第八幕 帝国の支配者

一 彼女は「だれか」を求めた

 コウが目を覚ますと、緋色の部屋に寝かされていた。


 赤い和紙で覆われた行燈が室内を照らし、金の屏風びょうぶを朱に染めている。三枚重なった布団も朱色。枕元には煙草盆と御簾紙みすがみ

 閉じた木窓の隙間は真っ暗で、意識のない間に夜になっていたようだ。なにもかもがあかく浮かびあがり、部屋全体に淫靡な影を落としていた。


 天下の吉原だけあって豪華だが、遊郭育ちの紅にとってはそれほどめずらしい眺めではない。典型的な高級遊女の個室だ。



──腕が動かない。



 周囲を確認するために手を伸ばそうとして、今の状態を理解する。


 着ていたはずの洋服は、襦袢じゅばんのように薄手の床着に替えられていた。裸足の脚は自由だが、腕を後ろに回され、上半身は麻縄で縛られている。


 薄暗い室内にいる誰かの息遣いには気づいていた。なので、わざとらしくため息を漏らした。

 恐怖や不安よりも、げんなりした気分である。



「洋装は艶がなくて趣味じゃないんだ。縄も映えないしね。悪いけど勝手に替えさせてもらった」



 口元を緩めていても、瞳は笑っていない男。

 部屋の中にいたのは先ほど刃を交えた七高しちたかだった。壁に背をつけて座っていたが、ゆっくりと立ちあがって傍にやってくる。


 オマエの趣味なんか知るか、と吐き捨てたいところだが──。


 紅としては、すべてに文句をつけたい気分なのだ。衣装といい、麻縄といい、そこいらに用意された拷問器具といい。嗜虐性サディズムにしてもわかりやすくて、あまりに俗っぽい。不満を挙げればきりがなさそうだ。


 七高は三つ布団に乗ってきて、娘を見下ろす。頬にかかった長い髪を指ですくった。


「紅は肌がきれいだね。白くてなめらかで、彼岸花色のまっすぐな髪が胸元に落ちると、上気したように染まるのがあでやかだ。体つきが華奢だからよけいに映える。体中に肉体強化の文字を付与していたけど、少し無理しすぎなんじゃないか?」


 娘はうさんくさそうに、上にいる男を睨み返した。


「オマエさ、絶対そうやって褒めそやしたり笑いかけたりしながら女を殴るタイプだろ」


 ようやく口を開いた紅は、歯の浮くような褒め言葉にも動じることなく、冷たい返答を投げた。


「さすがはぼくの愛した『あかねさす』の作者。だいたい合ってるよ。あと、きみは打たれ強そうなのがいいな。泣き叫ばれるのは飽きたから」

「じゃ、泣き叫べばオマエを喜ばせなくて済むわけ?」

「叫んでもいいけど、きみの大好きな部長さんがいるのは真上の物置だよ。自分のせいで捕まった女の子の悲鳴が聞こえたら、さぞ心配するだろうねぇ」


 今まで感情を抑えていた紅が、ぎりっと歯を噛みしめる。


「どちらでもぼくは楽しめるから、好きなほうを選ん──」


 そのときだ。

 不穏に満ちた妖しい緋色の個室に、軍服姿の男が勢いよく飛び込んできた。


「ねえ、ちょっと聞いてよ……。あまねちゃんがさぁ……。茶屋の開店準備で忙しいからって最近すぐ電話切るんだよ……。事業拡大とかいって俺たちを置いてひとりで大阪なんて行っちゃうし、ハァ……見捨てられた……」


 完全に空気を壊した銀髪の男に向かって、七高は表面だけ笑った顔で言った。


うれい、邪魔」

「七高までそういうこと言う……。ひどくない? ひどいよね? ねぇ、ジョセフー」


 腕に巻きつけた白蛇を相手にぼやき始める。


「げ、ウザヘビ男」


 蛇嫌いの紅は、布団に横たわったまま体ごと後ずさった。


「あ、さっきの乱暴な子……。フェチシズムに溢れる恰好をさせられているねぇ……。七高って少女愛好家のもあるの?」

「彼女はこう見えて二十歳だけどね。憂、きみは老若男女なんでもいけるクチだろ。一緒にどう? まだ生娘だよ」

「若い女って一番興味薄い組み合わせなんだよね……。うーん、まあ、黙ってれば小さくて可愛いかなぁ……? 喋り方どうにかなんない?」


 憂はしゃがんで紅を眺め、邪気のない表情で首をかしげている。


「オマエに言われたくねーよ。もっとハキハキ喋れ、陰鬱いんうつヤロー! なんとか四天王とかいうやつを今すぐ変態四天王に改名しろ。七高もいれとけ!」

「怖い……口悪い……しくしく……。そういえば操觚者そうこしゃの資質を持つ者同士の子供は実験でも造ったことないけど、どうなるんだろ……? 試しに種付けてみようかな……?」


 ごく普通の口振りで、とんでもないことを言う。


「試しとかゆーな、どーなってんだオマエらの価値観は!」

「ええ……人間なんていくらでも産まれてくるし……。たかがひとりの男が死んだの生きたのと騒いでるきみたちのほうが、わけわかんないよ……。代替のきかない人間なんかいないのにさ……」


 残酷、というよりはそういう環境で生きていたのだろう。憂の目や口調に異常さは感じられなかった。


「七高、なんでこの子がほしかったの? 今回の『八来町八雲やらいちょうやくも捕獲作戦』にきみは直接関係ないし、関心もなさそうなのに。この女の子を条件に協力したんでしょ」


 顔には出さなかったが──紅は、敵の言葉に鋭く反応する。


 七高との出会い、使者の来訪、あいの誘拐、吉原への誘い。

 これらが一連の、捕獲計画なのだろう。


 八雲を完全に蘇らせるために仲間たちと集めていた感情は、もうすぐ満ちる。数年かかってようやくだというのに。

 新世界派の目的が完成に近づいたのに合わせて、敵も本格的に動きだした。今までも不審な気配はあったが、まるで待っていたようだ。


「うん、興味ないよ。べつに彼女にも特別な執着があるわけじゃない。ただ、くるわ生まれの下賤な娘なのに、あのとき闘った関西弁の彼から随分と大事に想われているみたいだったから。他人の大切なものって壊したくならない?」

「……アイツはそーいうヤツなだけだよ」


 手に入れようとした架空の花魁・朝雲は消えてしまったが、自身をよろこばせるモノならきっとなんでもいいのだ、この七高という男は。

 そのために使われるのは癪だが、下手に抵抗して八雲に何かあっては困る。自分程度の犠牲はしかたがない。闘いに身を置く以上、どんな覚悟もできている。


 と、そこまで考えを巡らせたところで、紅はあの日かけられた言葉を思い出した。



『あかん、そういうのはあかんて。自分は大切にせなあかんのや』



 虎丸の声がぐるぐる回って、頭の中で思わず悪態をつく。



──

 自分を大事にだって? 陳腐で使い古された台詞だな。

 でも、本気で心配してくれるヤツに本気で向けられたなら話は変わる。

 だから真顔で云うんじゃねーよ、莫迦ばかやろー。


 今まで抱いてきた信念が、自己犠牲なんてきれいな呼び方ができるものじゃないってわかってる。守るには、力が足りなかっただけで。


 それでも、ぶちょーや弟のためなら……。

 べつに自分なんて、どうなっても構わなかったのに。

 そういうやり方、間違ってるような気がしてくるだろうが。

 

 あのときは聞き流しそうになったのに、こんな場面で思い出すなんて。



「俺はいいや。見てるから勝手にやって……」


 暗い顔をした憂が、そう呟いて部屋の隅に行った。見ているとは言ったが、それほど関心もなさそうだ。


「ふうん、せっかくだから毒蛇を貸してくれ。死なない程度に抵抗できなくなるやつがいいな」


 七高にそう頼まれ、憂は無言でペンを取り出して『マムシ』の字を書いた。

 灰褐色のまだら模様をした生き物を見て、紅がわずかに戦慄する。この蛇に咬まれたせいで、蛇嫌いになったのだ。


「マムシはとても臆病だというね。動いたり声を出さなければ、咬まれないかもしれないよ」


 七高が蛇をつまみ、紅の上に落とした。首筋を這う冷たい感触に体を硬直させる。

 咬まれないかもと男が言ったのは、約束でもなければ楽観でもない。瞬く間に消える泡のような希望を聞かせただけだ。

 七高が蛇の尾を指ではじくと、驚いた爬虫類は娘の細い鎖骨に牙を剥いた。


「鬼畜~……。俺って性格良いほうなのかも……。必要がなければ酷いことしないもんねぇ、ジョセフ」

「憂、きみは他人に興味がないだけだろ」


 咬まれた周辺の肌が焼けるように痛みだす。連続した眩暈に襲われる。


「準備はできた。あとは楽しもうか。滅茶苦茶にしてからきみのことを大事に想ってるお仲間たちの前に差し出したい。ただ、それだけの遊びだ」


 男の手が、緋色の影の中を伸びてきた。



──だれか。



 それは、以前の紅であれば決して自分には許さなかった言葉だった。



──だれかって。誰を呼ぶ気だ。闘うのは任せとけなんて言っておいて情けねー。おれが、部長を守らなきゃいけなかったのに。



 守りたい。でも力が足りない。だから弱気は許されない。それならいっそ犠牲になっても構わない。そう考えて今まで闘ってきた。



「大丈夫かな、ぶちょー……」

 


 紅自身は、声が漏れていることには気づいていなかった。



──だれか。



 意識が朦朧とし始める。

 暗くなっていく世界で、また「だれか」を求めた。

 それは、呼べば本当に助けに来てくれるのだろうと、信じることのできるあの青年の名。



「…………虎丸」



 その名を呼んだとき、黒い衣の影が舞った。



 ***



 紅の瞳に映っていたのは天井と、覆い被さる冷たい笑顔をした男。

 影が一瞬よぎったかと思うと、嫌な男の顔がふっ飛ばされて視界から消えた。



「『ぶちょー』の心配もいいけど、まずはさ、自分の心配してくれる? だけど、無意識でもちゃんと助けを求めたのはえらかったね。安心した」



 風の如く現れ、七高をなぎ倒したのは──黒の学生服を着た少年。


 学帽の下から、紅と同じ彼岸花色をした髪がはみ出している。猫のようにきりっとしたアーモンド型の目元も瓜二つ。手に握るのは文字の力で書かれた薙刀。



あかね……?」



 立っていたのは、弟の茜だった。

 


「虎丸さんじゃなくて、ごめんね」



 冗談めかして笑いながら、姉の上半身を片手で起こし、蛇に咬まれた皮膚を刃で薄く切る。淡い色の血が着物を染めるが、毒を抜くための処置だ。


 茜の軽口のせいで、紅は朦朧としていた頭を少し覚まされた。


「え、いや!? べつに変な意味じゃ……! 発音しやすかっただけで! てかアイツは結局去ったままなのかよ、空気読めねーな! あとオマエ、学校は!」

「もう夜だよ。授業も部活動も終わった。虎丸さんもきっと、ちゃんと帰ってくるよ。毒が回るから、ちょっとはおとなしくして……」


 学校以外は女の姿でいることが多いので、普通の少年のような口調の弟と話すのは久しぶりだ。ゴロツキに切り落とされた髪は普段つけ毛にしていたが、今は短いままで下ろしている。


「ジュリィが呼んだのか? オマエは、巻き込みたくなかったのに」

「巻き込まれてなんかいないよ。これは弟としてのけじめだから。ずっと守ってもらってたから、いつか紅ちゃんがピンチになったときは、絶対にぼくが助けに行かなきゃって思ってた」


 服装を変えると、スイッチを切り替えるように話し方が変わる。それは昔からで驚くことではない。いつもと様子が違うのは、もっとべつの理由だ。


「茜、もしかしてオマエ、怒ってる?」

「うん。すっごく、怒ってるよ」

稀有レアだな……」


 柔和な表情の下に隠された怒り。

 壁まで飛ばされた七高の意識が、うめき声とともに戻った。口内に溜まった血を吐いて起き上がる。


「千代田紅の弟、千代田茜か……。名簿に載っていたから門下生に名を連ねていたのは知っている。だが、きみ、途中で道場をやめているだろう? 素人同然のくせにしゃしゃり出てくるものじゃない」


 茜は紅の背を屏風に預けさせて、その場に立った。


「だからなに? 薙刀の試合をしに来たわけじゃないよ」


 微笑みが張りついて消えないのはいつものこと。しかし、その笑みから、穏やかさの一切が消えた。


 挑発的で、怒りに満ちた笑い顔で──。


「ぼくが認めた男以外で、紅ちゃんに手を出そうとするやつは、全員ぼくがコロす」


 赤髪の少年は軽々と片手で持った薙刀の刃先を、敵に向けた。

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