第12話
山田隆二――それが俺の名前。
このシンデレラって女には「山田王子」と呼ばせている。人に聞かれたらちょっと恥ずかしいが、まあいい。この女がシンデレラだって言うんなら、俺は王子様だ。
シンデレラに出会った日のことは、今でもよく覚えている。
その前日、パチンコで少しばかり勝ち、気が大きくなって近くのスナックで派手に飲み、朝まで騒いだ。おかげで、その臨時収入もきれいさっぱり消えたが、久々に楽しい一日だった。
「これだけ楽しんだんだ。当分はいいことなんか起きねぇだろうな」
そう思いながら、軽くなった財布をポケットの上からさすり、スナックを出た。
外はもう太陽が高く昇り、目に刺さるような白い光が街を照らしていた。
俺は建物の影に逃げ込むように歩き出す。
するとすぐに、前から一人の女が歩いてくるのが見えた。
陰になっていて顔ははっきり見えなかったが、線が細く、どこか儚げなシルエットだった。
その女は歩きながら、顔をキョロキョロとあちこちに向けていた。まるで、通りのすべてのものに睨みをきかせているようだった。
いや――違う。何かを探しているのかもしれない。
そう思って、酔いの勢いのまま声をかけてみたのだった。
思った通り、近くで見るとその女は透き通るように綺麗で、やっぱり誰かを探しているようだった。
見れば見るほど、完全に俺の好みのタイプ。なんとか会話をつなぎ、喫茶店に誘うことに成功した。
最初から少し変わった女だとは感じていた。けれど、話していくうちにはっきり分かった――この女は頭がいかれている。もしかすると、やばい薬でもやってるんじゃないか。そう思ったほどだ。
口から出てくる言葉はどれも意味不明だった。
「自分はシンデレラで、ついこの間までお城で暮らしていた」とか、「クーデターっていうものが起きて、愛する王子を殺され、自分は命からがら逃げてきた」とか。
けれど、女の真剣な話し方からすると、こいつは俺をからかっているわけでも、酔っているわけでもない。――本気で信じているんだ。自分が“シンデレラ”だってことを。
俺にとっては、頭のいかれた美人なんて大歓迎だった。
普段から女にモテる方じゃない。
だから、少しくらい壊れてようが、こんな美人と付き合えるチャンスは逃したくなかった。そうして俺は、必死にこの女に話を合わせた。――そして今、こうして一緒に暮らしている。
シンデレラは、頭は少しおかしいが、性格は真面目で、家事も完璧にこなせるいい女だった。しかも、俺が王子様だという嘘を心の底から信じ切っていて、何かにつけて俺を褒めちぎってくれる。
何の因果か知らないが、あり得ない奇跡が突然降ってきたものだ。
ただ、実際に一緒に暮らし始めると、このシンデレラにストレスを感じる部分も出てきた。
俺は35にもなって定職に就かず、ギャンブルで借金まみれ。世間的に見れば、どうしようもない人間だ。
それが今では、毎日“品行方正な王子様”のふりをしなければならない。
外に出るときも、シンデレラの妄想に合わせて、「秘密の会合」だの、「王国を復興するための資金集め」だの、くだらない理由を並べて出かける。実際のところは、昔からの仲間と昼間から飲んでるか、パチンコか、たまに知り合いの手伝いをして小銭を稼ぐ程度だ。
最初のうちは、そんなやり取りさえも面白かった。
だが一週間も続けるうちに、だんだん馬鹿らしくなってきて、気づけばイライラしてしまうことも多くなった。2、3日前の夜には、酔った勢いで感情を抑えきれず、ついシンデレラに手を上げてしまった。
さすがに、これはまずかったと思っている。
こいつのアルバイト代は今や俺の重要な収入源だ。それで家賃もきちんと払えるから、うるさい大家にとやかく言われなくても済むだろう。
だから、こいつは俺にとって“幸運のお姫様”だ。
――大切にしなきゃな。
そう自分に言い聞かせながら、背中にシンデレラの重みを感じつつ、俺はペダルを踏み込んだ。
その男は自転車でアパートに戻ってきた。二人乗りで、後ろには女を乗せていた。
女が自転車を降りると、男はアパート横の駐輪場に乱暴に自転車を止め、そのまま女の手を取って、2階の部屋へと入っていった。
この電柱の陰からは、どの部屋に入ったのかは確認できない。
「……クソ、カエル男の野郎」
低くつぶやくと、その人影は静かに闇に溶けていった。
川島は翌朝、いつも通り6時半の目覚ましに起こされた。
昨夜は8時前に床についたので、すっかり疲れも取れている。
いつものように、起きてすぐコップ一杯の牛乳を飲み、電気ケトルでお湯を沸かす。
ベッドを軽く整え、着替えを済ませ、カーテンを開けた。
差し込む朝の光が眩しい。
インスタントコーヒーを淹れると、漂う香りが頭をすっきりと目覚めさせた。
――いつもと変わらない朝。
だが、頭が起動しはじめると、昨日の出来事が改めて蘇ってくる。
あれは明らかに、日常から逸脱した一日だった。そして、あの出会いが自分の中の何かを少し動かしたような気がしていた。
トーストを焼きながら、心の奥にモヤモヤとした落ち着かない感情が湧き上がる。昨日のことを考えるたびに、胸の奥がざわついていた。
朝食のトーストとヨーグルトを平らげると、誰かに話を聞いてほしいという衝動が強くなる。
『誰か』――と言っても、この世界で本音を話せる相手は、一人……いや、一頭しかいない。
川島は苦笑しながらコーヒーを飲み干し、動物園へ行く支度を始めた。
相棒のトナカイに会うために。
川島は、開園時間の9時ちょうどに動物園に着くように部屋を出た。
近くのバス停から、いつもの町営バスに乗り込み、車窓から流れる町の朝景色をぼんやりと眺める。
だが、何かがいつもと違っていた。
信号の色でも、建物の形でもない。言葉にできない小さな“ずれ”のようなものが、風景のどこかに潜んでいる気がした。
まるで、間違い探しの絵の中に入り込んだような感覚だった。だが、その違和感の正体は、結局つかめなかった。
計算どおり、開園時間ほぼぴったりに動物園前のバス停に到着する。
いつも通りの金額を支払い、バスを降りた。
平日の午前9時。
ゲート前には、川島のほかに数組の客しかいない。そこは、いつもの光景だった。
受付でチケットを買い、慣れた足取りでゲートをくぐる。
園内には、朝の静けさが漂っていた。掃除を終えたばかりの通路にはまだ水の匂いが残り、
低く垂れた雲の合間からは、やわらかな光が芝生を照らしている。
遠くの檻から、猿の鳴き声がかすかに響いてきた。
川島はその音を背に、迷うことなくトナカイの牧場へと向かった。
「よう」と、昔からの相棒に声を掛ける。
「おはようございます、サンタさん」
トナカイは、ムシャムシャと草を食みながら答えた。
「調子はどうだ?」
「まあ、普通ですよ」
相変わらずつまらない答えだった。
こんな奴に、自分の繊細な気持ちを聞いてもらうのもどうかと思う。
それでも、今この世界で腹を割って話せる相手といえば、このトナカイくらいしかいなかった。
「なあ、トナカイってさ。恋人とか、奥さんとかいるの?」
「いないですよ。いるわけないじゃないですか。私たちは、自分の使命に集中しなければならないですからね」
「まあ、そうなんだけど……」
川島は、柵の向こうのトナカイをじっと見つめた。
「何というか、僕らは“普通の人々”の感覚を、あまり理解してないんじゃないかなあ、と思ってね」
「はあ……何が言いたいんですか?」
トナカイが、草を噛むのをやめて不思議そうな顔を向けた。
「だからその……そんなんじゃ、人々に夢や希望を与えられないんじゃないかって思うんだよ。なんというか、もっといろんな人と交流して友達を作ったり、場合によっては恋人とか奥さんがいてもいいと思うんだけど……」
「そんなの、サンタクロースの掟に反しますよ」
「その掟だけど、もし破ったらどうなるのかな?」
「破れないのですよ」
「破れない、というのは……どういうことなんだろう?」
トナカイは、その問いには答えず、ただ川島の方をぼんやりと見ていた。
風が牧場の草を揺らし、柵の影がゆっくりと動いた。
「トナカイはさ、それでいいわけ? その……他のトナカイたちと深く交流を持ちたいとか、思わないの?」
「サンタさん……あなたは、自分の使命に集中しなければ駄目ですよ。余計な考えなど、捨ててください」
何だか今日のトナカイは手厳しい。
いつもなら適当に話を合わせてくれるし、もっと楽な方になびくんだが……。
「そ、そうだな……」
「そうですよ。クリスマスも近づいてきますから、きちんと準備を進めてください」
「ああ、わかっているよ。ただ……なんとなく、ちょっと思ったことを聞いてみただけだよ」
川島は言い訳がましく付け加えた。
ずっと一緒に過ごしてきたトナカイなら、同じ思いや考えを共有していると、勝手に決めつけていた。だが、今日は何だか距離を感じる。
せっかくモヤモヤした気持ちを吐き出したくて来たのに、思いっきりはぐらかされてしまった気がした。
「それじゃあ、今日は他に用事もあるから、これで帰ろうかな……。またな、トナカイ」
「ええ、それじゃあ、サンタさん。お気をつけて」
トナカイは、草を噛みながら淡々と答えた。
その音だけが、広い牧場の静けさの中にいつまでも残った。
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