第3話 再会、でも他人

 スタジオのガラス越しに、彼が笑っていた。

 けれど、その笑顔は私の知っている悠真じゃなかった。

 プロの顔。

 どんな感情もコントロールして、完璧に「天野悠真」という役を演じている。

 「この作品、来期の主題アニメだよ。悠真くん、メインキャストだから緊張してるかもね」

 アシスタントの女性が笑いながら言った。

 私の胸の奥で、何かがざらりと音を立てた。

 あの人が、もう“届かない”ところにいる。

 わかっていたはずなのに、現実に突きつけられると、息が苦しい。

***

 オーディションのあと、悠真の事務所から思いがけない連絡が来た。

 「新人向けボイスサンプルの補助録音スタッフとして来てほしい」と。

 偶然なのか、それとも——。

 断る理由なんてなかった。

 スタジオに入ると、悠真はすでにブースの中にいた。

 ヘッドホンをつけ、台本に目を落とすその姿は、完璧そのものだった。

 「マイクチェックいきます」

 スタッフの合図で彼が口を開く。

 「……君が笑ってくれるなら、それだけで俺は報われる」

 その一言で、心臓が跳ねた。

 彼の声が、直接鼓膜に触れて、心の奥をかき乱す。

 何度聞いても、やっぱり好きだと思ってしまう。

 けれど、録音が終わると、彼は淡々とブースを出ていった。

 「ありがとうございました」

 それだけ。

 私と目が合っても、ただ軽く会釈をするだけ。

 まるで他人。

***

 「天野くん、今日もお疲れさま!」

 マネージャーらしき女性がスタジオに入ってきた。

 落ち着いた声。どこか親しげな口調。

 「次の収録、例のゲームのやつね。ヒロイン役の橘さんも来るから」

 「……ああ、あの人か」

 「ふふ、照れてる?」

 「やめてくださいよ」

 軽い笑い声が響く。

 その響きが、胸の奥を冷たく刺した。

 彼のそんな声、聞いたことがなかった。

 柔らかくて、安心してて、完全に“別の誰か”の前で出す声。

 マネージャーの後ろに、ひとりの女性が入ってきた。

 長い髪をゆるく巻いて、マスク越しでもわかる整った顔立ち。

 「橘紗良です。よろしくお願いします」

 彼女の声は綺麗だった。透き通っていて、強くて。

 ——あの人の隣にいるのに、似合っていた。

 悠真が少し笑って言う。

 「今日もよろしくお願いします、紗良さん」

 「うん、天野くんこそ」

 親しげな空気。

 ほんの一瞬の視線の交わりで、二人の関係が見えてしまう。

 私の中で、何かが静かに崩れた。

***

 その日の帰り道。

 街の灯りが滲んで見えた。

 冷たい風が吹くたびに、胸の奥の痛みが広がっていく。

 「彼女……いたんだ」

 言葉にした途端、涙がこぼれた。

 別に、付き合ってると公言されたわけじゃない。

 でも、あの空気を見れば、誰だってわかる。

 私は、もう“過去の人”なんだ。

 彼にとっては、知らない誰か。

 そして、今は別の人が隣にいる。

 それが現実。

 どれだけ泣いても、変わらない。

***

 アパートに戻ると、テーブルの上に置いてあった台本が目に入った。

 来週の課題。

 「失われた恋を演じる少女の独白」

 笑うしかなかった。

 現実とリンクしすぎてる。

 台本をめくり、セリフを声に出して読んだ。

 > 「あなたがいない世界は、音がしないの」

 声が震えた。

 まるで本当の告白みたいで。

 何度も練習するうちに、涙が止まらなくなった。

 声が、感情に飲み込まれて掠れていく。

 それでも、止めなかった。

 声優としての練習をしているのに、心はただの女の子のままだった。

 好きな人を忘れられない女の子。

 もう届かない恋を、それでも信じたい女の子。

***

 翌週のレッスンで、講師が言った。

 「今日の課題は、感情の“記憶”を使うこと。過去の経験を声に乗せてみて」

 過去の経験——。

 なら、私の出番だ。

 順番が来て、マイクの前に立つ。

 スタジオには、講師のほかに一人、見学者がいた。

 黒いキャップをかぶっていて、顔はよく見えない。

 台本を握る手が汗ばむ。

 息を整えて、セリフを読む。

 > 「どうして、忘れたの? 私の声を、約束を、全部……」

 読み終えた瞬間、空気が変わった。

 講師が小さく頷く。

 「いいね。感情がちゃんと乗ってる」

 後ろの見学者が、ゆっくりと顔を上げた。

 悠真だった。

 息が止まる。

 「……すごいですね」

 彼がぽつりと呟いた。

 その声が優しくて、少しだけ震えていた。

 「あなたの“声”、ちゃんと届きました」

 どういう意味かは、わからなかった。

 でも、その瞬間だけ、あの日の悠真に戻った気がした。

 胸の奥の氷が、少しだけ溶けた。

 彼は軽く会釈をして、すぐにスタジオを出ていった。

 けれど、残響のように彼の声だけが残った。

 ——あなたの声、届きました。

 その言葉が、心の奥に小さく灯りをともした。

 もしかしたら、まだ完全に終わっていないのかもしれない。

 そんな淡い希望を抱いたまま、私は台本を抱きしめた。

 雪が降り出した。

 窓の外、白い粒が静かに街を包む。

 あの日と同じ雪。

 そして今も、私は彼の声を追いかけている。

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