそい文句でしょ」

「お前の脳内どうなってんの」


 朝から会話がうるさい。安心する。


「でね」

 真咲が、少しだけ声を落とした。

「今日は一緒の傘で行っていい?」


 心臓が、びくっと揺れた。


「真咲、傘持ってないの?」

「持ってるよ?」

「あるのに?」

「あるよ。けど」

 そこで一拍置いて、真咲は、そっと言う。


「一緒がいい」


 それは、ただの四文字のはずなのに、なんでこんなに甘く聞こえるんだろうな。


 こういうとき、昔の俺なら「別にいいけど」って返してた気がする。

 でも、いまはそれじゃ足りない気がした。


「……うん。いいよ」


 それだけ言うのに妙に勇気がいって、言ってからちょっと熱くなった。

 ベランダ越しなのに、なんでこんな顔が熱いんだ俺は。


 真咲がふわっと嬉しそうに笑った。

 雨の朝なのに、窓ごしなのに、部屋の中に光が差した気がした。


「じゃあさ、七時四十五分な」

「四十じゃなくて?」

「今日は雨だから少し早く出たほうがいいって母さんが」

「お母さんさすが。じゃ、四十五分に玄関集合ね」

「了解」

「あと、髪、ちゃんと乾かしてきてよ?」

「え、なんで」

「わたしの肩が濡れるから」

「そこまでわかって言ってんの!?」

「もちろん」


 ……いやもうこれ半分告白じゃん。朝から心臓に悪い。



 玄関でスニーカーをはきながら、俺はちょっとだけドキドキしてた。


 いや、ちょっとじゃない。けっこうだ。


 なんか今日のこれは“初めて”っぽい。

 いままで一緒に歩いたことなんて何百回もあるのに、今日は別のイベントみたいに感じる。


 傘一本で登校ってさ。

 もうそれ、なんというか、ほぼもう、アレじゃん。アレだよ。

 ……アレってなんだよ。わかんないけど、アレ。


「ゆうとー! 迎えにきましたー!」


 ドアを開けたら、すでに真咲がこっち向いて笑ってた。傘は閉じたまま、玄関の屋根の下で待っている。もう制服で、スカートの丈は校則ぎりぎりよりちょっと長め、ソックスは白。髪はやっぱり結んでて、雨の日仕様なのかいつもよりまとめてある。前髪もちゃんと整ってて、ちょっと外ハネしてるのがずるいくらい可愛い。


 あと、なんか、ほんの少しだけいい匂いがした。シャンプー? それとも柔軟剤かな。どっちにしても俺の脳が一瞬バグるやつだ。


「おはよう」

「おはよう、ゆうと」

「なんでそんな嬉しそうなんだよ」

「だって、今日は“傘いっこ記念日”だもん」

「また記念日つくった」

「大事だよ? こういうの」

「じゃあ毎日が全部なにかの記念日になるだろ」

「うん、それでいいよ?」


 それでいいよって言われた瞬間、なんかもう負けた気がした。


「じゃ、行こっか」

「おう」


 俺が傘を開いて、肩よりちょっと高い位置に差す。

 真咲が自然に、当たり前みたいに、俺の左側にすっと寄ってくる。


 あ、近い。


 想像より、ずっと。


 肩と肩が少し触れてて、髪がときどき俺の頬にふれる距離。

 雨のしずくが、傘のフチからぽた、ぽた、と落ちていく音。

 そういう音の中で、歩幅はぴったり揃ってた。


 世界が傘の内側だけになったみたいだ。


「寒くない?」

「うん。ゆうとあったかい」

「毛布扱いすんな」

「だって本当なんだもん」


 真咲はそう言って、俺の腕に少しだけ体重をかけた。

 俺の心臓が、上下に一段跳ねた。


「ちょ、近い近い近い」

「だってさ」


 真咲が、上目づかいでこっちを見る。

 その瞳に、傘に当たった雨の光が小さく映ってて、近すぎて、逃げ場がない。


「ちょっとでも離れたら、わたし濡れるよ?」


 それ言われたら、もうなにも言えないじゃん。反則だろ。


「……わかったよ」

「うん」

「でも、左側の俺の肩はびしょびしょになってるんだけど」

「それはゆうとの男らしさポイントだから」

「そんなポイントいらない」

「わたしはいるよ」

「おまえの基準どうなってんの」

「ゆうと優しいは、すっごい高得点」


 高得点って言われた瞬間、肩の冷たさが少しだけ誇らしくなるのずるい。こういうのも反則だ。



 雨の道は、いつもより人が少なかった。

 みんなそれぞれ傘の下に隠れて、視界がバラバラに分かれてる。

 だから、ふたりだけちょっと別の空間にいるみたいだった。


「ねえゆうと」

「ん」

「昨日の帰りの話、覚えてる?」


 昨日──つまり、夕方の“いちばんはゆうとだから”のやつ。


「……覚えてない」

「うそ。そういうのだけすぐ忘れたフリする」

「……いや、なんか。思い出すと心臓変な音するから」

「ふふ」


 真咲が少しうつむいた。

 前髪から、雨のしずくが一粒だけ落ちて、頬をつたった。


「わたしね、すごい安心したの」

「安心?」

「うん。ゆうとが、“だれかとしゃべってても、いやだったらいやって言っていい”って言ってくれたの、あれ、すごく」


 ああ、その話か。


「あれはまあ、その、なんというか」

「独占欲でしょ?」

「ちが……います」

「今ちょっと噛んだ」

「噛んでません」

「可愛いね?」

「可愛くないです」


 めちゃくちゃからかわれてるのに、なんかすごく嬉しかった。

 おかしい。何これ。もはや脳が喜んでる。


「ね、ゆうと」

「ん」

「わたしも言っていい?」

「なにを」

「“やだ”って」


 言葉が一瞬止まった。


 それから真咲は、小さな声で続けた。


「ゆうとが、ほかの子とすっごい仲良くなって、わたしじゃない子と並んで歩いたり、笑ったりしてたら、やだって思うと思う」


 呼吸が浅くなる。


「でもね、それってワガママかなって思ってたの。だって、付き合ってるわけじゃないのに、そういうこと言うのって、ちょっとずるいかなって。勝手かなって」


 横顔は、すごく真剣だった。

 ふざけてない。

いつもの“減点だよ〜”とか“記念日だよ〜”の声じゃない、ちゃんとした、心からの声。


 俺は傘を少しだけ傾けて、真咲のほうへ寄せた。

 俺のほうはさらに濡れたけど、そんなのどうでもよかった。


「ワガママでいいよ」


「……いいの?」


「うん。そういうワガママは、俺、嬉しい」


 真咲の目が、ふっと揺れた。

 それから、少しだけ潤んだみたいに柔らかくなる。


「じゃあ言うね」

「うん」


「ゆうとは、わたしのがいい」


 心臓が、一段どころか、丸ごと持っていかれた。


 もうそれ、半分以上は告白では……?と思ったけど、

 そこを言葉にしたらこの時間が壊れそうで、俺はただ頷いた。


「……わかった」

「ちゃんとわかって?」

「わかったよ」


「約束だよ?」


「約束」


 傘の下で交わす“約束”って、こんなに静かでこんなに強いんだって、はじめて知った。



 学校に着くころには、俺の左肩はほぼ犠牲になっていた。


「うわ、マジで濡れてるじゃん。おまえ、だいじょうぶ?」

「だいじょうぶ」

「なにその誇らしげな顔」

「男子って大変なんだよ?」

「なにそのまとめ方」


 校門の手前、昇降口に入る前に、真咲は小さなハンカチを差し出した。

 白地にいちごの刺繍がついた、いかにも真咲って感じのやつ。


「はい、これ」

「ん? 俺に?」

「うん。肩とか首とか拭いて。風邪ひいたらやだから」

「いやこれ、おまえのだろ。借りたら悪い」

「返さなくていいよ?」

「は?」

「それ、ゆうとのにしていいよ?」


 そう言われて、指先が一瞬止まった。


「……それ、なんのイベント?」

「“ハンカチ渡したからもう彼女みたいな顔していい権”」

「そんな権利あんの!?」

「今できた」

「発行が雑だな」

「でも本物だよ?」


 真咲は、少しだけ目を細めて笑った。


「わたしのがゆうとの、って言ったから。今度は、ゆうとのもわたしの、ね?」


 ああもうだめだこれ。心臓のHPがゼロになる。


「……じゃあさ」

 俺の口が、勝手に動いた。

「俺のパーカー、一個やるから」

「えっ」

「家帰ったら持ってく。部屋着にすんの、許可」


 言ってから、自分で真っ赤になる。

 なにを唐突に。俺はなにを言ってんだ。


 でも真咲は、一瞬びっくりしたあと、ゆっくり、ゆっくり笑った。


「……それ、ほしい」


 その“ほしい”の言い方が、正直ずるかった。

 声が甘い。目がうれしそう。それなのに、少しだけ照れてる。

 なんかもう、抱きしめたくなるレベルでかわいい。(いやしないけど。いや、したいけど。いや落ち着け俺)


「じゃ、決まり」

「やった……」


 嬉しそうに両手を胸の前でぎゅっと握る真咲を見てたら、

 俺は、思った。


 俺のなかではもう、答えは決まってるんだって。


 ただ、まだ口に出していないだけだって。



 教室に入ると、少しざわざわしてた。


「え、二人、いっしょに来たの?」

「傘いっこ!? リアル!?」

「まじ!? もうそういう感じ!? もうそういう感じなの!?」

「え、ねえ、同じクラス内で成立するの早くない!? ドラマ!? 早すぎん!?」

「ねえ写真撮っていい!?」

「いや写真はちょっと!?」


 一瞬で囲まれた俺たちは、ふたりしてわちゃわちゃなった。

 すげぇな女子の情報伝達スピード。SNSより速い。


「ちが、ちが、ちがうのっ」

 真咲が両手をぶんぶん振る。

「ちがうっていうか、ちがわないっていうか、んんんん〜〜〜〜」


 なにその可愛いエラーメッセージ。


「幼なじみ特権なんで!」

 俺もうっかり口走った。

「なんかその、あの、近いのはいつものことなんで!」

「いつものことなんだ!?」

「いやそういう意味じゃなくて!!」


 大混乱の中で、俺と真咲の視線がふっと合った。

 お互い、ちょっと赤い顔のまま、笑ってしまう。


 あ、これ多分──

 もう隠すの、むずいな。



 放課後。

 雨は弱くなって、しとしとに変わっていた。


「ねえゆうと」

「ん」

「今日も一緒に帰る?」

「もちろん」

「よかった」


 真咲は、ほんのちょっとだけほっとした顔をした。

 それが嬉しくて、俺は何も言わずに頷いた。


 すると真咲が、ふいに声を落として、こっそり聞いてきた。


「ね。……手、つないで帰ってもいい?」


 思考が一瞬真っ白になった。


 傘の下、という前提すら外れた。

 もうそれは、はっきり“つながりたい”って言ってる。


 そのお願いのしかたが、あまりにもまっすぐで。

 まるで、ずっと我慢してたものを、やっと出せたみたいな声で。


「……いいよ」


 それしか言えなかった。

 でもその一言で、真咲の肩がふわっとゆるんだのがわかった。


「やった」


 雨上がりの道を、ふたりで歩く。

 指と指がちゃんと絡んでて、もう袖をつまむどころじゃなくて。

 どっちがどっちの手を引いてるのかわかんないくらい、ぴったりで。


 あ、これ、ほんとに“隣の人”なんだって思った。


 もう、ただの幼なじみ、じゃなくて。


 もうちょっと、なんというか、その先に足を踏み出してしまってる。


 でも、その一歩は全然怖くなかった。

 むしろ、安心した。


「ねえ、ゆうと」

「ん」

「明日、晴れるかな」

「どうだろ」

「晴れたらさ──」


 真咲が、ふっと笑う。


「今度は、ちゃんと手つないで、堂々と帰ろ?」


 その“堂々と”って言葉が、胸の奥に静かに引っかかって、そこからじんわり広がっていった。


 俺は少しだけ背筋を伸ばして、まっすぐ前を見て言った。


「……ああ。いいよ」


 真咲は、うれしそうにうんって頷いた。


 それはたぶん、ふたりだけの小さな宣言で。

 たぶんもう、逃げられないやつで。


 でも、もう逃げるつもりなんて、なかった。


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