第13話

もう少しじっくりトナカイと話すつもりで来たのだが、ものの五分で会話が終わってしまい、時間を持て余してしまった。

帰りのバスの中、川島は窓の外をぼんやりと眺めながら、これから何をしようかと考えていた。

だが、考えれば考えるほど、自然と不二子の姿が浮かんできた。

トナカイにあれほど言われたにもかかわらず、やはり彼女のことが気になって仕方がない。

胸の奥が、ゆっくりとざわめき始める。

川島は、自分の心がこれまでと違う動きをしていることに戸惑っていた。

世の中には星の数ほど女性がいる。

これまでも町で女性を見かけることは何度もあった。

確かに、女性とまともに話をしたことはほとんどない。それなのに——なぜ、あの人のことだけがこんなにも気になるのだろう?

考えれば考えるほど、自分でもその理由が分からなかった。

ただ、胸の奥に残るざわめきが、時間とともに少しずつ大きくなっていく。

川島は、いつものバス停を通り過ぎ、一つ先の商店街入口の停留所で下車した。

そして、まるで何かに導かれるように、喫茶店「サフラン」へと歩き出した。

歩くことに集中して、トナカイへの罪悪感から意識をそらそうとした。

だが、どんなに視線を前に向けても、頭の中にはあいつの顔が浮かんでくる。

もし、自分がどこかの女性と親しくなり、やがて結婚でもするようなことになったら——あいつは一体どう思うだろうか。

「サンタクロースの掟」「トナカイの掟」事あるごとに、俺はあいつにそう言い聞かせてきた。

そして、それこそが自分たちの生きる意味であり、最優先の使命だと信じて疑わなかった。実際、サンタクロースとしての自分を誇りに思っていた。

使命のために生き、子供たちに夢を届けることだけが、自分の存在理由だと信じていた。——それだけで十分幸せだったはずなのに。

どうして、自分はこんなにも変わってしまったのだろう。

川島は自分の使命とは関係ない場所に今向かおうとしているのだ。

トナカイに対するさまざまな思いが渦巻く中、気づけば「サフラン」の看板が見えるところまで来ていた。

川島は歩みを止め、しばらく店の方を見つめた。

秋の午後の光が斜めに差し込み、窓ガラスに街の影を映している。

そのとき、視線の先に見覚えのある姿があった。

銭形だった。

彼は店の窓の横の壁にぴたりと背をつけ、身をかがめながら、窓の端から店の中をのぞいている。

一瞬、何をしているのか理解できずに立ち尽くした。

だが次の瞬間、川島は自分の胸の奥に、不思議な安堵のようなものが広がっていくのを感じた。

昨日出会ったばかりのはずなのに、この奇妙な男に、川島はなぜか少しだけ心を許してしまっていたのだ。

川島はすぐに歩き出し、コソコソと店内をのぞき込んでいる銭形のそばに近づいた。

「銭形さん、何してるんですか?」

突然の声に、銭形はまるで雷に打たれたように肩を跳ね上げた。

一瞬、全身が硬直し、振り返った顔には明らかな動揺が浮かんでいる。

「んん…、いや、俺は…その……」

口ごもるばかりで、何を言っているのか分からない。

だが次の瞬間、彼の眼がぎらりと光った。

「お、お前……次元じゃないか!」

叫ぶと同時に、銭形は突進するように川島を抱きしめた。

生まれて初めて受けた抱擁が同じ年頃の男性からだったことは少し残念だったが、川島はそれほど不快には感じなかった。それに、初めての抱擁のはずだったが、なぜか懐かしい感覚が脳の奥の方に漂っていた。

「ど、どうしたんですか、銭形さん?」

川島が尋ねると、銭形は涙をこらえるように目を細め、震える声で言った。

「次元……お前も、この町に来てたのか……」

「ええ、まあそうですよ。というか、昨日銭形さんは、僕の家も知っていると言っていたじゃないですか」

「昨日……?」

銭形の眉がゆっくりと動いた。

「何を言っているんだ。昨日はお前に会ってないだろ。俺は一日中、インターポール本部の所在を調べていたんだ」

「はあ? ちょっと何ですかそれ?」

だが、銭形はその抗議などまるで聞こえていないかのように、自分のペースで言葉を続けた。

「次元。もちろん、お前はルパンが死んだことは知っているよな?」

「まあ、知っているというか……それも昨日、あなたから聞かされましたけど」

「だから、昨日はお前に会っていないと言っておるだろうが……」

「いや、銭形さんこそ、何ふざけているんですか? 昨日この喫茶店で、あんなに話したじゃないですか?!」

「んあ……? 次元、お前、何を訳の分からないことを言っているんだ?」

銭形は目を細め、まるで酔っ払いを疑うような顔つきで川島を見た。

「お前と最後に会ったのは、ずいぶんと前のことじゃないか。あれは確か……お前らがフランスのルーヴル美術館に盗みに入った時だったかな……」

銭形はとぼけた話を続けている。

「……まあ、もともとおかしな人だからしょうがないか」

川島は自分に言い聞かせるように、心の中でつぶやいた。

「ああ、そうですか。それより銭形さん、こっそり喫茶店の中を覗いて、何やってるんですか?」

「おい、次元。あのマスクをしてる女……あれ、不二子じゃないか?」

銭形は窓の方に顔を寄せ、身をかがめる。

「ここからじゃ顔ははっきり見えないが、あの雰囲気……どう見ても不二子だと思うんだ」

川島もつられて窓の中を覗いた。その先には、店の中で食器を片付けている不二子の姿があった。

「銭形さん、あの人は不二子さんですよ。というか、昨日あなたが“不二子だ”って言ってたじゃないですか」

「俺が言ってた?」

「ええ、そうですよ」

「何を言ってるんだ、お前。俺はそんなこと言っていない。だいたい昨日は、お前に会ってないんだ」

「とりあえず中に入りましょう」

川島はこんな話を続けても埒が明かないと思い、銭形を促して、二人で「サフラン」に入った。

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