PART Ⅱ




 後ろ手に閉めたドア越しに、食器のぶつかる衝撃が伝う。皿やナイフやフォークを投げながら母が何事か叫んでいるのを、分厚い金属がいくらかは遮断し、それでも微かに耳が拾う。玄関ドアに身を預けたまま、十六歳の蔵未はしばらくその場にとどまっていた。やがて、かぶりを振って外階段を降りる。

 ごく幼いころ、蔵未の家の「暴力」は父親の形をしていた。父親は癇癪かんしやくのままに母や家具、時に息子にも暴力を振るい、ひとしきり暴れるとうそのように静かになる。いつも、はじめの爆発のあと、父は裏腹に傷ついたような、おびえるような目をちらと垣間かいませた。それを見て蔵未は、幼心に、父は本当は暴力を振るいたくないのだろうと思った。こらえたいけどそれができずに、彼も傷ついているのだろう、と。

 当然の成り行きとして両親は離婚し、蔵未は母とふたりきりになった。父からの暴力が尾を引いてしまったのか、それとも結局は母個人の人格であり気質だったのか、ほどなくして母もまた蔵未に暴力を振るうようになった。父のそれと違うのは、言葉によるものも含まれていたこと。それから、どれほど当たり散らしても、母が自らを被害者と認識し続けていたことだ。

 父とて碌な人間でないのは理性の上でわかっている。だが蔵未には、己の暴力に怯え、傷つく心があるぶんだけ、父のほうがマシであるように思えた。母は、そもそも自分は傷つき追い詰められているのだから、暴力を振るおうが、意地悪く言葉で責めようが、それは大したことではないと考えている節があった。むしろ、こんなにも苦しい自分に、蔵未こそが加害者だと言わんばかりの態度を見せた。

 体が小さかったうちは、母の暴力は脅威だった。彼女の感情のたかぶるまま、いつ殺されてもおかしくなかった。だが、自身が男性として成長してくるにつれ、彼女は当然脅威ではなくなる。代わりに、憎しみと煩わしさが、ガスのように重く胸を塞いだ。

 始終母の機嫌を伺い、いつ破裂するかわからない母をなるべく刺激せぬように、さいなことにも神経をとがらせて暮らし続けた結果、蔵未は人の言動の裏を異常に気にする人間になった。そうしてつまらぬ気をまわし、やがてそのこと自体に疲れて反感を抱くようになると、思春期を迎える頃には、周囲とそもそもコミュニケーションを取らないことを選んでいた。話しかけられたのならば無視することはないものの、自ら積極的に関わろうという気概もない。両親による唯一の遺産ともいうべき容姿のおかげか、教室内で孤立していても見下しや侮蔑を受けることはなかった。ただ、まあ、それだけだ。

 その日、蔵未が登校すると、少し教室の空気が違った。嫌な感じを覚えつつ、どうせ自分には関係ないのでさっさと窓際の席に着く。担任が来るまでのあいだ本でも読もうとバッグを探ると、すぐ隣の女子の姿が目に入った。普段からうつむきがちだが、今日はいっそう角度が深い。

 彼女が制服のスカートをギュッと握りしめているのを見て、なんとなく、点と点がつながる。昨日の沢霧たちの会話——正確にはむしろ沢霧はあの会話を嫌がっていたが、こういう時に目立つ人間は不利だよな、と蔵未は思う——話題にあがっていたのは、彼女だったかもしれない。

 視線に気づいたか、彼女がこちらを窺う。蔵未は軽く肩をすくめて、姿勢を戻すと本を読み始める。

「……いいの?」

 だが、彼女は小声にそう聞いてきた。

「いいって?」

 蔵未が聞き返すと、彼女は周囲に目を走らせ、

「……みんな、離れてるから」と言う。

 あらためて教室を見回す。確かに、クラスメイトたちはなぜか自分の席に座らずに、窓近くの彼女を避けるようにして壁際に固まっている。登校時の違和感の正体はこれか、と蔵未は思う。

「別に、離れる理由ないから」

「……蔵未くん、知ってる?」

「なにを?」

「私の……その……」

「いや、知らない」

「…………」

「昨日、さきが言ってたやつ?」

 彼女の肩が、びくりと跳ねた。予想は当たっていたらしい——シンジのフルネームは、崎野慎二だ。

「……た?」

 危うく聞き逃しそうになるほど小さな声だった。

「観てない」

「……どうして?」

「どうして、って……ボカロ興味ないから」

「ボカロ?」

「ボカロの何かなんでしょ? 崎野が話してた」

「ボカロに興味あったら、観てた?」

「さあ……動画自体、あんま観ないから」

 少しの沈黙のあと、またか細い声で彼女は言う。

「ごめんね、……話題、困るよね。でも、……話してないと……不安で」

 それを聞いて蔵未は仕方なく、手にしていた本を閉じて、置いた。彼女と話すことなんてないので頰杖ほおづえをついて考えていると、彼女のほうも振り絞った様子で話しかけてくる。

「蔵未くんは……得意教科、なに?」

 入学初日かよ?

「現文。……かな。篠原さんは?」

「あ、私も……読書、好きなの?」

「うん。篠原さんも?」

「あ、うん、……今は、何読んでるの?」

「『アクロイド殺し』」

「クリスティだ」

「うん。有名なのに、まだ読んでなかったから」

 早く担任が来ないかと蔵未は前方のドアを見やった。そんな様子を認めてか、彼女が尋ねてくる。

「……沢霧くん、なんて言ってた?」

 その声は、震えていた。彼女の心中に湧き上がる怯えを感じて、蔵未は彼女を見つめる。

「……嫌がってたよ」

「い、嫌?」

「篠原さんを、じゃなくて……なんか、そういう話をするの」

 言葉を咀嚼する間のあとで、彼女は、小さく息をついた。

「……そっか」

 シンジごとき小者がなにをはやし立てたとて関係ない。結局は沢霧がどう思っているかだ、教室ここは。

 気弱な篠原でさえそう考えているのかと思うと、蔵未はちょっと笑えてきた。失笑しそうになったところで、教室のドアが開いた。


 放課後、臨時のHRが開かれた。篠原の件を誰かが担任に報告したに違いなかった。担任はある生徒について陰口が広まっていると言い、そのようなうわさや陰口を広めた者は名乗り出ろと告げたが、そんなことを言われたところで素直に手を挙げるはずがない。

 担任とて誰が犯人かすでに聞いているはずだった。だが、どこかで先入観が情報をじ曲げたのか、長い沈黙と硬直のあと、出し抜けに担任が言った。

「私は——」教室の後方で、スマートフォンをいじっていた一人をにらむ。「お前だと聞いてるぞ、沢霧」

「は?」

 沢霧はパッと顔を上げ、思い切り表情をゆがめた。見ると、篠原が怯えた顔で肩をすくませている。

「あ、あの」

 篠原は何か言おうとしたが、担任は気に留めない。

「お前のグループが噂話をしていたと、報告を受けている。どういうことなのか説明してくれ」

 途端、沢霧の表情が冷えた——教え子であり、未成年とはいえ、常軌を逸した美貌の持ち主の無表情には気圧けおされるのか、担任の顔が少し強張る。沢霧の目がゆっくりと篠原に向けられた。彼女の顔色といったら、紙のようだ。

 さすがに気の毒になったので、蔵未は口を開いた。「違いますよ」

「……うん?」

 ふと正気づいた様子で、担任が蔵未へ目を移す。蔵未は一瞬、教室を見回し、再度はっきりと言った。

「噂話がされてたとき、俺も教室にいましたけど、沢霧くんは嫌がってました。話してたのは別の人です。俺は聞かれてそう答えたし、先生に伝えた人もそう言った、と思いますけど」

 蔵未の声が——というより、発言内容が——うまく入ってこなかったと見え、担任はしばらく目を丸くしていた。やがて自分の記憶を辿りその意味に気づいたか、慌てたふうに目を瞬き、

「確かに、……そうだったな。そうだ。ぎぬだった、すまん、沢霧」

 沢霧に視線を向ける。彼は短く鼻息をつき、先ほどよりも椅子を大きく傾けて、スマートフォンを見つめた。が、不意にその目がこちらをのぞき、蔵未はつい驚いてしまう。何を思っているのやらつかめぬフラットな表情は、いくらか蔵未に向けられたあと、またすぐ、スマートフォンを向いた。



 適当な宿を見つけ、オンラインで予約を取る。平日であるのが幸いしてか選択肢は意外とあり、料金も安くなっていた。蔵未にとっては晩飯に何が出るかは重要なので、それなりにリサーチし、サイトに載っていた写真やレビューを吟味して候補を絞った。

 無事に予約が完了し、続いて、警察に電話する。数コールの呼び出しのあと新米らしき若い警官が出た。担当の刑事の名を告げるとすぐ取り次がれ、今日の夜には着きそうだと伝える。刑事は「長旅でお疲れでしょうから」と言い、署に出向くのは明日の朝イチということになった。電話を切ったところで、運転席の沢霧がチラチラこちらを見ているのに気づく。

「なに」

「その、それってさあ。俺も行っていいの?」

「行くって……親父の遺体見に行くの?」

「そう」

「いいと思うけど、なにが楽しいの」

「別に楽しいとかじゃなくてさー」

 車は海岸線を走っていた。少し下げたウインドウから、潮の匂いのする風が吹き込む。陽射しは雲にやや隠れたり、顔を出したりを繰り返し、眩しさにうんざりすることもない、気持ちのいいドライブだ。だが蔵未は、海沿いを選んだ沢霧を褒めるようでしやくなので、その感想を口にはしない。

「ひとりで警察署行くとか、ちょっと緊張しない?」

「……まあ……」

「俺も蔵未いない間ヒマだしさあ」

「そっちが本音だろ」

「またそうやって。なんか悪どいほうをホントだと思いがちだよな、蔵未ってさ」

 図星だ。自覚のあることなので、反論の言葉が見つからない。

 蔵未が黙ると、沢霧はまたチラと横目を流し、すぐに正面を向いた。しばらく車内は無言になり、蔵未は久方ぶりに、彼との沈黙に気まずさを覚える。

 一定の速度で走る車が、道路表示の下を潜る。それを機にしてか、不意に、沢霧が口を開いた。

「まあ俺も、素直に言わなかったけど」

「……なにを?」

「ホントの理由」

「……理由?」

「なんかさ」

 沢霧は——フードコートで、一瞬見せた表情と同じ——やや強張った横顔で、答える。

「ずっと会ってなかったって言っても、親父さんは、親父さんじゃん?」

「……そりゃ、……血縁だから、呼ばれたんだし」

「そんで、親父さんは死んでるじゃん?」

「……じゃなきゃ、警察から連絡は——」

「もう死んだお父さんの、記憶ん中と全然違う、死んだ顔、見なきゃいけないんじゃん」

 蔵未は、なんとなく口をつぐんだ。沢霧は前を向いたまま、すっと息を吸って、言う。

「俺はちょっと、心配なわけ——親父さんに、ひとりで会わせるの」

 前方に、料金所が見える。蔵未は何も言わなかった。車がETCを使って通り抜け、県道へ出る。そのあいだ、蔵未は押し黙ったまま、考えを巡らせた。

 沢霧が、仕事を放り出してまですっ飛んできた理由。時折見せる、緊張のわけ。

 思い当たる節があった——海辺の町を走る車内で、マスコットが、ぷらぷら揺れる。



「なに読んでんの?」

 放課後——蔵未が無人の教室でひとり文庫を読んでいると、出し抜けにドアが開き、よく通る声が響いた。その声は、聞き覚えのあるものである一方、聞いたこともない明るさでまっすぐに差し込んできたので、蔵未は少しギョッとして顔を向ける。

 確かに、予想の通りの人物が——予想を裏切ってそこにいた。沢霧章吾はスクールバッグを他人の席に投げながら、滑り込むようにして篠原の机の上に座る。

「それ。だれの本?」

「……クリスティ」

「クリスティ? おもてなし的な?」

「それは滝川だし、しかもクリステル」

「ガイジンの名前言われてもさあ。おもしれーの?」

 外人て——物言いに軽く引いたが、後段の問いかけについては「面白いよ」と一言返した。しかし、成り行きで応じてしまったものの、状況に理解が追いつかない。

 蔵未の脳内にいる彼は、極度の美貌を不機嫌そうにしかめ、いつもスマートフォンを見ている。声を聞いたことはほぼなく、たまにあってもほんの短い一言が刺々とげとげしく放たれるだけで、笑顔で話しかけてくるなど想像さえしたことがなかった。なぜ彼が、なぜひとりで、なぜ自分に声をかけたのか——蔵未には、さっぱりわからない。

 蔵未の戸惑いをよそに、沢霧は話を続ける。

「蔵未っていっつも本読んでるよな。本好きなの?」

「まあ、……いや、あのさ。ちょっといい?」

「え。なに?」

「なんていうか……俺に何か用? 話しかけられたことなかったから、正直びっくりしてるんだけど」

 すると、沢霧は目を丸くして、それから困ったように眉を寄せた。

「用ってゆーか……なんかさあ、興味湧いたっていうか?」

「興味?」

 蔵未も眉をひそめて返すと、沢霧は言葉を探り探り、

「俺さー、蔵未のことあんま知らねえんだけど、まあいるなってのは知ってたわけ。蔵未ってけっこう背ぇ高えじゃん? 俺って超でけえからさあ、おなじぐれえのがいんな、ってゆー」

「確かにね。沢霧って何センチあんの?」

「いま百九十ぴった。さすがにもう伸びねえっしょ」

 なるほど教室が狭そうだと思っていたが、そんなにあったのか。

「んで。まあだから蔵未が同じクラスなことは知ってたけど、接点ないっつーか、蔵未も蔵未でどういうキャラかわかんねえっつーか? しゃべってるとこ見たことねーしだれともつるんでねえしさあ、まあバチバチのインキャっしょ、って勝手に思ってたんだけど」

 バチバチのインキャ、と来たもんだ——いっそ愉快に思えてきて蔵未は本を置き、頰杖をついた。そんな蔵未の仕草に気づく様子もなく、沢霧は続ける。

「でもこの前さあ、なんか長文しゃべってるとこ初めて見たなー、って。しかも、結構はっきりさあ、言いたいことバシッと言ってたじゃん? ちょいヤな感じではあったけど濡れ衣とってくれたし、一回しゃべってみよっかな、って」

 濡れ衣に関しては晴らすと言うのが一般的だが、蔵未はツッコミを入れないことにした。代わりに、カウンターを打ってみる。

「なるほど。なんとなくわかったけど、一ついい?」

「んえ? いいけど」

「しゃべってるとこ見たことないのは、俺もおんなじなんだけど。……お前がそんな楽しそうにしてるの、俺は今、初めて見たよ」

 すると、彼の表情が歪んだ。蔵未は思わず身構えたが、どうやら不快の表れというより図星を突かれた反応だったようで、彼はそのままやや気まずそうに目を逸らす。

「まあー、……ね。楽しくねえんだもん、いつも」

「それは、見てればわかるけど。……崎野とか、斎藤とか、本当は嫌いなの?」

「嫌いっていうか」彼の表情はさらに歪んで、舌打ち直前という具合になる。「鬱陶しい」

 蔵未はその返答に、興味深いものを感じた。「嫌い」ではなく「鬱陶しい」——それはどういうことだろう。

「知ってると思うけど、アイツらマジでありえねーほどつまんねえことしか言わねえわけ。んでどうでもいいからスルーしてっと、ビクついたみてえになるしさあ。っつかこっちも別にアイツらに何の感情もねえんだけど、なんでくっついてくんの?っていう。話合ったことねえし、いる意味がわかんねえ」

 いる意味がわからないとは、これまたすごい言い方だ。ここまで話を聞いていて、蔵未は沢霧がどういう人間か、片鱗へんりんくらいは摑めた気がした。

 たぶん彼は、周囲の誰にもほとんど興味を持っていないのだ——「嫌い」とはっきり認識するほど、相手に注意を払っていない。いつもの取り巻きたちについても、「なんか周りにうろちょろしているやつ」という程度の認識で、「鬱陶しい」とは思っているが、追い払うほどの関心もない。小バエは邪魔だがわざわざ追って潰すというのも面倒で、顔の周りに来ない限りは放置している、というところ。

 だが、彼は蔵未には、明らかに興味を持っている。

「俺も——」やはり腑に落ちず、蔵未は問いを重ねた。「お前と話が合う気、しないけど」

「え、そう? 趣味違うから?」

「それもあるけど」

「えーでも、蔵未が本好きなら、俺読んでみてもいいんだぜ。……っていうかさあ、だれかが変な動画上げてるとか、だれかがセイカツホゴ受けてるとか、そんな話ばっかしてくるやつよりダンゼン話合うと思わね?」

 そう言われればそう、なのだが。

「……それは、俺に限らなくない?」

 重ねて言うと、我慢ならなくなったか、沢霧は急に立ち上がりムキになったように声を上げた。

「いーの! 蔵未に限んなくても! 俺はたまたま蔵未がかばってくれたからしゃべってみようと思ったの! ってか蔵未は俺にキョーミねーの? 俺あんまキョーミねーとか言われた試しないんだけど」

「興味ない、……とかじゃないけどさ。だって——」

「さっきから『けど』『けど』って、なんだよ? っつかお前は俺に話しかけられんのが迷惑なの?迷惑ってならやめるけど。どうしてえの?」

 強い口調が返ってきて、蔵未もつい仏頂面になる。

「だってさ、意味がわからないんだよ。俺に興味持つ理由って何? いつも周りにいる連中が気に入らないのはわかったけど、たったあれだけの発言でって言われたって、納得いかないよ——だいたい『バチバチのインキャ』の俺が、お前に興味持たれるっていうのが想像できない」

「だから、ヤなの?」

「だから! 別に、嫌ってわけじゃ——」

 勢い込んで返したところで、ふと、蔵未は立ち止まる。口をついて出た言葉ではあったが、今のはたぶん、自分の本心だ。

 沢霧に話しかけられるのが、嫌というわけじゃ、ない。

 思わず口をつぐんだまま、蔵未は今いちど彼を見た。その顔にはほんのりと不服の陰が残っていたが、先ほどよりは気が抜けた様子だった。

「イヤじゃねえのな?……じゃ、いいの?」

 真正面から彼の顔を見つめるのは、初めてだった。

 夕陽が彼を照らしている。赤みがかっただいだいの陽が彼の白い肌をあたため、殊更に長いまつと、奥深い森の葉の色をした大きな瞳に、光を散らす。その顔を目にしていると、あるはずのないものを見ているという気がしてくる——彼が目の前にいる現実が、全く信じられなくなる。

 夢のようにも、幻覚にも、この世の終わりにも思える、顔。

 途端に、蔵未は何もかも、どうでもいいような気がしてきた。目の前に立っていることさえような相手の、興味の理由なんてものは考えたってしょうがない。そんなことにこだわる意味はまるでない、と思えてくる。だいいち、さっき気がついた通りで自分は別に「嫌じゃない」。この輝かしい生き物が、自分のほうを向いていることが。

 もっと正確に——正直に言えば。蔵未は実のところ、彼が——

 だがそこに行き着く前に、蔵未は思考のドアを閉じた。考えるより先に、頭が勝手にそうしていた。十六歳の当時からもうずいぶんな時が経つが、以来蔵未はそのドアを、開けないことに決めている。

 ドアの向こうにあるものが、何であるのかは、もう知っているけど。



 目的地に着いた頃には、すっかり夜になっていた。途中、名古屋で一度降りて昼食をとったほかは、最低限の休憩のみで走り続けた形だ。さすがの蔵未も沢霧を少しねぎらう気持ちになり、固まった身体からだをほぐすように大きく伸びをしている彼に、背後から声をかける。

「運転、おつかれ」

 すると彼は振り返り、夜目にもわかる笑みを見せる。

「おー。伝わった? 俺の愛がさあ」

 蔵未は答えを返さなかったが、認めないわけにはいかなかった。彼が己をいつも気遣い、己のためなら労をいとわないこと。それがたとえ不可解でも、事実として、ずっとそうであること。

「……今日の宿、なかなか豪華そうだぞ」

「え、晩飯?」

「そう。クエとか出るって」

「クエ? クエって何」

「そういう魚」

「ふーん。クエが食えるってワケ」

 蔵未が呆れに顔をしかめると、沢霧は何が楽しいのだか喉を鳴らして、また前を向いた。昔と違い銀色の髪が、駐車場の街灯に輝いている。沢霧はいつも、蔵未の目には、キラキラと光っているように見える——蔵未は彼から目を逸らし、宿のほうを見て入り口を探した。

 古風な造りの宿だった。正面に小さな門があり、石畳のみちが続いている。品よくあしらわれた小庭は控えめにライトアップされ、その中を通るアロハ男の似合わなさといったら格別だった。とはいえ、蔵未も人のことを言える格好はしていない。沢霧にはよく「〇〇大の法学部って感じ」と言われるが、それが悪口であることはわかる。

 引き戸を開くと三和土たたきがあり、その先がフロントだった。女将おかみらしき婦人が出迎えてくれ、靴を脱ぐよう促される。靴を預けて予約名を告げると婦人はにこやかに頷いた。手続きのためにフロントへ向かう。沢霧は温泉宿に来たことがあまりないのか、物珍しげに見回している。

「蔵未さまですね。確かに、ご予約承っております。当館のご宿泊は初めてでらっしゃいますか?」

「はい。土地自体、初めて来ました」

「あら、あらそうですか。そんな初めてのご旅行で選んでいただけて、光栄にございます」

 客商売の柔らかさで応対してくれていた婦人は、そこで一瞬背後を窺い、少しだけ声を潜めた。

「それでですね、一点、お伺いしておきたいのですけど」

「え? あ、はい。なんでしょう」

「お布団ね。あの、どうなさいますか?」

 一瞬、何を聞かれているのか、わからなかった。数拍して、回路が繫がる。

「ああ——いえ、別で大丈夫です。二つ敷いていただければ」

「そうですか。離して?」

「はい。ええと、……ほどほどの距離で」

 なんと言ったものかわからず、妙な言い方になってしまった。婦人は共感を示すようにまた頷いて、ひと言添える。

「近頃は、いろんなお客様がいますから。念のため、お聞きしているんです」

 こうした古式ゆかしい宿でも配慮があるのは、意外だった。いいことだ、と思う一方、あらためて自分たちがどう見えるのかを考えてしまう。もっと言えば、自分たちが——どうあるべきか、ということを。

「ねー蔵未、俺らん部屋は?」

 沢霧が声をかけてくる。婦人が少し身をずらして、今ご案内しますよ、と告げる。



 次の日の登校から、沢霧は蔵未に絡むようになった。取り巻きを置き去りに、まっすぐ蔵未の机までくる。おかげで篠原は教室のどこにも姿が見えなくなってしまい、沢霧の居所はすっかり篠原の机の上になった。別に自分のせいではないが、蔵未は少し気がとがめた。

 沢霧が蔵未に見せる顔は、初めて話しかけられた日とまったく同じにくるくる変わった。蔵未は彼がこんなにも表情豊かであったことに最初のうちずっと驚いていたが、何週間か経つうちに気にも留めなくなっていった。沢霧章吾は感情表現の非常にストレートなやつで、思っていることはすぐ言うし、感じることは全て顔に出る。裏を返せばこれまでは、「うっすらつまらない」という気持ちのほか、湧いてくるものはなかったわけだ。

「ねーこの前さ、蔵未が読んでるの俺も読んでみたんだけど」

「は? 安部公房? お前にわかんの?」

「マジ俺のことなんだと思ってる? 全然わかんなかった」

「ほら見ろ」

「あれって何がおもしれーの? まず言ってることからわかんなかったんだけど」

「そんなやつに面白さを解説できるわけないだろ。まず辞書を引くところから始めろ」

 蔵未の沢霧への応対が日に日に雑になるにつれ、他の級友も沢霧に話しかけるようになった。沢霧が案外普通に、あっけらかんと答えると知って、怖がっていた面々も少しずつ関わるようになり(とはいえ彼の容赦ない言葉にまた逃げ出すやつが大半だったが)、中には気の合う人間も幾人かいたらしかった。その数人は特にグループを作るということもなかったが、機会があれば蔵未にも話しかけてくるようになった。

 沢霧が元いたグループは、沢霧抜きで集まっていたが、その存在感は薄れた。彼らがそれをどう思っていたか蔵未には知る由もない。だが、面白くはなかっただろう。あるいはもっと切実な思いがあったかもしれない。自分たちが爪弾つまはじきにされることへの、差し迫った恐怖、とか。

 ある日、蔵未が登校すると、また教室の雰囲気が違った。しかし今度は誰も蔵未に話をしないということはなく、篠原が不安げな顔で駆け寄ってきて、小声に尋ねた。

「蔵未くん——あのね、崎野くんが……」

 聞いてみると、なんということはない。蔵未が虐待されているという話を、崎野がクラス中に言いふらしたらしい。

 父親のDVでごく幼い頃に離婚したこと、以来母親が蔵未に対し暴力を振るっていること。母親による虐待は近所でも有名で、服の下にアザがあるのを見たことがある人もいたし、暴言をぶつける金切り声がよく近隣に響いていること、何か食器の激しく割れるような音もしょっちゅうしていること。蔵未が本ばかり読んでいるのは母親から逃げるため、図書館などに入り浸っていたからこそであろうこと。蔵未が暗いのも、誰とも話さないのも、きっとそのせいであろう、ということ。

 蔵未は、心底面倒くさくなった。崎野の狙いはなんとなく察せる——事情のある、かわいそうな人間だというレッテルを貼りつけて、蔵未をクラスの周縁に追いやろうとしたのだろう。それで徐々に気まずくなって沢霧が離れたりすれば、もしかしたら自分たちのグループに戻るかもしれないし、そうならなくても少なくとも、「クラスのインキャ」に席を取られずに済む。

 下位になるのが、ただ怖いのだ。その他の行動原理がない。

 内心のうんざりした思いがつい表に出てしまったか、眼下の篠原が怯えた顔をしたので、蔵未はやんわりと取りなした。

「なるほどね。教えてくれてありがとう」

「あ、うん……あの、この話って……」

「事実だよ。でも、なんていうか——」さすがに苛立ちが込み上げて、蔵未はつい、鋭く息を吐いた。もう何度か呼吸をし、心を落ち着けて、続ける。

「今さらなに?って感じっていうか……小さい頃ならまあ助けてほしいなとか思ってたけど、今は俺のほうが体強いし、もう母親とか興味ないんだよね。本もきっかけはそうだったけど、普通に好きで読んでるだけだし」

「そう、……なんだ」篠原は受け止めて、少し、びた調子で言う。「崎野くん……嫌なこと、言うよね」

「なんだろうね」篠原のときも——言いかけて、蔵未はやめた。「……彼ら、いつもだね。何が怖いんだろう」

 そう言い終えた瞬間に、激しい音が教室に響いた。思わず肩が跳ね、音のした方に目を向ける。そこには沢霧が——体中から憤りと不満を放ちながら立っていた。ドアが開いていると気づいて、今のは沢霧がドアを開けた音だったのだと悟る。開くというより、破壊しているといったほうが近そうだったが。

「……沢霧、……」

 彼が何に怒っているかは、火を見るよりも明らかだった。だがそれを蔵未の立場でどうなだめたものかわからない。沢霧も蔵未に対して何が言いたいかわからないのか、自身の内心を訴えかけるような目で蔵未を見つめたが、結局何も言わずうつむくと、ぱっと顔を上げ教室を進んだ。そして、なぜか——崎野の席の真後ろに座り、彼の椅子の上に足を乗せる。

 百九十センチもあると、そんなところまで届くのか。

 沢霧はその姿勢のまま、教室のドアを睨んだ。やがて間もなく足音がして、沢霧の顔があったあたりの数十センチ下の位置に、崎野の顔が現れる。

 その瞬間、沢霧は、崎野の机を蹴り飛ばした。

 重く、大きなものの倒れる身のすくむような音がして、教室内の空気は、いよいよもって凍りつく。石にでもされたかのように固まっている崎野を見据え、大きな瞳をさらに開いた沢霧は、そのまま口角だけ吊り上げる。

 笑いというのは威嚇の顔だと、以前、何かの本で読んだ。

「なあ、あのさ。お前そんなにだれかいじめてえなら、乗ってやろうか? 試しにお前とかどうよ。マジお前の顔見るだけで、こっちはキレそうになってんだけど?」

 崎野の顔が、蒼白そうはくになる。小さく震え始めた彼に、沢霧は、指を向けて、払う。

「帰れ。今日一日出てくんな。そしたら、明日は忘れてやる」

 蔵未はそれを聞き——なんでお前が言うんだよ、と思った。忘れるとか、忘れないとか、言えるのって、俺だけじゃないのか?

 崎野は数秒、固まり続け、やがて気の毒になるくらい慌てた様子できびすを返した。一瞬、蔵未と目が合って、だが何も言わないまま教室から走り去ってしまう。

 沢霧の舌打ちが聞こえた。彼は足を乗せたまま、腕組みをして、窓の外を見つめた。



 夕飯はレビューにたがわず豪華だった。夏らしくコンソメのジュレをあしらったひとくちサイズの料理や、刺身、汁物に煮物、茶碗ちやわんし、それから大皿の薄造り。味付けも申し分ないが、何より素材そのものの旨み——やはり海の幸については港町にはかなわないなと、蔵未はしみじみ嚙み締める。この倍の額を出したとて、都心で同じだけの感動にありつくことはできないだろう。

 向かいの沢霧はといえば、この有難さがわかっているのやら、ふんふんと頷きながら次から次へ口に入れている。ふと、目の前の大皿を見つめて、箸で指した。

「これがクエ?」

「そ」蔵未はそっけなく答える。「高級魚だよ」

「ふーん。うめえの?」

「俺もあんま食べたことないけど。フグより美味おいしい、って人もいる」

「へえー。こうやって刺身で食うの?」

「いや——」

 蔵未は自分の知識と、道中に検索して知った話とを取りまとめた。

「クエって鍋が有名で、冬のイメージ強いんだよ。俺が食ったことあるのもそれで、脂が乗ってて、コクがあって……でもどうやらクエの旬ってほんとは夏だとも言われてるらしくて、夏のクエもそれはそれで美味しいんだってさ、夏は、産卵期を過ぎてるから余分な脂が落ちていて、さっぱりした味わいなんだとか……だから夏は鍋っていうより薄造りがいいそうだけど、俺も正直、初めて食べる」

 丁寧に伝えてみたものの、沢霧は半分以上、聞いていないように見える。どうせさほどの興味もないのになんとなく訊いただけだったのだろう。

 さほどの興味もないのに——

 蔵未はまた、妙な落ち着かなさにとらわれる。

 沢霧は——蔵未が思うには——かなり薄情な人間だ。特に他人と接するとき、その傾向が顕著に出る。彼は無神経なことでも簡単に訊くし、答えさせておいて聞き流しもする。目の前の他人に対し、注意を払う気がないからだ。相手がどう感じるか、どんな気持ちになるかということが、、気にしていない。

 その沢霧が、蔵未に対しては、ほとんど常に注意を向ける。スマートフォンはしまうし、言葉を選んで話すし、訊きにくい問いに躊躇ちゆうちよを見せる。蔵未がどう感じるか、どう思うかということは、沢霧にとっては常に「関心事」であるように見える。いい加減な応答も、もちろん時にはあるにしても。

 蔵未にはずっと、その理由がわからないままだ。彼がなぜ蔵未に対し、心を割いてくれるのか。

「沢霧」蔵未はあえて手元の碗に目を落としながら、つぶやいた。「今さらなんだけど」

「なに?」

 沢霧は口の中のものを吞み込んでから、そう応える。

「お前さ、俺が電話したとき、仕事もほっぽり出して来ただろ」

「え? うん。俺は蔵未優先だから」

「でもさ、なんていうか……しょうもない用件だったら、さすがに早退はしなかっただろ」

「えー?」

「えーってなんだ」

「なんか、疑ってない? 俺の愛情を?」

「そうじゃなくて、……いや。ある意味、そうなのかもしれないけど——」

 自身の内心を探りつつ返すと、つむじに強く視線を感じた。顔を上げれば、沢霧は、ほんのりと不機嫌そうな——それ以上に真剣な顔をして、蔵未を見ていた。

「どういうこと?」

 蔵未は、一度、口を結ぶ。おもむろに碗と箸を置き、目を迷わせてから、沢霧に向けた。

「お前が……俺のこと好きっていうのは、わかってるよ。疑おうにも、こんだけ長いこと変わらずにいられたら、それはもうそういうもんなんだって、認めるしかないし」

「だろ?」

「でも、……俺にはそれが、なんでかってのが、わかんないままだ。お前が最初に話しかけてきたときからずっと、お前がなんで俺に興味あるかも、こんなにひどい態度のままでどうして愛想をつかせないのかも、仕事や他のこと後回しにしてまでなぜ俺を優先するのかも、ずっと、わけわかんないまま、……」

 見る見る不満そうになる彼から、つい目を逸らす。「それで、ちょっと思ったんだけど」

「何よ」

「お前、……もしかして、心配した? 俺が、お前に電話したとき」

 沈黙が返った。恐る恐る目を戻せば、沢霧の表情から不満げな色は消えている。代わりに、どこか神妙になったその顔は、類いまれな造形を混じり気もなくあらわにしていた——思考が、一瞬、飛びそうになる。

「心配は、した」

 だが、その唇が動き、聞き慣れた声が耳に届いて、蔵未は正気を取り戻す。息を短くついてから、蔵未はもう一つ尋ねた。

「……死ぬかも、って?」

 再びの、沈黙。先ほどよりも長い間を作り、彼は、答える。

「……正直、ね」

 蔵未の耳朶じだに、蝉のが響いた。放課後、夏の暮れの帰り道。

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