『悪役令嬢ですが、推しカプが尊すぎて戦場までついていきました』

Naga

第1話:社畜OL、転生す――「これ、推しカプじゃん!?」

 深夜2時47分。オフィスビルの15階。


 蛍光灯の冷たい白光が、がらんとしたフロアを照らしている。窓の外には東京の夜景が広がっているが、その景色を見る余裕は、私にはない。


 カタカタカタカタ。


 キーボードを叩く音だけが、静寂の中に響く。


 私、浅倉七奈美は、いつものようにデスクでパソコン画面を凝視していた。


 目が乾く。瞬きをすると、針で刺されたように痛い。肩が石のように凝り固まり、腰も悲鳴を上げている。でも、まだ帰るわけにはいかない。


「あと……、これを……」


 マウスをクリックして、データを入力する。エクセルのセルが、数字で埋まっていく。


 明日――いや、もう今日だ――の朝9時。部長への報告会議。


 この資料が完成していなければ。


 コーヒーカップに手を伸ばす。空っぽだ。いつ飲んだか、覚えていない。デスクの上を見ると、空のカップが三つも重ねられている。


 そんなに飲んだっけ? 記憶が、曖昧だ。


 32歳。独身。天涯孤独。両親は10年前に事故で亡くなり、兄弟はいない。親戚も遠い。友達は――最後に連絡したのは、いつだったか。もう覚えていない。


 朝7時に家を出る。夜11時に帰る。休日も仕事。それが当たり前の生活。


 でも――唯一の癒しがあった。


 鞄に手を伸ばし、ファスナーを開ける。そこには数冊の同人誌。


 表紙には、二人の男性騎士が背中合わせに立っている絵。一人は銀髪で青い瞳、もう一人は金髪で緑の瞳。ブロマンス系。男同士の友情や信頼を描いた作品。


 ただ、二人が互いを信頼し、背中を預け合う。そんな関係性が、たまらなく好きだった。


「はぁ……。今日も、読むの無理だったなぁ……」


 同人誌を手に取ろうとして――ズキン。胸の奥で、何かが軋んだ。


「……っ!」


 息が詰まる。心臓が変なリズムで跳ねる。手に持った同人誌が、するりと滑り落ちる。


 また、ズキン。今度は、もっと強い。まるで、胸を内側から握りつぶされるような。


「……や、ば……」


 椅子から立ち上がろうとする。でも、足に力が入らない。そのまま、床に崩れ落ちた。


 ドサッ。


 冷たい。床が、冷たい。


 スマホに手を伸ばす。でも、デスクの上。届かない。指が空を掻く。


「……誰か……」


 声が出ない。このフロアには、私一人。誰もいない。視界が霞む。蛍光灯の光が滲む。目の前に、同人誌が落ちている。表紙には、背中合わせに立つ、二人の男性。


「も、もう一度……、推しを……」


 目を凝らす。でも、もう、よく見えない。


「……尊い……」


 それが、私の最後の言葉だった。意識が遠のいていく。音が消えていく。蛍光灯の光も消えていく。


 暗闇が、私を包み込む。


 ああ。これで終わりか。誰にも看取られず。誰にも気づかれず。ただ、推しカプの絵を見ながら――死ぬのか。


 それも、悪くない。


 そう思った。



 次に気づいたとき。私は、生きていた。いや――生まれ変わっていた。




◇◇◇◇




「エリザベート様、お目覚めですか?」


 優しい声が遠くから聞こえる。目を開けようとする。瞼が重い。


 やっと目が開くと――見知らぬ天井。白い石造りで、金色の装飾が施されている。それに、天蓋付きの豪華なベッド。シルクのシーツ。刺繍が施されたクッション。


「……ここは……?」


 体を起こす。あれほど凝っていた肩が、痛くない。腰も、軽い。


 不思議と、体調が良い。


 辺りを見回す。広い部屋。大理石の床。壁には絵画がかかっている。窓にはレースのカーテン。


 メイド服を着た女性が心配そうに覗き込んでいる。茶色の髪を後ろで一つに束ねている。20代くらいか。


「ご気分は? 昨夜、高熱を出されて……」


「……え?」


 高熱? 私が? でも、体調は悪くない。むしろ、すこぶる良い。


「あの……、ここは……?」


「ここは、ローゼンベルク公爵邸ですが……」


「ローゼンベルク……?」


 聞いたことがない名前。頭の中に、別の記憶が流れ込んでくる。


 エリザベート・フォン・ローゼンベルク。ローゼンハイム王国の公爵令嬢。16歳。二つの記憶が混ざり合う。前世と今世。浅倉七奈美と、エリザベート。


「……転生……?」


 口に出して言ってみる。メイドが首を傾げる。


「エリザベート様?」


「あ、いえ……、何でも……」


 とりあえず笑顔を作る。メイドが安心したような表情を浮かべる。


「では、お着替えをお持ちしますね」


「あ、はい……」


 メイドが部屋を出ていき、一人になる。


「……まじか……」


 呆然とする。転生。異世界。魔法が存在し、国王と貴族が支配する世界。


 そして、私は――


 記憶の中に、断片的な「物語」がある。


 平民出身だが、稀少な「聖女の魔力」を持つヒロイン、リリアーナ・ホワイト。その力を見込まれ、王宮に召し抱えられた。


 騎士団長、クラウディウス・アウグスト・ハルトマン。王の命により、リリアーナと婚約することになった。


 身分差を超えた恋――を、邪魔する悪役令嬢、エリザベート。


 最終的に、エリザベートは破滅する――


 不安が胸をよぎる。でも、その時――窓の外から、声が聞こえた。


「団長、お疲れ様です!」


「お前もな、レオン」


 え?


 窓に駆け寄る。カーテンを開ける。


 窓の外には中庭が広がっている。緑の芝生。中央には大理石の噴水。水しぶきが日の光に輝いている。


 そこには――二人の男性が、剣の訓練をしている姿があった。


 一人は長身で銀髪。後ろで一つに束ねた髪が、風になびく。鋭い青い瞳。近衛騎士の制服。白と金の刺繍。筋肉質だが、引き締まった体つき。


 もう一人は、やや小柄で金髪。短く整えた髪。優しい緑の瞳。同じく近衛騎士の制服。しなやかで、しかし鍛え上げられた体つき。


「もう一本、行きますか?」


 金髪の青年が剣を構える。その構えが美しい。


「ああ」


 銀髪の青年も構える。二人の間に、緊張感が走る。


 カン。


 剣と剣がぶつかり合った。火花が散る。


 朝日が二人を照らし、汗が光を反射してきらめく。


 銀髪の青年が剣を振り下ろし、金髪の青年がそれを受け止める。


 カンカンカン。


 リズミカルな音。二人の動きが速い。でも、無駄がない。一つ一つの動きが計算されている。まるで踊っているよう。


 そして――息が合っている。完璧な連携。銀髪の青年が攻め、金髪の青年が守る。そして反撃。銀髪の青年がそれを受け止める。


 互いを見る眼差し。


 私は――その瞬間、悟った。


 これ、は――


 銀髪で青い瞳の騎士団長、クラウディウス様。


 金髪で緑の瞳の副団長、レオンハルト様。


 ……まって。


 この二人……。前世で読んでいた同人誌の表紙と……


 完全に一致している。


 髪の色、瞳の色、体格、立ち姿、雰囲気。すべてが。


 まさか……、運命……?


 心臓が高鳴る。ドキドキドキドキ。体が熱くなる。


 はぁぁ……、尊い……!


 前世で、あれほど求めていたもの。ブロマンス。男性同士の美しい信頼関係。それが目の前にある。リアルで。動いている、生きている。


「これ……! 私の読んでた同人誌の……、推しカプそのものじゃん!!!」


 窓に額を押し付ける。ガラスが冷たい。でも、体は熱い。


「やばい、やばいやばいやばいやばい……!」


 二人が剣を収める。そして笑顔で言葉を交わす。クラウディウス様が、レオンハルト様の肩をポンポンと叩く。


 そこには信頼がある。レオンハルト様が微笑む。


「尊すぎる……!!!」


 涙が出そうになる。その時、ドアがノックされた。


「エリザベート様、お着替えをお持ちしました」


「あ、はい!」


 慌てて窓から離れる。でも、心は決まっていた。


 破滅フラグ? 知らない。ヒロイン? どうでもいい。


 私の目的は、ただ一つ。この推しカプを見守ること。それだけだ!





 その日の午後。


 私は自分の部屋で、この世界の「魔力」というものを試していた。メイドから聞いたところによると、公爵令嬢である私は王国屈指の魔力を持っているらしい。


 試しに、手を前に出して集中してみる。目を閉じる。体の中に、何か温かいものが流れているのを感じる。それを、手に集める。じわり、と熱を持つ感覚。


「……えい」


 目を開ける。手のひらに、小さな光の球が現れた。ピンポン玉くらいの大きさ。青白い光。ふわふわと浮いている。


「おお……」


 すぐに消える。でも、確かに出た。これが魔法。前世では、何の力もないただの社畜OLだったのに。この世界の私には、力がある。


「もしもの時は……、これで……」





 その夜。


 私はベッドに横になりながら、今日のことを思い返していた。転生。異世界。魔法。そして――推しカプ。


 でも、一つ、気になることがあった。


 物語の記憶……、なんか微妙に違う気がする……。


 記憶の中の「物語」。悪役令嬢エリザベートが、ヒロインをいじめる。騎士団長クラウディウスは、ヒロインを守る。副団長レオンハルトも、それを手伝う。


 そして最後、エリザベートは破滅する。


 でも――


 クラウディウス様とレオンハルト様の関係性……。記憶の中では、そこまで深くなかったような……。


 記憶の中では、二人はただの「上司と部下」だった。でも、今日見た二人は――もっと深い絆で結ばれているように見えた。


 何かが……、違う……。


 不安が、胸をよぎる。


 この世界……、本当に、私の知る「物語」通りなのかな……?


 でも、考えても答えは出ない。


 まあ、いいか。とりあえず、今は推しカプを見守ろう。


 そう決めて、目を閉じた。




 ――この時の私は、まだ知らなかった。


 二人をただ「見守る」だけでは済まなくなることを――




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