天より落ちて、止まぬもの

初川遊離

PART Ⅰ




 対向車からのハイビームに隣の男が舌打ちした。助手席を浅く倒して寝たふりを続けていたくらは、額に置いた腕の下で、わずかに眉をひそめる。すると、

「一本道でハイビームなんかかましてるほうがわりぃじゃん」

 男が答えた。この仕草が、彼の目に留まったはずはない。

「消し忘れかもしれないだろ。いちいち舌打ちすんな」

「蔵未は俺より見ず知らずのプリウスの肩持つって言うの?」

 プリウスだったのか——前言を覆そうか考えていると、彼が横目を向けてきた。過ぎ去る対向車のライトが、彼の顔のうえを流れては消える。その白い光を、蔵未は見つめる。

「ってか、起きてんなら言えよ。気ぃ遣ってラジオ消してんだけど?」

「べつに、起きてない。また寝るから」

「おかしくね? 今は起きてんじゃん」

「だから、今から寝るっつってんの。起きてお前に付き合う気なんかないんだから、どっちでも同じだろ」

 いらちを込めた低声こごえで返すと、彼が唇を曲げた。今度はねたふうに舌を打ち、前方へと視線を戻す。頭上を過ぎた看板によれば、あと二十キロでサービスエリアだ。

「蔵未の父さんて、向こうの生まれ?」

「寝るっつってんだろ」

「今起きてんじゃん」

 言い返せるか少し考え、諦める。「知らない。聞いたことない」

「でも、向こうで死んだんでしょ?」

「それだけの話だよ。なんであそこにいたんだか、知らない」

「よく連絡先わかったよね」彼は車線を移りながら言う。「蔵未って携帯番号、小学生から変えてねえの?」

「どうだったかな——」

 答えるのが面倒で、眠いふりをして誤魔化した。気づいているに違いなかったが、彼は——さわぎりは、それ以上かない。



 父が死んだ、としらせを受けたのは、今日の昼のことだ。スマートフォンに表示された見覚えのない番号は、やはり覚えのない土地の、所轄署のものだった。刑事と名乗る男は蔵未に身元の確認を頼みたいという。

「身元——」少し、口籠もる。「見ても、わかる自信ないですけど」

『大丈夫だと思いますよ』と、刑事。『お写真を見る限り、実によく似ていらっしゃる』

 無言のまま、蔵未は眉をひそめた。警察がしゃしゃってきたからにはろくな死に方でないのだろうに、そうやって死んだ人間に「よく似ている」とのたまうとは——だが、刑事なんてそんなものか——続けて仕事の都合を訊かれ、仔細を言わず平気だと答える。ついさっき平気になった、と、胸中で付け足す。

 蔵未が電話を受けたのは、勤め先のビルの屋上だった。飛んでしまおうか考えていたちょうどそのとき、電話が鳴った。刑事が掛けてくる数分前、蔵未は直属の上司のつむじにれたばかりのコーヒーを注いだ。ポットになみなみ入ったものを、ゆっくりと、最後の一滴まで。

「辞めます」

 空になったポットは、その場で落とした。ガラス製のポットは割れず、硬いパイル地のフロアマットを、静かに転がった。

 いつかこうなると思っていたのだ。


 警察からの連絡に死ぬのを一旦やめにしたあと、蔵未はしばらく携帯をいじった。ついさっき得た番号を〈刑事さん〉として登録し、漫然と連絡帳を辿たどる。名前を見て思い出せる人もいれば、出せぬ人もいる。いずれにせよ、どの名前とも、十年近く話していない。

 何度目かのスクロールのあと、ふと指が止まった。〈サ〉欄の終わり。彼と最後に関わったのは一年ほど前の話で、つまり他の名前たちと比べて、格段に最近だ。何も考えず、蔵未はその名に触れた。

 平日真っ昼間の電話。なのに、たったの二コールで出る。

『え、蔵未? 久々じゃん!』

 声も、調子も、「久々」な気がしない。沢霧章吾は、そういう男だ。

 彼は蔵未が何か言う前に会う約束を取り付けてきた。断られなかったことを意外そうにはしていたが、特段訊いてくるでもない。たぶん、会えるならその理由は、別になんでもよかったのだろう。

 彼が指定した喫茶店には蔵未のほうが早く着いた。ひとまずアイスコーヒーを頼んで待っていると、前から声がかかる。思わず、身をこわらせ、それから二重の驚きを覚える——まず、相変わらずの美貌に。そしてこんな格好のやつが入ってきて、気づかなかった自分に。

 アロハシャツにサングラス、チノパン、染めた銀髪というちの彼は、手を挙げながら向かいへ座った。大きな声で店員を捕まえ、アイスコーヒーを頼むと、サングラスを外す。

「よ。蔵未からって珍しくない?」

「ああ、うん。ちょっと」

「仕事は? 休みとか?」

「別に。なんだっていいだろ」

 我ながらあきれた返答だ——蔵未の内心をよそに、沢霧は気にするふうもなくメニューを開き、何か指差してくる。

「あ、ねえ、パフェあんだけど? 桃のパフェだって。桃って旬?」

 その調子に、思わず気が抜ける。彼と接していると、自分のひねくれ具合があほらしく思えてくるのも、いつものことだ。

「急に電話したのに、よく暇だったな」

 余計なことを言うまい、と思い、パフェには触れずに蔵未は訊いた。だがそこで、意外な答えが返る。

「や。別に、暇じゃねえよ」

 驚いた。次いで、眉根が寄る。

「どういうこと?」

「フツーに、仕事してたけど。俺は蔵未優先だから」

 沢霧はなんでもないような顔をしているが、蔵未はあつに取られた——つまりコイツは、仕事中に俺の電話に出、あまつさえそれをほっぽり出してすぐ会いにきたというわけか?——電話口で、用件さえ聞かずに。

「なんで?」

 するとなぜか、彼のほうがわからない顔で、

「え、何が。蔵未のほうが大事じゃん」

 と、言う。何一つに落ちないが、詳しく訊いても無駄なことはわかる。

「……あ、そ」

 しばらくの間のあとで、結局、そんな一言を返した。

「感動とかしないわけ? 俺の熱い友情にさあ」

「どうだか。サボる口実じゃないの」

「どうしてわざわざそんなふうに取んの? 素直に喜べっつーの」

 それが素直に信じられるなら、こんな性格に育っていない。

 蔵未は黙って手拭いの封を破り、両手を丹念に拭いた。折よく店員がやってきて、二人分のアイスコーヒーを置く。小さなピッチャーに入れられたミルクと、ガムシロのポーションが二つ。沢霧はガムシロだけを手にした。少し迷って、蔵未は両方を入れる。

「めずらし。甘くすんの?」

「ちょっと疲れてて」

「ふうん。そんだけ?」

「なんだよ?」

「別に」

 妙なとこ鋭い——気まずさを誤魔化そうとして、ますます眉間にしわが寄った。沢霧が指摘した通り、蔵未は大抵ブラックで飲む。なのにミルクを混ぜたのは、例の上司の卓上にあったポットを思い出したせいだ。

 あの上司は、常に休憩室のポットを一つ占有し、ブラックコーヒーをたっぷり淹れてデスクに鎮座させていた。空になると、人を呼びつけて、満杯になるまで淹れるように言う。あのとき蔵未の手に熱々のブラックコーヒーがあったのは、言いがかりに近い指摘と嫌味をたっぷり浴びせられたあと、給仕を言いつけられたからだ。

 怒りをみ込み休憩室でコーヒーを淹れ、デスクに戻ると、おまけとばかりに上司はひとこと言い足した。今となっては、それが皮肉であったことしか思い出せない。次の瞬間、頭が真っ白になり、気づけば上司の頭頂に熱いコーヒーを注いでいた。あーあ、と思ったことだけは覚えているが、あとは曖昧だ。

 ミルクを混ぜたアイスコーヒーは生ぬるい口当たりだった。蔵未の様子を見とめたか、沢霧は、にやりと口角を上げる。

「とっかえる?」

 不機嫌な声が口をつく。「いい」

 ふうん、とまた何か言いたげな声を出し、しかしその先は言わずに、沢霧はメニューをめくった。昼食を吟味し始めた彼に、蔵未は事のあらましを告げる。

「親父さん?」顔を上げた彼が、目を見開く。「が、死んだ?」

「うん」ストローをくわえ、蔵未は答えた。「らしい。どうやら」

「で、警察から電話?」

「そう」

「どこまで行くの?」

 聞いた地名をそのまま告げる。

「遠っ」

 オーバーにけ反った彼を、蔵未はちらとうかがった。沢霧は事情を聞く前より、どこか気が抜けているように見える。人の親が死んだのに?——不思議には思ったが、特に追及する気にもならない。

「んで蔵未は、そんなとこまでひとりで行くのが嫌ってわけね」

 言いつつ店員を呼び止めて、彼はピザトーストを頼んだ。蔵未もメニューを再度眺めたが食べたいものは浮かんでこず、代わりに先の彼の発言がよみがえる。ひとりで行くのが——そうかもしれない。

「お前、車持ってたよな」

「持ってますよお。割といいやつ」

「そういうところでいかにも見栄を張りそうなタイプだもんな」

「どうせならカッコいいやつ乗りたいじゃん? デカいほうがつええし」

「つええって何だよ」

「事故ったときのハナシ。どっちがどの速度で突っ込もうが、結局は弱えほうが大破するんじゃん? ジョーシキ的に」

 ギョッとした。ついその顔をまじまじと見るが、彼は気の抜けた表情のままだ。

「え。何? 他責っつったって、死んでたら金も受け取れねーし」

 蔵未は、なんとなく言葉を失い、結局話をずらした。

「仕事は? 休めんの」

「だからあ、俺は蔵未優先だって。有給は余ってるし、知らねえ親戚何人かって休み取るよ」

 一人でいいだろと蔵未が言う前に、彼は続ける。

「どうせなら旅行しない?」

「旅行?」

「いつ着きますとかいつ出ますとか、言ってねえんだろ? 刑事さんに。それじゃ二、三日ごまかして、遅く着けばいいじゃん。道中遊ぼうぜ」

 可能かどうか考え、答える。

「いや、……刑事さんに『仕事平気か』って言われて、平気だって言っちゃった」

「それが?」彼はきょとんとしてみせる。

「だからって最短ルートで向かいますとは言ってねえだろ。新幹線とか飛行機とか使わねえで車で行けば、移動だけで一日かかるんだし。しれっとその想定で着く日付言えばいんだって」

 本当に?——まあでも、そうか。

 事件性の有無さえまだ詳しくは聞いていないが、電話口の刑事の口調はのんびりとしたものだった。仮に急ぎ来てもらう必要があるのであれば、もっと違う様相になっていたのじゃないかと思う。仕事の都合の訊き方も、手が離せないようであれば週末でよいと言いたげだった。もし、早く来てほしいと言われたら、そのときに諦めればいい。

「言ってみるよ」それで、そう答えた。「何食おう、……」

「決まんねえの?」

「なんか、どれもピンと来ない」

「じゃ、俺が決める」向かいから腕を伸ばしてきて、メニューの隅を指す。「これ」

 ナポリタンだった。それは、嫌だ。

 蔵未は視線を彷徨さまよわせ、やがてメニューの一角に目を留めた。人差し指を添える。

「これにする」

「カルボナーラ? 俺の提案は?」

「気が乗らない」

「嫌いだっけ?」

「いや、別に。好きでも嫌いでもない」

 沢霧はしばらく不満げな顔をしていたが、やがてにんまりと笑う。

「ま、よかったな。俺のおかげで決まって」

 黙殺した。うなずきたくないが、たぶん、彼の言う通りだ。



「うまっ」

 向かいの席で彼が声を上げる。蔵未は反応を返さずに、うどんをすすり込んだ。

「うどんとか地味すぎね?って思ったけどアリだわ。アリ」

蕎麦そばとうどんは意外な場所に当たりがあるから」

「そうなの?」

「うん」汁に浮かんだかもかじる。「例えば、駅の立ち食い蕎麦とか」

 一夜がっていた。日差しに目を開けるとそこはサービスエリアの駐車場で、沢霧いわく「隣でお前はグースカ寝てるし、俺も眠くて事故りそうだったから」手前で降りたという。エンジンは切られていたが、車内は生存可能な温度で保たれていた。後部座席のポータブルエアコンが働いたのだろう。キャンプ用に買ったはいいが、ずっとしまってあったらしい。

 朝飯を食おうということになり、サービスエリアの名称でウェブ検索をかけてみたら、個人ブログが引っかかった。全国津々浦々のうどんを食べ歩いている人のブログで、最高五点の評価点を各店に配している。ここのフードコートに入っているローカル店は四・三だった。三以下も珍しくないなか、かなりの高評価だ。

 沢霧はきつねうどんを頼んでいた。ぶ厚いお揚げにかぶりつき、吞み込んでから口を開く。

「駅の立ち食いって、うまいイメージなかった」

「まあ、普通はそうだろうな。できるだけ早く飯を済ませるためにあるんだから」

「蔵未は出張とかで知ったの? そういうの」

「うん、……」言葉を濁してしまってから、慌てて繕う。「まあ、そう。よく地方行くし」

 返事が途切れた。目を上げると、彼は神妙な顔をしている。

「蔵未さ」その声はやや強張っていた。「会社、なんかあった?」

 再び、目をらす。のろのろと、柴漬けを箸でつまむ。

 口に放り込み、よくんで、答えた。「キレちゃった」

「キレた?」

「うん。俺が」

「……あ、なんか、上司? ヤバいんだっけ」

「そう。……前会ったときも言ったっけ、……」

 沢霧はしばし無言になった。口の中のうどんを咀嚼そしやくしている。

「もしかして、辞めた?」

「うん」

 店内のかすかな喧騒けんそうが、急に耳に入ってきた。漬物を嚙む音が、自分の頭蓋によく響く。

 蔵未は少し顔を上げ、辺りを見回してみた。がらんとしたフードコートには僅かに親子連れがいる。休日はもっと騒々しいだろう。今現在聞こえる音といえば、幼い子どもの不明瞭な発話と、親がそれに応える声。飲食店の調理の雑音に、店員同士のやり取りが混じり、それらはフードコートの広さにどこかむなしく反響する。

 沢霧は何も言わなかった。ややあって、両手をぱんと合わせる。

「ごちそうさん」

「食い終わった?」

「旨かったもん。蔵未は?」

「あとちょっと」

「今日どのへんまで行くかなあ。伊豆とか寄っちゃう?」

 蔵未は脳内で日本地図を思い浮かべ、顔をしかめる。

「お前さあ、どうしてそんな海岸線を行きたがるの?」

「だって海沿いのが気持ちいいじゃん」

「でもこの調子じゃ三日経っても向こうに着く気しないんだけど……昨日だって鎌倉寄ったりするから、半日かけてまだこんなとこだし」

 蔵未の文句には取り合わず、沢霧はスマートフォンをしまうとガラス越しの戸外へ目をやった。居並ぶ車がキラキラとを照り返す駐車場を見つめ、まぶしそうに目を細める。

「いい天気だわ。夏って感じしない?」 

 おかげさまでクソ暑いけど——言い返そうとした台詞せりふが、ふと湧いた疑問に詰まった。沢霧は自分と話すとき、いちいちスマートフォンをしまう。今まで気にも留めていなかったが、よく考えれば少しおかしい。

 他の誰かと話すとき、彼は大体、画面を見ている。



 沢霧を思い出すとき、蔵未の脳裏にはふた通りの姿が浮かぶ。大人になって以後の彼——銀髪の発光体——と、出会った当時の黒髪の彼だ。どちらが先に浮かんでくるかはそのときの状況によるが、後者を思い出すときは、いつもうつむいた横顔が見える。手元の携帯に目を落とし、つまらなそうにしている顔。

「ショーゴ、どう思う?」

 昼休みの教室。沢霧のグループはいつも教壇近くの一角を陣取り、数人で話をしていた——が、結局のところ口を開くのはもっぱら彼の取り巻きで、沢霧自身は興味なげにスマートフォンを眺めている。今も感想を聞かれたのに、表情も変えず黙殺している。

 自らのスマートフォンを突き出し反応を待っていた男子は、沢霧が見もしないので、ばつが悪そうに姿勢を戻した。横画面で手に持って、あらためて何かを再生する。

「ヤバいよね。踊り手とか」

 気を遣ったのか、輪の向かいにいる女子が声をかけた。サイトウ——だったか? 男子はシンジ——『踊り手』というのがなんのことかは蔵未にはよくわからなかったが、表情と声の調子から、褒め言葉でないのは察せた。

「な。いちおー顔隠してっけど、体形の時点で隠れる気ない」

「言えてる」

 すると輪にいる他の人物も、会話に加わってくる。

「あれ、ボカロ? イタすぎなんだけど」

「は? ミクに罪はねーって! ブタが踊ったりしてっからだよ」

「はいはい。まあアタシも好きな曲あるし」

「ってかどういう感覚してたらあのザマで人前に出れんの?」

「しかも世界中に」

「マジそれ」

「ってかもしかしてけっこーイケてるとか思っちゃってるわけ? アイツ。じゃなきゃ動画とか出せないよね?」

「逆に炎上狙いなんじゃね」

「迷惑ユーチューバー」

「ウケる」

「確かにもはや公害かも」

「アラート出さなきゃ」

 そこでシンジがスマートフォンを置き、椅子に片足をかけて立った。

「ウー、ウー」両手でサイレンを模して、声を張り上げる。「防災警報です。ブタの上陸注意。周辺住民の皆さん、至急避難を——」

「うぜえ」

 沢霧が、一言、吐き捨てた。その一言で、教室中が静まる。

 なんともいえない沈黙だった——取り返しのつかない気まずさ。それは特に教壇近くの輪の中に満ち満ちていて、そこから逃れようとしたのかサイトウが目を泳がせる。定まらぬ視線がやがて自分たちを見ている蔵未を捉え、鋭くり上がる。

「ちょっと。何見てんの?」

 蔵未は、黙って肩をすくめた。八つ当たりに付き合う気はない。

 手元の本に視線を戻そうとしたとき、ふと、沢霧と目が合った。あまりに美しい顔に、一瞬ほうけそうになる。が、気を確かに保ってそのまま彼を見返すと、沢霧は少し意外そうに眉を上げた。そのまま、口を開きかける。

 でもそこで、チャイムが鳴った。だから、このときはそれでおしまい。

 

 

 眠気覚ましのガムと飲み物、それと使い道のないご当地キャラのマスコットを買い、沢霧は車へと戻った。温泉まんじゅうを一箱買った蔵未が遅れて助手席へ着くと、どういうつもりかマスコットを窓辺に取り付けている。特産の梅の実を模したデザインだと書いてあったが、ハチマキを巻いた逆さまのケツに目と口がついたものにしか見えない。

「気に入ったの?」

 うんざりしながら尋ねてみると、沢霧はニヤニヤした顔で、

「いいじゃん。ケツみたいで」

 と言う。発想が同じだったことに、じくたる思いがする。

 沢霧がエンジンをかけると、カーナビが起動した。マップに目的地を打ち込む手を止め、彼は尋ねる。

「今日はとりま伊豆で一泊でいい?」

「いいわけないだろ。名古屋まで行くぞ」

「ええー? 海見ながら温泉入りたくない? せっかくこのへん来たんだからさあ」

 正直、そそられる気持ちはあった。だが、

「お前、休みはいくつ取ったの?」

「んーっと、昨日は早退でー、今日から三日」

「三日で行って、帰るわけだろ……」ざっと所要時間を見積もる。伊豆に寄る暇はまるでない。「だったらもう、今日行っちまおう」

「へ? 行くって、目的地まで?」

「そう。向こうでも海見ながら温泉入れるよ」

「え、あそこって温泉あんの」

「あるよ……泊まれるとこ探しとく。それでも伊豆に寄りたいんなら帰りに寄れよ、宿はお前持ちな」

 呆れを呼気に混ぜたのに、沢霧はうれしそうな顔で「よっしゃ」とつぶやき、入力を始めた。県名まで入れたところで、続きを問う顔を蔵未に向ける。

 ひとまず、市まで答えた。「宿は道中探すから、いったんそれで」

 はーい、とゆるい返事が返る。スマートフォンに目を移しながら、蔵未はまた昔のことをとりとめもなく思い起こした。

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