九 自責、憤怒、焦燥

 『黒菊クロギク』の海石榴つばきに呼び出され、やって来た露天神社。

 虎丸たちを待ち構えていたのは、頬に蝶の入れ墨が入った花魁男だった。


 敵の話によると、どうやら東京でも闘いが始まっているようだ。

 邪魔をされないようここで潰す──と言っていた。


「丸腰相手やのにぜんっぜん隙があらへんでめっちゃ怖いし、遠慮なく得物使わせてもらうでぇ。拓海、武器ちょーだい」

「もうできる」


 拓海は青く透けたガラスペンを虚空に走らせて、文字を書いている。


「なに、その風流なペン。合理的なおまえがそんなん使うなんて意外やなー」

「金属のつけペンと違って墨汁が使えるから補充しやすい。毛筆より長く書ける。萬年筆まんねんひつより低価格だ」

「合理的ィ! ん、何をもたついてんのや?」

「玉鋼、玉鋼か……」


 以前八雲がやったように、原料から日本刀を書き起こそうとしているらしい。

 だが、しかし。


「ま、まさか……字が下手すぎて認識されへんの!?」


 個性的な筆跡はふよふよと宙をさまよい、まるで文字が困っているかのように見えた。


「そんなはずはない。文字の力は操觚者そうこしゃの想像力。俺に読めれば問題はないはずだ」

「つまり、自分でも読めへんのやな! うはは、しゃーない! 『鋼』は画数多いし、空中に書くのん難しそうやもんなー! 拓様は悪うないで!」


 虎丸はお腹を押さえて笑いながら、ここぞとばかりに普段の言われ放題をやり返すのだった。


「あ、あかん……そないにかっこいい顔であんまおもろいことせんといて。ひー、お腹痛い、完全に酔い覚めてもうた」

「……もう一度吐かせてやろうか?」

「ちょっと、アナタたち、吉本花月連の芸人かなにか? もっと真面目にやって頂戴よ」


 文芸雑誌『黒菊クロギク』の人気作家・古城こじょうあまねにまで呆れられる始末である。


「ほらほら、敵さんお待ちかねやで。もっと簡単な字にしよな? ジュリィさんみたいに『刀』でええんとちゃう?」

「そんな妥協ができるか。黙って待っていろ」


 相変わらず、他人にも自分にも厳しい男だ。

 ふうっと息を吐いて落ち着きを取り戻し、美青年が虚空に書き綴ったのは、



 吉行



 の文字。



「『吉行』の銘……陸奥守吉行の刀!? 坂本龍馬の愛刀やん! しかも二本!」

「俺たちの地元、住吉にも縁のある刀工だからな」

「さてはおまえ、地元結構好きやな? これ贋作ってことになんのかな? 時間経ったら消えるしまあええか」


 拓海の書いた刀はなかなか悪くなかった。特に刃の仕上がりが美しい。

 幼少時から虎丸の剣術の稽古を何度も見ていたからだろう。少なくとも、刃物を持ったことがないといっていた八雲よりはずっと上手い。


「字がアレなだけで、仕上がりはええなー」

「身体強化はいらないのか」

「相手強そうやから慣れへんもんは逆にいらん、感覚がずれる。要るときに言うわ。ほな行くでぇ!」


 感覚と感覚で打ち合うような、紙一重の闘いになるだろうと予感があった。二本の打刀を腰のベルトに差して、他の誰が書いたよりも手に馴染む柄を握りしめて駆ける。


 相手はぎりぎりまで動かなかった。


 軌道を予測させないよう、虎丸が刃を抜いたのも懐に入る直前だ。鍔を指で押し上げると、体勢を限界まで低くして下から上に斬りあげた。



──はやっ!



 一撃目はあっさりと見切られた。

 どうやって避けたのかわからなかったくらいに、速い。

 次は相手の拳が顔に飛んでくる。かわしたにも関わらず頬に傷ができた。


「空手……いや、ちゃうな。古流柔術の当身あてみか。こっわ!」


 思わず、相手の間合いから数歩下がる。


 急所を的確に破壊できる拳の形。しかし、柔術であれば本当に怖いのは当身技ではなく『投げ』と『固め』だ。ひとたび捕まれば剣術では歯が立たないので、無闇に近づくわけにはいかない。

 かといって、高尾姫のときに使った『波及』の文字のような飛び道具を使わせてくれるほど相手のスピードは遅くなかった。


 近づきすぎず、離れすぎずが一番いい。


「拓海、文字追加で! かく乱作戦や。して!」

「ほら」


 数年別れていたとはいえ、さすがは幼馴染──と思う。

 子供の頃、毎日ともに遊んでいたので少ない言葉でちゃんと通じる。


 刃に浮かんだ文字は『雨月うげつ』。

 目に見えない雫でしっとり濡れたような、冷たい空気が虎丸の体を包み込んだ。


 和歌を口ずさみながら、虎丸は抜いた刀を顔のすぐ右側で横に構える。



 身のうさは人にも告げじ あふ坂の夕つげ鳥よ秋も暮ぬと



 上田秋成『雨月物語』の一篇である。

 秋に帰ると約束した夫の勝四郎を待ちながら、「もう秋が過ぎようとしていることを、夫に伝えておくれ、夕つげ鳥よ」と妻の宮木が詠んだ歌である。結局、生きて再会することは叶わなかった。


「……雨月、ねぇ。アナタ、外見とぴったりの美しい言葉を使うのね」


 あまねが文字の効果に気づいて軽く笑った。まだ余裕の顔だ。


「行くで!」


 虎丸がふたたび斬りかかって行く。

 離れた場所で見ていた海石榴つばきだけが、驚いて声を漏らした。


「刃が、見えへん?」


 虎丸が持つ刀の鍔から先、刃の部分だけがなくなっている。

 海石榴からはまるで、虎丸が柄だけしかない剣を振り回しているだけのように見えた。



『雨月』


 秋の名月が雨夜のせいで見えない、という意味の言葉だ。

 反って銀色に輝く刀身を月と重ねて、刃を隠したのだ。



 だが、それでも。

 あまねには一切当たらない。


「花魁男……、見られへんもんを避けるって、どーいう反射神経と距離感覚しとんねん!」


 刃はたしかに闇にまぎれて姿を消しているはずなのに、すべての攻撃をかわされる。

 あまねは身体能力だけで、見えない太刀筋を正確に捉えているのだ。


「そういえば夕方頃、同じ四天王のうれいちゃんから電話があったわ。あの子、仕事の愚痴を言いたくてすぐアタシのところにかけてくるのよね。大阪までの通話料金がいくらだと思ってるのかしら。経費を使いすぎたらまた怒られるのに、悪循環~」


 余裕を見せつけるためか、敵は避けながら雑談を始めた。虎丸が黙って剣を振り続けていると、笑いながら無視できない話題で挑発してきた。


「伊志川……いえ、オタクの部長さんたちを捕まえたって言ってたわねぇ」


 虎丸が一瞬、体をこわばらせた。


 その隙をついて、回避しかしていなかったあまねが拳を飛ばしてくる。

 正確に喉を狙った掌底打ち。かわせたとしても、おそらくその流れで襟を掴まれて投げ技に持ち込まれる。

 思考よりも先に、瞬時に体が反応した。体勢の悪いまま重心を落とし、腰に差しているもう一本の刀で斬りかかった。


 あまねの判断も早かった。掌底を途中で引っ込めて後ろに飛び、攻撃から逃れた。


「抜き打ちもできるのね。怖い怖い」

「……捕まえて、そのあとは?」

「さあ? まだ聞いてないもの。何時間も前の話だからもう全部終わったんじゃない?」


 ゆさぶるための嘘、という可能性もある。しかし、確かめようがない。


「そうそう。赤髪の女の子を七高しちたかに報酬であげたんですって。あの男ってば、アタシが吉原で楼主をしてる店の常連なのよ。加虐嗜好者サディスト御用達の裏妓楼」


 周は楽しそうに、続けて言った。


「あの男、爽やかな見た目のくせして、ヤりかたがエゲツなかったわよ~。どれだけ遊女を使い物にならなくされたかしら。本職は武道家だっていうし、容赦のないトコロが気に入って声をかけたんだけどね。ああいう欲望の強い人間はね、叶えてやれば際限なくなんでもやってくれるの」


 笑った顔に潜む、残忍な眼がぎらりと光る。


「まあ、アナタにはもう関係ないわよね~。途中で放置して帰ってきたんだもの。よっぽど大御所ならともかくとして、編集者が逃げ出したくなる無名作家たちなんて、何の価値もないわぁ。気に留めなくていいんじゃない?」


 それ以上、敵の声には応えなかった。代わりに後ろの拓海に聞いた。


「拓海、タカオ邸への連絡手段って」

「ないな。電話も引いていないし、使いをやるか戻るしかない」

「まだ頭ぐちゃぐちゃやねん。でも、とりあえず」

「ああ。あいつを倒そう」


 虎丸はまた『吉行』を構える。

 めずらしく静かだが、歯を強く噛みしめている。



 後悔。不安。憂慮。恐怖。自責。憤怒。焦燥。



 頭の中で感情が混ざり合って、見かけほど冷静ではなかった。


 ふと、気づく。

 付与されていたはずの『雨月』がなくなっている。隠れた刀身も元に戻っていた。


「文字が消えとる……?」


 拓海が「まさか」と小さく叫んで顔であたりを見渡す。自分の書いた文字の気配はまだ近くにあるはずだった。


 あまねの消えた両手。

 手首から先が、闇で覆ったように霞んでなくなっていた。そこには拓海の字が浮かんでいる。


「……文字を、盗られた!? そんなことが!?」

「綺麗な言葉、気に入ったからいただくわ」


 花魁姿の男は、艶やかに着物の裾をはためかせて笑った。

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