第3話 天使との決闘

 ルカとユディト、二人を連れて帰還すると、ラザロともう一人、任務を完遂したであろう仲間が帰ってきていた。

「おう、おかえり! なんだアベル、いつにも増して落ち込んだ顔をしているじゃねぇか……って、誰だその美女!」

 もう一人の仲間の名はトーマス。能力は炎を操る者で、いつでも戦えるようにほとんど常にタバコを吸っている、軟派な男。アベルはこの男がユディトの次に苦手だった。

「おや、彼も?」

 天使狩りか? というニュアンスを含んだ言葉にユディトが「そうだよー」と先んじて答える。

 トーマスは椅子から立ち上がるとルカのもとに素早く歩み寄り、恭しくお辞儀をして見せる。そうしてその口から語られる言葉は、アベルにしてみれば食傷してしまうほど嘘っぽくて退屈な言葉だ。

「初めまして、麗しい乙女。オレの名はトーマス。仕事の都合でコードネームしか名乗れない不実をどうかお許しいただきたい。そして、失礼でなければ貴女の名を伺いたい」

「私は審堂ルカ。私も本名ではないから、お気になさらず」

 アベルを無視して進む二人のやりとりは軽快なもので、アベルはツッコミを入れるのも億劫だった。握手なんてしながら微笑み合う二人を他人事のように見つめる。しかし最も大事な事実を隠したまま二人のやりとりを放置するのはもっと億劫で危険だ。ルカが何か余計なことを言い出す前にとアベルは二人の間に割って入る。

「トーマス。お前は少し人を見る目を養え」

「なんだ急に。辛辣だな」

「この女、天使だ」

 アベルの言葉にトーマスは目を見開き、すぐさま後ずさって咥えていたタバコを指の間に挟む。タバコの先端が今にもぼうと燃え盛りそうなほど赤らむと、トーマスは「じゃあ殺さなきゃいけねぇな」と殺意をあらわにした。先ほどまで和やかに話をしていた相手が急に殺意を見せたのにも関わらずルカは変わらずニコニコと笑った顔のままトーマスを見ている。後ろに手を組んだりなんかして、余裕そうな表情だ。

「話は最後まで聞け」

 アベルが告げると、トーマスは片目の視線だけをアベルに向けて「どういうことだ?」と問う。アベルはルカとトーマスの間に、ルカを背にするように立った。庇うようなそのしぐさにはトーマスは当然として、その場の全員が驚いた様子を見せた。

 アベルは苦虫を噛み潰したような、悔しさを隠さない顔で話を続ける。

「この天使は飼うことになっている。忌々しいことに」

「なんだと……?」

 トーマスはその切れ長の目をより鋭くするとアベルを睨みつけた。

「アンタが一番天使を殺すのに特化していただろ。なんだってそんな庇いだてをしている?」

 怒りを含んだ声音は震えている。それも当然だ。天使対策課第五支部のトーマスと言えば、生粋の天使嫌いとして地元でも名を馳せている。その理由は単純明快。しょうもない下級の天使に、しょうもない理由で家族が皆殺しにされたから。そのしょうもない理由というのは、小さくても構わないからスコアが欲しい、というもの。

 天使は人間のことを、“かつて神が愛した生物”だなんて思っちゃいない。ただの数字にしか見えていない。

それがトーマスの理念であり、アベルとも共通している考え方だった。

だが、そのアベルが天使を殺すことを拒否した。

「……話せば長くなるが、こいつは俺のことを気に入ったらしい。かなり上級の天使で、その能力は極めて有用だ。だから、飼う」

「ペットみたいに言ってくれるよね。ま、構わないけれど」

「お前ちょっと黙ってろ」

 口を挟んだルカを諫め、アベルはトーマスの方に向き直る。二人のコミカルなやり取りが発生しても緊張感がこの場を支配していて、トーマスは警戒を解くような様子はない。

 ルカの前に立つアベルへとその視線は向けられる。低く唸るような声が、二人に向けて発せられる。

「殺せなかったのか?」

「結果的には……そうなるな」

アベルが天使を殺せなかった、という事実にトーマスは怒りに唇を噛んで応じる。彼の中でアベルの評価は相当に高いようで、この事実は受け入れがたい要素だったらしい。無論、アベルもルカを殺せなかったことをかなり悔しく思っているが……それを今、目の前のトーマスに伝える術はない。

「悪いとは思っている」

「思ってくれなきゃ困るぜ」

 トーマスはわざとらしくため息をつく。そうして沈黙が続いていると、アベルの背後からトーマスをちらちらと覗いていたルカが重々しげに口を開く。

「……なるほど、彼も相当スコアが高いな。アベルくんと引けを取らない」

「…………」

 トーマスの持つタバコの先端が燃え上がる。散った火花は空中で浮遊し、弾丸の様相を呈しながらトーマスの周囲を舞う。あとはこの火の粉の弾丸を撃つだけ。それがトーマスの戦い方だ。

「待ちなさい、トーマス。戦うなら外にして」

 トーマスの様子を伺うだけだったラザロが口を挟んだ。すると即座にルカが「私は別に戦いたくないんだけど……」と言うが、アベルに後ろ蹴りをされて「いたたっ」。全く思ってもなさそうな棒読みな言葉を発して、それから黙る。

「……オレは認めねーぜ。天使を内側に入れるなんて」

「えー、それは困るなぁ。そしたら私はアベルくんに自分の有用性を証明できないじゃないか」

「そらみろ。この状況を見て、自分の都合の話しかしない。バケモンなんだよ、天使って生き物は」

 トーマスはアベルにそこを退くように、顎で指す。しかしアベルは片手で頭を抱えながら、重たく口を開く。

「今この場にいる中で最強なのは間違いなくルカだ。……悔しいが、本ッ当に認めたくないが、ルカより強い人間はここには存在しない。敵対的な行動を取られてない今は、ここに置くしかないんだよ」

「いつ裏切るかもわからないのに? それこそ愚かだ。オレとアベルが一緒になって戦えば、間違いないだろ」

 トーマスのその言葉に、今度はユディトが割り込む。

「ちょっと待って! ルカちゃんは確かに脅威かもしれないけど、ガベルと天秤を持つ上級天使だ! 俺達に友好的なうちは、うまく運命を操作してくれるはずだよ」

 服屋で聞いた話──明日の運命を、より軽いものへと変えることができるという話を、ユディトは思い出していた。天使対策課の第五支部の主な戦闘要員はアベルとトーマス、そして今は療養中のもう一人。ユディトは情報収集役であり戦闘面はいくつも戦闘員より遅れている。最も重要なのは、ユディトとアベルが予言されたような大怪我を負うような事態があっては困るということだった。

「ユディト……アンタは昔から天使に甘かったな。ここまで成り下がったのか?」

「落ち着きなよ、トーマス。客観的に事実を見なきゃ。今ここにいるきみ以外の全員は、ルカちゃんがここに滞在することをそれぞれの理由で許容している」

「だったら尚更許せねぇなァ! オレの大事な仲間をたぶらかしやがって!」

「あちゃ、逆効果……」

 ユディトは額を抑えて俯いた。自分の交渉術は意味がない、と理解したのか黙ってしまう。誰もが何を言ったものかと考えていると、その沈黙を再び破ったのはルカだった。

「よし分かった。外に出よう」

 その言葉が意味するものは簡単だ。“戦って勝つ”。アベルは弾かれるようにその言葉に噛みつく。

「オイ! 仲間は傷つけないって話だろ!」

「分かっているよ。だから、理不尽を教えてあげるってこと」

「……どういう意味かは知らねぇがやるってんならやってやろうじゃねぇか!」

 ルカが応じる姿勢を見せたせいか、トーマスの怒りはますますヒートアップしたようでオフィスの裏口のドアを乱暴に蹴り開ける。

 オフィスの裏手は訓練場になっていた。周囲の高いビル街に囲まれたそこは高い柵に囲まれ、かかしのような、サンドバッグのようなものが複数体並んでいる。もちろん、人間対人間の訓練のためのコートもある。

「ルカ、殺すな。傷の一つもつけるな。分かっているな」

「分かっているよ。殺さない。傷の一つもつけない」

 アベルの言葉を復唱し、ルカは先ほどまでのへらへらした顔つきではなく真剣な顔になった。ルカのへらへらとした様子以外を見たこともあって、アベルは驚きと戸惑いから思わず立ち止まる。

──初めて見る顔だった。そんな顔も、出来るのか。天使と言えば、アルカイックスマイルを欠かさない存在だと思っていたから、意外に感じた。

「……オイ! 早く来い!」

 ライターを片手に持って、トーマスは苛立った様子を見せながらルカを急かす。ルカはすぐさま「はーい」と間延びした言葉で返事をし、コートの中に足を踏み入れた。

「オレは殺す気でいくからな」

 見物人は天使省天使対策課第五支部の職員。審判員は、このメンバーの中での最高責任者であるラザロ。

「ルカさんが死ぬか、トーマスが降参するか。それでいい?」

 判定の内容を口にすると二人は頷いた。ルカの手にはガベルと天秤が露になり、その背に翼、頭上に輪が顕わになった。衣服もいつの間にやら天使の法服となっていて、服屋で買ったはずの衣服はどこかに消えている。

「構わないよ」

「当然だ」

二人の合意がなされた。瞬間、トーマスが動き出した。

タバコから散った火花が弾丸となりルカに向かって一瞬で撃ち込まれる。ルカが天秤を傾けると火の弾丸はルカに届く前に消失する。トーマスはそれに動じることも無く、ルカに一気に接近してライターの火を巨大化させてルカの胴へ押し当てる。普通の人間なら大やけどするような一撃にもルカは全く動じておらず、ガベルで天秤の頭をカン、と叩く。巨大な炎は風に巻かれたかのようにトーマスの方へと矛先を変え、トーマスが飛びのくのに合わせて消える。

「……アスモデウス、手を抜いていないか」

 ぼそりとトーマスが口にすると、トーマスの脳内で自分のモノではない声が響く。

『いいや。いつにも増して全力のつもりさ』

「そうか」

 目の前の、人間の世界に居てはならない異物の運命を操る能力は非常に優れているということだろう。よく見れば法服には当然かのように、先ほど矛先を向けられていたはずのこちらにも一切の焼け跡、焦げすら残っていない。地獄の炎で焼いたはずなのに、全く、一切効かないなんてことがありえるのか? この天使がかなり上級の存在なことは確かだが、その真の名前がなになのかが大きな問題だとトーマスは感じた。

──本当の名前は、今の世界では最も重要な個人情報となっている。

 天使は人間の真名を知ることで契約を交わさずとも裁きを下すことができる。一方で、人間たちもまた天使の真名を知ることができれば裁きを下す真似事が行える。最もそれは悪魔と契約している人間に限ることであったが。悪魔以外の生き物は本当の名を隠して生活をするのが普通になった。そのあたりを歩いている普通のサラリーマンだって仕事先では偽名を名乗るのが通常だ。

 とにもかくにも、真名を知ることができればトーマスはアスモデウスの力を借りて目の前の天使を地獄に落とし幽閉することができる。

「アスモデウスか……かなり高等な悪魔と契約しているんだね」

「なんだ、怖気づいたか?」

「いいや? 全く」

 表情の失せた様子でルカは答える。退屈だ、とでも言い出しかねない様子にトーマスは戸惑った。

 アスモデウスといえば、今や七つの大罪と呼ばれる罪のうち色欲を代表する高名な悪魔だ。悪魔はその名が知られているほど力を増す。天使たちの襲撃が発生する前には創作物の中でさんざん擦られた七つの大罪の悪魔たちはかなり驚異的な力があるはず。

 だのに、この天使はそれを全く意にも介していない。

「オマエ、何者だ?」

「悪魔と契約してる人間には教えられないなぁ」

 まあ、それはそうか。

 ルカの返答を当然のものと受け入れて、トーマスは再びアスモデウスに問う。

「アスモデウス。心当たりは」

『あったとしても、それは契約外の情報だから教えられないな』

「……面倒なやつめ」

 悪魔との契約というのはこれだから厄介だ。基本は力の貸し出ししかしてくれない。だが、その力に頼らなければ人間は天使に抵抗するすべすら持たない。アバドンに幽閉する能力すら行使できない。だから、基本的には仕方がないのだ。

 トーマスは計略を巡らせる。どうすればこの目の前のバケモノを殺せる? 真名を探ろうにも、上級天使だけでも名前はかなり多い。聖書やそれ周りに名前を残すほどの天使ではあるはずなのに、そのどれとも特徴が一致しない。聖書の原本がどの宗派なのかすらいまだに明らかになっていない現状で、目の前の天使をどの天使だと断定することは不可能だ。

 やはり物理で殺すしかあるまい、とトーマスはタバコを咥えた。罪のあるものに触れると天使の力は弱り、悪魔の力は強くなる。これが効かないのならば降参で構わない。その覚悟を持ってタバコの煙を吸い込み、吐き出した。

 アスモデウスの魔力を乗せた白煙はたちまち黒く染まり、コート一帯を埋め尽くす煙幕となる。

「……なるほど」

 天使と煙は相性が悪い。なにせ、頭に光る輪っかなんてものを乗せているせいで、視界は最悪となりやすい。そのうえ、光っているから相手からは丸見えだ。炎の能力にはこういった応用も含むことができるのか、とルカが考えていると黒煙の中からしなる炎の鞭が突如として現れた。咄嗟のそれを回避することはできず、ルカは鞭に打たれる。振り回した先の手ごたえを感じたトーマスはしめた、とその炎を操りルカを拘束するために複数の炎の輪へと変える。飛び立とうとすれば翼が焼け、抜けることのできようない炎の檻。肺が焼けそうなほどの、消防署に通報されそうなくらいの黒煙の中を突っ切ってトーマスは走る。タバコの先端の炎を巨大な針状にし、炎の輪へ向かって飛び込んだ。

「くらい……やがれェ!!」

 降りかかる火の粉すらも取り込んで、巨大な針を炎の輪の中心に突き刺した。

 しかし、鞭を打った時のような手ごたえがない。

「力押し……ってところかな。きみの戦い方は」

ルカの淡々とした声音に、トーマスは目を見開いた。

「でも、自分が焼かれないような制御ができているのはすごいね。それともこれもアスモデウスの権能?」

 声が聞こえた方角に向けて再度針を突き刺す。しかし、手ごたえはない。

「きみの切り札かな。でも、この黒煙じゃきみも視界が悪いだろう」

「どこに……」

「ここさ」

 すぐ耳元で、葉が擦れるような囁くような声が聞こえて慌てて振り返る。しかし背後にルカの姿はなく、困惑していると「こっちこっち」と耳元で聞こえてきた。まさかと思って自らの肩を見ると、小さな姿になったルカがトーマスの肩に座っていた。

「よっと」

 トーマスが自分の居場所に気が付いたことを悟るとルカはすぐさま飛び去って、空高くへ飛びながら元のサイズへと戻る。上空から大きく翼を羽ばたかせて黒煙を流しさり、さらに手に持っていた天秤を傾けて炎の針も消滅させる。

「勝負、ついたんじゃない?」

ようやく微笑みを浮かべたルカが地面に降り立つと、トーマスのタバコの火も消されていた。

「………………クソっ!」

 トーマスは歯ぎしりと、舌打ちをする。降参したって構わないとは思っていたが、いざその状況になるとそれを認められない。こんな理不尽がまかり通ってたまるかという悔しさばかりが胸を埋め尽くして、その不愉快さに顔を歪めることしかできない。

 体の内側で無数の異物が這い回るような不快感はどうすることもできず、トーマスは地面を見つめて何度も「クソォ!!」と声を張っていた。

「……分かっただろ、トーマス。あのバケモンは、俺達の手でどうにかできるものじゃない。そしてあれは俺の言いつけを守り、お前に傷ひとつつけなかった」

 アベルがそう口を挟むと、トーマスは忌々しい表情を隠すことも無く口早に開口した。

「分かったよ降参してやる」

 それを聞き届けて、ラザロとユディトはホッと安堵の域をついて顔を見合わせた。一方で降参の言葉を聞いたルカは飄々と、今の勝負なんてなにも関係がなかったみたいに嬉しそうな顔でトーマスに歩み寄る。

「ありがとー。これで私もアベルくんのそばに居られるよ」

「ところで、オマエの目的は何なんだ。アベルに随分と執着しているみたいだが」

「ん? 生き物が他の生き物に執着する理由なんて一つだろう?」

「は?」

 思ってもみなかった言葉に、トーマスは素で間抜けな声が出る。ルカはその様子にからからと笑った。人間は随分とおかしなことを聞いてくる、と。

「彼の人生に興味が出たのさ」

 目をうっそりと細め、微笑む。人間ではない生き物特有の、天使特有の百合の花の匂いがトーマスの鼻腔を刺激した。トーマスは思わず飛びのく。

 美女の姿をした異物である。

 二人のその姿を見ていたアベルは、ルカがまたなにか余計なことをトーマスに吹き込んだのだと思い、ルカにつかつかと歩み寄ってその襟首を掴んだ。ルカの「ぐえっ」というわざとらしい声に顔をしかめながら、アベルはルカを引き摺り気味に手繰り寄せる。

「悪かったな、トーマス。……本当に俺も不本意だが、この天使はしばらく飼う。いいな?」

「……ああ。というか……アンタも随分悪質な奴に憑かれたな」

「本当にな」

 アベルがため息をつくと、その目の前のルカはそれのどこがおかしいのか楽しげに微笑んでいて、トーマスはアベルを不憫に思った。こいつ、本当に運がない男だな。呆れや憐憫を通り越したなんとも口にしがたい感情に支配されてトーマスは初めて天使の前で天使への憎しみを忘れ去っていた。

「さて、それでは本格的にルカさんを受け入れる体制を整えましょう」

三者のやり取りを見守っていたラザロが待っていた、というように口を開いた。

「デスクの準備、基本業務の確認、それから出動要請に対する対応と……」

「あれ、もしかして人間を雇用するときと同じような扱い?」

 ルカの疑問の言葉にラザロは小首を傾げた。

「愚問ですね。当然よ?」

「そっかぁ。人間の仕事がうまくできるかはわからないけど……ま、頑張ってみるよ」

 ラザロの言葉へルカはへらりと力なく笑って返した。アベルが「お前、そろそろ自分で立てよ」と言うと、ルカはこれまたきちんときいているんだかいないんだか、「はぁい」と緩い言葉を返して立ち上がる。

 トーマスが二人の様子をぽかんと見ていると、ラザロがトーマスに歩み寄る。

「彼女が裏切るような素振りがあれば、私が殺す。一度きりしか使えないカードを切るつもりでいる。あなたはそれで納得してくれる?」

「してくれる? って、もうするしかないのにわざわざ確認取る必要はなんだよ」

「念のためよ。念のため」

 つんと唇を尖らせ、ラザロはじっとりとした目でトーマスを見た。面倒ごとを起こしたことへの文句があるような顔つきで、トーマスはぐっと息を呑む。なにも返す言葉がない、というのが答えだった。だが、一つだけどうしても伝えておきたいことが生まれた。

「……切り札は大事にとっておけ」

 首を横に振る仕草と共に、ラザロの身を案じた言葉を発する。戦闘能力を持たないラザロのいざというときの自衛手段はたったひとつ。彼女が契約をした悪魔の名はオローバス。時間や永遠を司る悪魔だが、その契約の代償は重たい。そして、トーマスはその重たい代償を知っている。

「こんなことになるんだったら、オローバスと契約したときに戦闘能力にできそうな能力も借りるべきだった」

「それ以上の契約は重たいだろ。大丈夫だ、いざとなればオレ達がアベルのナイフでズタズタにしてやればいい」

 今度こそは負けない、と意思を込めてトーマスは決意を口にする。そうするとラザロはため息混じりにかぶりを振った。どうやら、彼女の考察ではルカに勝てるような見込みはないらしい。

「……私たちが力を合わせて、一〇回くらい戦ってそうしたらようやく一回くらい勝てるかもしれないけど」

「そんなネガティブなこと言うなよな」

「ただの事実。……私たちもオフィスに戻ろう」

 ラザロはトーマスの服の裾を掴み、軽く引っ張る。伏せったその瞳は遠くを見るように愁いを帯びていて、トーマスはその目に胸の内側が痒くなるような心地を覚える。

「もう二度と、あんな思いさせないで」

 ラザロの言葉にトーマスは「分かってる」と、顔を合わせることができずにうつむいたまま答える。ラザロの手に込められた力がぎゅっと強くなると、トーマスは居心地の悪さに頬を掻き、それからオフィスへと歩み始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る