第2話 声を追いかけて
翌朝、目が覚めてすぐに思ったのは——夢じゃなかった、ということだった。
昨日のオーディションで見た彼。
天野悠真。
間違いなく、あの日の悠真だった。
でも、私のことを知らなかった。
カーテンの隙間から射し込む朝の光がやけに冷たく感じる。
スマホの時計は午前七時。
もう少し寝ていたいけれど、レッスンの準備をしなくちゃいけない。
布団から抜け出して、ぼんやりと鏡を見る。
瞳の奥が少し赤い。昨日、泣いたせいだ。
「……泣いても仕方ないよね」
声に出してみる。
そうすると、少しだけ現実がはっきりする気がした。
悠真が私を忘れてる。
その事実は変わらない。
でも——。
忘れられた理由を、知りたい。
***
養成所の講師・佐伯さんは、厳しいけれど温かい人だ。
「天野悠真? ああ、あの子、最近すごいよ。人気出てきてる」
レッスンの休憩中、何気なく名前を出したら、すぐに反応が返ってきた。
「知ってるんですか?」
「うん。あの子、二年前にうちの系列のクラスにいたんだよ。途中で事務所に拾われて、いまは“アーツリンク”所属だ」
アーツリンク。中堅だけど、実力派の声優を多く抱える事務所。
あの悠真が、もうそんな場所にいるなんて。
「……でも、彼、事故に遭ったんじゃなかったですか?」
つい、口が滑った。
佐伯さんが少し驚いた顔をする。
「なんで知ってるの?」
「昔、同じ学校だったんです」
「そう。……なら、そうかもしれないな。確かに、デビュー前に交通事故に遭って、一時期休業してた。半年くらいだったかな」
「記憶が……なくなったとか?」
「そこまでは聞いてないけどね。でも、あの事故の後、性格が少し変わったって噂はある」
胸の奥がざわついた。
やっぱり。
彼が私を覚えていないのは、ただ“忘れた”んじゃない。
——忘れさせられたんだ。
***
夜、部屋の電気を消して、スマホの画面だけが光っている。
「天野悠真」で検索すると、いくつも記事や動画が出てきた。
ナレーション、ゲームのキャラ、インタビュー。
どれも、私の知っている悠真の声。
でも、どこか違う。
以前より少し低くなって、落ち着いている。
表情も柔らかいけど、奥に影がある。
笑っているのに、笑ってないみたいな。
動画のコメント欄を眺めていたら、一件の投稿が目に止まった。
> 「天野さん、事故から復帰してほんとに良かった」
事故——やっぱり、あれが鍵なんだ。
スマホを握る手が汗ばんでいる。
再生ボタンを押す。
悠真がキャラクターのセリフを読む。
低い声、少しだけ掠れた息。
その声を聞くだけで、胸の奥が熱くなる。
——やっぱり、私、まだ彼が好きなんだ。
認めたくなかった。
でも、どれだけ時間が経っても、雪の日の記憶は消えない。
声優になるって決めたのも、彼の声に憧れたから。
私の原点は、彼なんだ。
***
数日後。
偶然のようで、たぶん必然だった。
次のレッスンで、外部講師として来た人がいた。
マイクの前に立つその姿を見た瞬間、息が止まる。
「今日はよろしくお願いします、天野です」
悠真だった。
教室がざわめく。
「うわ、本物だ」「テレビで見た人!」
そんな声があちこちで上がる。
私は何も言えなかった。心臓がうるさすぎて、声が出なかった。
レッスン中、彼はプロの顔をしていた。
淡々と指導し、優しくアドバイスをしてくれる。
けれど、私の方を一度も見なかった。
授業が終わり、皆が帰っていく中、私は勇気を出して声をかけた。
「……天野さん」
彼が振り向く。
「はい?」
近くで見ると、やっぱり少し違う。目の奥に、知らない光がある。
「覚えてませんか? 三年前、高校で——」
「高校?」
首をかしげる彼の仕草が痛かった。
「すみません、人違いじゃないですか?」
「……いえ、私は——」
言いかけたけれど、声が震えて出なかった。
「ごめんなさい。俺、記憶が一部抜けてて……」
その一言に、世界が止まった。
「事故のこと、聞きました」
彼は一瞬だけ眉を動かしたが、すぐに柔らかく笑った。
「そうか。……でも、今は大丈夫です。もう、昔のことは、ほとんど思い出せないけど」
「思い出したくないんですか?」
「……たぶん、そうかもしれない」
少し寂しそうに笑って、彼は帰っていった。
その背中を見ながら、私は思った。
あの日の約束は、彼の中から消えてしまった。
けれど、私の中ではまだ続いている。
***
夜。
雪が降るような寒さだった。
スタジオの帰り道、私はイヤホンで彼の声を聞いていた。
今日のレッスン中に録音した音声。
淡々とした指導の声なのに、不思議と安心する。
「——声は、人を繋ぐんですよ」
授業で彼が言っていた言葉が、何度も頭に響く。
「誰かが誰かを想って出した声は、必ず届く。たとえ時間がかかっても」
その言葉に、少し救われた気がした。
もしそうなら、私の声も——いつか、彼に届くかもしれない。
私は立ち止まり、冬の空を見上げた。
白い息が夜に溶けていく。
遠くで電車の音が響いた。
街は冷たくても、心の奥は少しだけ温かかった。
——また、彼と話せた。
それだけで、今日は生きていける気がした。
***
ベッドの上で台本を開く。
明日の練習用のセリフ。
恋人を想い続ける少女の役。
台詞を読むたびに、悠真の顔が浮かんでくる。
「君の声が、私を救ったんだよ」
読み上げた瞬間、涙がこぼれた。
まるで自分の本音みたいで。
枕元のノートには、あの日の約束の言葉がまだ残っている。
〈また会えたら、今度こそ君を幸せにする〉
震える手で、その下に小さく書き足した。
——私は、あなたを見つけた。
——次は、あなたに見つけてもらう番。
ノートを閉じて、目を閉じる。
遠くで、誰かの声が聞こえた気がした。
柔らかくて、少し掠れていて、でも優しい声。
「葵……」
夢か、幻か。
それでも私は、確かに聞いた。
彼の声が、もう一度私に届いた気がした。
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