アップル・エイジ

りんくま

第1話 林檎の坂道

西暦1966年


春の穏やかな風は潮の香りを纏い、海辺の街を優しく包んでいた。

アスファルトの上を、サンダルがジャリジャリと砂を踏む音が響く。

赤いリンゴをお手玉のようにもて遊びながら歩く少女――短ランにロンタイ、首に赤いハチマキ。風に舞う鮮やかな赤髪が目を引く。

その佇まいは、まさに時代を象徴するスケ番、星乃つばさであった。


その時だった。

足元を何かが横切った。


「うわっ!」


思わずバランスを崩し、手からリンゴが転げ落ちる。痩せた野良犬が駆け抜けていったのだ。


「バッキャロー!!気ぃつけろ!!」


拳を振り上げたが、その手が空っぽなことに気づく。


「――リンゴ!」


見ると、リンゴは坂道をコロコロと転がっていく。


「わあぁ〜!あたいの朝めし!!」


慌てて追いかけるが、なかなか追いつけない。


「くっそ!」


その時、脇の路地からセーラー服姿の少女が現れた。


「大変!」


少女は転がるリンゴに気づき、声を上げて一緒に駆け出す。二人で懸命に走ったが、リンゴはくるりと転がり、停めてあった車の下に潜り込んでしまった。


息を切らしながら、つばさは悪態をつく。


「ちっくしょう!こんなとこに車停めンなよな!」


ガンッ!と車を蹴飛ばす。


それを見た少女は、諭すように声をかけた。


「おやめなさい。八つ当たりはみっともないわ。それに、まだ希望はあるもの」


そう言うと、少女は制服が汚れるのも構わず、その場に膝をつき、車の下に手を伸ばした。


「もう少し……うーん……もう少しで……」


その姿に、つばさは思わず目を奪われる。

四つん這いの体勢で腰を突き上げた少女のスカートが風で捲れ、白地に小花柄の下着が露わになっていたのだ。可愛らしいソレは、少女の動きに合わせて、ゆらゆらと揺れている。


「……ちょっ……ちょっと……ね……パ……パンツ……」


なぜか心臓が早鐘を打つ。


「パンツ……見えてる……」


そう言いかけた瞬間、少女の元気な声が弾けた。


「取れた!」


スポンッと頭と腕を引き抜き、ぱっと立ち上がると、にっこりと微笑みながら、つばさにリンゴを差し出した。


二つに結んだおさげ髪。大きな瞳。小柄で華奢な少女。


「はい、どうぞ」


少女は一歩近づき、つばさの手を取った。


「!!」


咄嗟に振り払う。リンゴはポトリと落ちた。


「あっ……」


「い、いらねぇよ!そんなもん!砂付いたし……あんたも、こんな会ったばかりのヤツのために……バッカじゃないの?!」


少女は黙ったまま、落ちたリンゴを拾い上げる。


「…………ふっ、ふん!!」


つばさは少女の方を見ず、坂道を駆け下りていった。



「はぁ…はぁ…はぁ……」


つばさは、近くの公園に駆け込み、水道の蛇口をひねった。冷たい水をごくごくと飲み、口から滴る水滴を手の甲で乱暴に拭う。


「なんなの……アイツ……おせっかいの花柄パンツ……」


脳裏に、白い太ももと小花柄の下着が蘇る。

胸の奥がドキドキと煩く鳴り、つばさは思わず頭を振った。


「なんで、ドキドキしなきゃいけないのよ!」


その時――。

すぐ横に気配を感じ、見上げると、先程の少女が立っていた。


「うわっ!」


つばさの身体がビクンと跳ねる。少女は無言のまま、隣に立ち、蛇口をひねった。

リンゴを丁寧に洗い、自分のハンカチで水気を拭うと、再びつばさの前に差し出す。


「綺麗に洗ったわ。これで食べられるでしょう?」


つばさは呆気にとられた。わざわざ追いかけてまで、一体何を考えているのか。

手を出さずにいると、少女は小さく肩をすくめる。


「……そう、いらないなら、私がいただくわ」


大きく口を開けてリンゴを齧る。シャク、シャク、と音が響く。果汁で艶めく唇に、つばさは目を奪われていた。


「食べ物を粗末にするのは良くないわ」


少女は一瞥をくれ、ハンカチで口を拭いながら言葉を続ける。

「私たちの親世代は、戦後の混乱を、僅かな食料で生き抜いたのよ。教わってこなかったの?」


その目はピシリと釣り上がり、口調も厳しくなる。

そしてもう一度、静かにリンゴを差し出した。


「さ、召し上がって。朝ごはんなのでしょう?」


観念したようにリンゴを受け取ったつばさは、ため息をひとつついた。


「変な女ね……あんた……」


おさげ髪を風に揺らしながら、少女は微笑む。


「千鶴よ。南雲千鶴」


朝日に目を細めながら、つばさもニッと笑った。


「あたいは星乃つばさだ」



西暦1986年


スナックつばさ二階の居住スペース。

食卓を囲んでいるのは、つばさと千鶴、そして秀と愛里だった。


「……と、まぁ出会いはこんな感じかな〜」


つばさが紅茶をひと口すする。愛里は目を輝かせ、つばさと母・千鶴を交互に見ている。


千鶴は、持っていたフォークをガチンッとテーブルに置き、つばさをキッと睨んだ。


「パンツの柄まで覚えてることないでしょう?!子どもたちも居るのよ!」


「子どもたち……」

秀は、自分にはまだ馴染まない言葉に思わず声をもらす。


「あらあら、ごめんねぇ〜。今では立派なお母さんでした」


「お母さん、面白い〜〜!」


「愛里!!」

千鶴は真っ赤になり、布巾でテーブルを拭いて誤魔化した。


その横でデザートのリンゴを食べていた秀は、若い千鶴が四つん這いでパンツ丸出しになっている姿を想像しようとしたが、どうにも思考が追いつかない。


(なんにしても……親子して可愛い。うん)


愛里は声を弾ませた。


「ねぇ!もっと聞きたい!お母さんたちの話♪」

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