第29話 1-29 リースは悲しまなかった。1
治療魔法が使えるとはいえ、リースの魔力総量はあまりにも少なすぎた。
重傷を負うと肉体の魔力回復速度も遅くなるため、魔法使いは自分の体を何よりも大切にしなければならない。
この場合、魔力回復ポーションを持っていても意味がない。
ポーションは失われた魔力を「即座に」補充するわけではなく、ただ肉体の魔力生成速度を一時的に上げるだけなのだ。
それに、あの薬は下級冒険者には手が届かないほど高価だった。
そんな現実を前に、リースは乾いた笑みを浮かべるしかなかった。
──ところが翌朝、治療室の扉が勢いよく開け放たれた。
「ワッハッハッハッハ!!」
「グレイモア様っ!!」
その瞬間、普段は胡散臭いだけの老狐の笑い声が、リースの耳にこれ以上ないほど心地よく響いた。
「よくやったぞ、弟子よ!!」
グレイモアは狐のような笑みを爆発させながら、ベッドに横たわるリースの前でくるりと回転した。
青い髪をポニーテールにまとめた従者の少女も、後ろからついてくる。
レナはポーションの入った籠を抱えながら、鋭い視線でリースを睨みつけていた。
だが文句は言わない。グレイモアがいるからだ。
──もしグレイモ様がいなかったら、今頃リースを治しているのは拳だっただろう。
二人とも即座に治療魔法をかけられ、ポーションを流し込まれた。
「それにしても、グレイモア様はどうして……?」
「ああ、マリッサ様のご命令だよ。俺はもう全力疾走で飛んできたさ! ワッハッハ!」
「マリッサ様、ですか?」
「そうだ。女神様が至急お前たちに会いたがってるってな」
「僕たち、ですか?」
それを聞いて、リースとエスタが同時に声を上げた。
「このツテ、ほんとやばいよね~」
エスタは治療薬をぐいっと飲み干しながら、先にそう呟いた。
こうしてリースとエスタは、冒険者のギルドの治療室を退室した。
幸い他の患者がいなかった。
いなければ、嫉妬の視線で焼かれていたかもしれない。
マリナ教会の地下、暗い聖堂の奥。すべての儀式はすでに整えられていた。
今、二人が待つのはまさにリースにとって「継母」のような存在――マリッサその人だった。
「無事でよかった……! マリナ様から聞いたとき、心臓が止まりそうだったわ」
最初に彼女がしたことは、灰色の髪の少年を強く抱きしめることだった。
リースも同じくらい温かく、その腕に抱き返した。
「ごめんなさい、マリッサ様……僕たちの読みが甘くて……」
「いいの。帰ってきてくれただけで十分。さあ、マリナ様とルナリス様がお待ちです」
温かい抱擁がゆっくりと解け、マリッサは少年の頭を優しく撫でてから退出する。
扉前の神官に合図を送ると、重い扉が閉まり、室内は一瞬で闇に包まれた。
床から立ち昇る淡い光の粒子は、マリナの象徴である深い藍色。
たちまち室内を満たしていく。
「リース、そしてルナリスの信徒よ」
巨大な女神像の瞳と口が、部屋と同じ藍色の光で瞬いた。
二人は片膝をつき、静かに見上げた。
「よくやった。あれの暴走を止めてくれたな……命を賭ける覚悟まで見せて」
「女神様、あのときなぜ僕を……止められたんですか?」
リースは揺るぎない声と眼差しで問う。
「恐れたのだ。お前たちが穢れてしまうことを……あの“希望”と同じように……」
女神の声がわずかに震えた。
その響きに、リースの胸は重く沈んだ。自分は守ってくれる女神の心を傷つけてしまったのだ。
それでもマリナは優しく続けた。
「だが、それこそが証でもあった。
心が十分に強ければ、穢れは寄りつかないという証だ」
女神像が再び瞬き、今度は安堵に満ちた響き。
「僕..ご...」
リースは謝罪の言葉を飲み込み、顔を上げて自分の守護女神を見つめ返した。
「ありがとうございます、女神様」
二人の周囲を包む藍色の光粒子が、より強く、より優しく輝き始めた。
まるで今のマリナの心を表すかのように。
「リース、エスタ。世界を脅かすものは、まだこれで終わりではない。
我ら神々の領域にいる者には、加護を与えることしかできぬ。
だから――この世界を、お前たちに託す」
マリナ女神の声が荘厳に響き、藍色の光が眩いばかりに輝きを増す。
リースとエスタは揃って力強く応え、やがて聖堂は深い静寂に包まれた。
「ルナリス、君は何も言わないつもりか?」
「え、えっと……お姉様……エスタと、ちょっと……二人きりでお話ししてもいいでしょうか……?」
「はぁ……いいわよ」
ルナリス女神の像が小さく瞬き、力なくため息を漏らす。
マリナ女神も長いため息を吐いた。
次の瞬間、部屋を満たしていた藍色の粒子が、紫がかった青へと変わっていく。
「えっと、リース……エスタと二人きりで話したいの……」
「はい」
女神がもう一度頼み、リースは静かに儀式室を出て扉を閉めた。
「エスタ……」
小さな神界――まるで一室ほどの空間が現れ、そこにルナリス女神が座っていた。
女神は小さく手招きし、エスタは近づいて彼女のすぐ横に腰を下ろす。
「実はね……リースに、色がついたの」
「えっ」
エスタが思わず高い声を上げる。前回は「まだ何色もない」と言っていたのに。
「うん……でも、灰色……いえ、本当にまっさらな灰――灰の色そのものなの」
「それって……いいこと? 悪いこと?」
エスタの口調にはまったく畏れがない。まるで友達に話すような親しげな声だった。
ルナリスは力なく首を左右に傾けながら答える。
「エスタも知ってるよね。灰色って“下地”の色……でもリースの灰色は、まるで誰にも他の色を塗らせないって言ってるみたいで……」
「自分らしさを貫く……ってことですね」
エスタは淡々と呟き、長く息を吐いた。外見は礼儀正しいのに、根っこは頑固で、危険を好む。
これが本当のリースなら、これから自分が苦労するかもしれない。
「それと……エスタの気持ちにも、ちゃんと色がついてるよ……」
「え?」
エスタは小さく声を漏らし、もう一度自分の女神を見上げた。
ルナリスはほんのり微笑んでいて、まるで嬉しそうだった。
「その色は……夜空みたいな色なの。暗いけど、紫がかった深い青……私がいちばん大好きな、私自身の色」
「不思議じゃないよ。だってあなたは夜の女神だもん。闇が好きでもおかしくない」
「違うの……私、闇は大嫌い……でも……」
ルナリスは小さく首を振った。
エスタは口を滑らせてしまったと胸が痛む。
「三百年前……塔の天辺で……ある人が私に夜空を指差してくれたの。
『見てごらん、この空と星たちを。
背景は闇じゃない。深い紫がかった青だよ。
ほとんど黒に見えるほど濃いけど、すごく綺麗だろ?』
夜の女神である私に、彼はそう言ってくれたの……
あれ?」
微笑んだまま、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちる。
遠い昔に失った最愛の人への想いが、今も胸を締めつけるように。
ルナリスは三百歳……でも、神同士から見たらまだ子どもかもしれない……
エスタはそう思った。だから、そっと女神を抱きしめ、優しく頭を撫でた。
「大丈夫だよ……大丈夫。泣いていいよ……」
「ううっ……!!」
二人の少女はぎゅっと抱き合い、ほとんど一日中、涙を流し、胸の内を語り合った。
二度目の“追い出し”を受けても、リースは少しも落ち込まなかった。
追い出されたということは、自分が知るべきではない会話だったということだ。
―大事なことなら、エスタが後で教えてくれるはずだ。
だから彼は祈りの長いベンチに腰掛け、静かに待っていた。
が、座った瞬間――
「よう弟子! さっそく俺の出番を聞かせろ!」
背後からグレイモアが飛びかかってくる。
聖職者らしからぬ軽い身のこなしで、手をこすりながら悪党のような笑みを浮かべている。
でもリースは嫌じゃなかった。
「はい」
そしてリースは語り始めた。自分、アイゼン、希望、そしてアンダーアイゼンの穢れ。
レオに話したときよりもはるかに詳しく。
それを聞き終えたグレイモアは顎を撫で、目を細めた。
「君の話からすると、あれは要塞というより学園だな」
「はい。僕もそう思います。中は書庫と、教室のような部屋がいくつもありました」
「もしかすると、あの人は未来の“教室”として用意していたのかもしれん。
希望はその後、神魔人戦争の影響で後付けで生まれたんだろう」
リースは初めて見る真剣な顔のグレイモアを、ただ見つめるしかなかった。
まるで深い思考の海に沈んでいくように。
だがすぐに我に返ったグレイモアは、弟子に向き直った。
「俺はこの場所に来たのは、アイゼンの伝説が本当かを証明するためだ。
そしてお前はそれを証明してくれた。だから約束通り、奥義を教えてやる」
「はい!!」
グレイモアは先に立って薬調合室へ。
部屋は相変わらず乾燥していて、薬の刺激臭も蒸気もない。
自分の机の引き出しから、十個以上の魔石をずらりと並べる。
それぞれ色が違う。
「ほれ」
二つをポンと投げてよこした。
「これは特殊な魔石だ。魔力を一定以上流すと発光する。しかも魔力を抜くのも簡単だ」
そう言って自分も左右の手で一つずつ握る。
「やることは簡単だ。同時に、均等に、安定して魔力を流す。
こうやって両方を同時に光らせるんだ」
ぱっと二つの魔石が同時に輝いた。
「さあ、お前の番だ」
リースがやってみる――が、右だけがピカッと光った。
「ハッハッハッハ! 最初はみんなそうだハッハッハ!」
師匠の手が弟子の肩をバシンと叩き、悪魔のような哄笑が炸裂する。
「これは第一歩だ。一週間やる。できなきゃ次はないぞハッハッハ!」
あまりの悪意に満ちた笑い声に、リースは言葉を呑み込んだ。
「一週間だけですか……?」
できる限り丁寧に絞り出すが、グレイモアは止まらない。
「俺は八個だ!!」
両手に三個ずつ、口に二個くわえて――全部同時に光らせる。
それだけじゃない。
順番に点滅させたり、リズムで明滅させたり、波のように流したり。
弟子へのあからさまなマウントと嘲笑の連続で、目を細めっぱなし。
「グレイモア様ぁぁぁ!!」
その日、リースは生まれて初めて大声で叫んだ。
そして、レオ様がなぜこの人を心底嫌うのか、身をもって理解したのだった……。
リースの生活スケジュールは、またほんの少しだけ増えた。
今日も早起きしてエスタと朝ラン、それから木剣での実戦訓練。
初日とはいえリースは一切手を抜かない。まだまだ腕は拙いが、エスタの木剣をしっかり受け止められるようになっていた。
訓練が終わると、エスタがにこにこと言った。
「ねえリース、魔法見せてよ」
少年は微笑んで、素直に披露する。
「詠唱を省いて一語、あるいは無詠唱で撃てるなんて、めっちゃカッコいいじゃん!」
見終わったエスタは満面の笑みで褒めてくれた。
でもリースはほとんど嬉しくなかった。攻撃魔法がまるで使えないからだ。
水魔法→手のひらサイズの水球しか作れない。波も水柱も出せない。
氷魔法→手のひら大の鋭い氷杭が限界。
風魔法→煙を払う程度。嵐も風刃も無理。
火魔法→手のひら大の炎か、物を温めるだけ。鉄を溶かすどころかファイアボールすら飛ばせない。
土魔法→空気から小さなレンガを作って飛ばすのが精一杯。
「今まともに使えるのは回復と補助魔法だけです」
「うんうん、便利な男だね~ ハハハハハ!」
説明と披露を終えた途端、エスタが腹を抱えて爆笑。
リースが眉をひそめると、彼女は慌てて手を振った。
「ごめんごめん! ちょっと下品な例えだった」
……意味がわからず、リースは首を傾げるばかりだった。
「私は今、ルナリス様の信徒だから、幻惑・隠蔽系の魔法が使えるようになったの。
でも夜しか本領発揮できないけどね」
短く詠唱すると、ぱっと姿が消え、次の瞬間背後に現れてぽんと背中を触る。
リースはびくっと肩を跳ねさせた。
「こんな感じ」
見慣れていたとはいえ、実際に体験すると、彼はやはりかなり驚いた。
「これ、ルナリス様から授かった力なんだ。
でも短くても詠唱が必要だから……リース、無詠唱のコツ教えて!」
「うまく教えられる自信ないけど……やってみる」
そう言ってリースは昔を思い出す。
アニアに頭を下げて魔法を教えてくれと頼んだとき。嫌われているとわかっていても。
それでもアニアは拒まず、隠さず、全てを教えてくれた。
――アニアさんのおかげで回復魔法が上手くなったんだ。
小さく微笑んでから、エスタに向き直る。
「うん、私も準備できた!」
エスタが元気よく頷いた。
「じゃあ、まず――」
リースはエスタの横にぴたりと寄り添い、肩が触れる距離まで近づく。
そっと手を伸ばして彼女の手を取り、掌を上に向けさせる。
エスタがびくっと震えた瞬間、心臓がドクンドクンと鳴り始める。
リースは静かに水の詠唱を呟く。
ふわりと水球が生まれ、二人の手の上で浮かぶ。
リースの手が下、エスタの手が上――まるで二人で同じ奇跡を抱えているみたいに。
え、ええっ!? いきなり大胆男になってる~~!?
少年の手から伝わるぬくもりが増すたび、エスタの鼓動はどんどん加速していく。
「詠唱するときは、こう――ここを意識して――それから――」
リースは冷静に教えようとしているのに、エスタの頭の中はもう真っ白。
何を言ってるのか一言も入ってこない。
ランタンで名高い冒険者で、男たちと命がけの依頼を何度もこなしてきて、
勝利の美酒を交わした回数なんて数え切れないし、
昔の世界線じゃもう「大人として完璧な経験」まで済ませてるはずなのに……
なんでだよ……なんでこのガキにだけ、こんな完敗してんだよ!?
……まさかこれって「世界の強制力」!? 違う違う!
まさかまだ【ミトラ × エス】ルートなの!?
もう【エスタ × リース】に変わってるはずなのに、あのクソ強制機構まだ生きてるってのかよ!?
インタールードめ…アンダーアイゼンめ…世界の強制力め、ありがとうございました!!!
リースの指導が終わった頃には、エスタの頭の中は真っ白ホワイトアウト。
もう何も考えられない。
「今はまだピンとこないかもしれないけど大丈夫。焦らなくていいよ。
僕だって半年かかったんだから」
「は、はい……がんばります……」
エスタは顔を真っ赤にしながらコクコクコクコクと首を縦に振り続けるしかなかった。
すると――ごぉん……ごぉん……
街に響く鐘の音。
「あ……もうこんな時間か。
今日は教会のお手伝いがあるんだ。エスタも朝言ってたけど依頼があるんだよね?
無事に終わったら夕方でまたね」
リースはにこりと笑って荷物を片付け、去っていく。
エスタはぽかんと立ち尽くすだけだった。
次に我に返ったとき、鐘はもう二回目を鳴らし終えていた。
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