三 敵は吉原遊廓にあり

コウ、ボンジュウル! 赤髪に洋装が似合うねぇ~」


 食堂に入ってきた紅に、長身の青年が抱きついた。背丈の差がありすぎてほとんど覆い被さるような恰好である。


「朝から元気だな、ジュリィ。重いんだけど」

「あれ、僕だと反応薄すぎない? 八雲部長のときは真っ赤だったのにさ~」

「オマエはいつでも誰にでもじゃん……って、覗き見してんじゃねーよ!!」

「あはは、すっごい面白いもの見れた。紅は文字の力を使った気配に鈍感すぎるよね。そんなんじゃ敵にやられちゃうよ~」

「うっせ! んなことより、まだ全員いねーのか? 虎丸と拓海は?」


 重々しい長テーブルが置かれた豪華な食堂にいたのは十里じゅうりと白玉、そして八雲の三人のみだ。


「虎丸くん、大阪帰ったってさ」

「ハァ!? なんだよ、いきなりだなー」


 十里の口調が軽かったので、紅は仕事で急用でもできたのだろうと受け取り、壁際のソファにどさっと音を立てて座った。


「美丈夫のほうはどしたー?」

「拓海は、追っていったよ」

「……ってぇことは、まじで帰ったのかよ。あいつ」

「うん」


 短い会話の中で、紅も察した。

 文芸雑誌『黒菊クロギク』からの使者がやってきた昨晩、八雲は虎丸に向かって「すべてを話す」と言ったのだ。おそらくそれが理由なのだろうと見当もつく。


「あーもう、意味わかんね。虎丸の莫迦ばかやろーめ、仲間はずれは嫌とか言ってたくせに!」


 胸の内にはもっといろいろな感情が湧いていたのだが、赤髪の娘はいつもの癖でつい悪態をついて、肘かけに足を乗せた。


「こらこら、せっかくの綺麗な服なんだから」

「オマエはむかつくくらい冷静なんだな、ジュリィ」


 八つ当たり気味に言って、先ほどから沈黙したままの青年作家に目線をやる。八雲は長テーブルの椅子に座り、目を伏せて静かに煙草を吸い続けていた。


「彼が受け入れられないのなら、しかたないさ。僕だって同じだよ。本当は皆を危険に晒すのも、部長に感情を戻すのも反対だって、僕の考えと立場は何度も表明してきただろう?」


 下唇を噛んで黙った紅に、十里はあえて微笑んだ。


「ほーら、そろそろあるじも起きてくるだろうからちゃんと行儀よくして……と、噂をすれば」


 廊下を踵の高いヒールで歩く音が近づいてくる。十里が扉を開けて迎えると、洋館の女主人は完璧に整った装いで現れた。

 食堂にいた全員がテーブルにつく。美しい所作で上座に腰をかけた主は、低音の中にも甘さを感じる妖艶な声で言った。


「おはよう、わたくしの可愛い作家たち。拓海の姿がありませんわね」

「彼はしばらく戻りません」

「あらそう」


 八雲の返答に対しそれだけ言って、理由は聞かなかった。


「そうそう、すっかり忘れていたのだけれど、あいが昨夜の訪問者に捕まっているのよね。どうせ自業自得なのでしょう、あの子」


 使用人の持ってきた白磁器の珈琲カップを傾けながら、やはり素っ気ない言い方で尋ねる。


「うーん、そうです、とは言いにくいなぁ。でもまあ、そのとおりです! 助けに行く算段はついたから、主はご心配なく」


 と、十里が余裕の態度で答える。


「あなたたちに任せるわ。わたくしは帰国の挨拶回りがありますから、しばらく忙しいの」

「大丈夫。僕らだけでなんとかします」


 にこやかに笑い、「さて」と咳払いをしてテーブルの上に冊子を置いた。


「僕の部屋に一冊だけあった。まさか『黒い菊の入れ墨』と文芸雑誌『黒菊』が単純に繋がるとは思わなかったな。元新世界派のが所属しているところだよ」

「ふん、でかい雑誌に移動して人気作家様気取りなんだろーな。べつに興味ねーけど」


 赤髪娘の漏らす舌打ちを流して、十里は話を続ける。


「『黒菊』には専属作家が八人いる。売れっ子が四人と、筆名に姓のない新人が四人。昨日うちに来たふじ海石榴つばきはまだ新人だね。現役の八人とは別で、雑誌を創刊したのは文壇の重鎮である超大御所作家だけれど、多分その人が菊の入れ墨を持つという彼らの代表者ボスかな。となると、僕らの敵はほぼ文壇全体ってことになるねぇ」

「相手の規模なんかどーでもいいよ。邪魔するなら倒すだけ。それより、藍ちゃんの居場所は?」

「敵の根城は拓海と一緒に『逆形容化』された男たちの原稿用紙を調べたらすぐにわかった。わかりやすすぎて、おそらく罠だね」


 胸のポケットから萬年筆まんねんひつを取り出す。白い壁に向かって文字を書くと、活動写真のような映像が浮かびあがった。


「ここは……遊廓? 田町より全然でけーよな、吉原か?」


 と、色街育ちの紅が言う。


 朝なので大通りは静まりかえっている。並んだ格子の奥に遊女の姿もない。

 映像は十里のペン先に合わせて少しずつ動いていた。数年前の大火で燃えて傷んでしまっていたが、鉄製のアーチ跡がある大門は間違いなく吉原遊廓だ。


七高しちたかと同じで、昨日襲ってきたゴロツキたちの残した原稿用紙にも、それぞれ詳細な生い立ちが書かれていた。年齢や経歴には多少幅があったけれど、吉原生まれの私生児が圧倒的に多かったんだ。『黒菊』のバックに関東の遊廓を牛耳っている者がいると、あのふたりが言っていただろう?」

「敵は文壇関係だけじゃなくて、色街とも繋がってるってことか。つまり忘八者チンピラだろ。昨日の男らだってガラ悪くて、見るからにソッチ系の下働きだったし」

「そのとおり。敵の本拠地はここ、『吉原遊廓』だ」


 トントンと虚空を叩くように、十里が映像の一点をペン先で示した。


「中には入ったことがないからこれ以上、十里眼……千里眼は届かないけれど、ほら見てこれ」

「なんだ、ジュリィは吉原通いしまくってんのかと思ってたぜ」

「藍ちゃんと同じカテゴリイに分類しないで。僕は素人専門だし、月一で未亡人のところに通ってるくらいだよ~☆」

「へー、そこまでは聞いてねーけど……。つーか、その発言のせいでもはや同類だけど……。で、このやべぇのなに?」


 入り口から覗くひっそりとした大通りには、桃色や赤色といった煽情的な色をした布飾りがはためいている。

 ずっと奥に小さく見える、いかにも最高級といった店構えの妓楼ぎろうの屋根から──とんでもないものが突き出しているのが見えた。


「……ヤマタノオロチ?」


 映像を指差して、紅が尋ねる。笑顔が完全に引きつっていた。


「うーん、遠くて六本までしか数えられないな~」

「いや、もう何本でもいい。なんだよこの大蛇ふざけんな! つーか、藍ちゃんが捕まってんの絶対ここだろ。わかりやす!! 誘ってんじゃねーか」

「言ったじゃない、多分罠だって」


 三階まであるだだっ広い妓楼の屋根で、巨大な蛇の頭がぞろぞろと動いていた。

 ときどき下男や見習い遊女が通りかかるが、騒ぐ者はいない。普通の人間には見えないようにした文字の大蛇だ。


「まさか本物のヤマタノオロチじゃないだろうし、操觚者そうこしゃが書き起こした架空だよ。大きさは規格外だけれど、実際強いかどうかは作者によるかな。もしかしてこれ、紅を挑発してるんじゃないかな〜」

「おれ?」

「うん。文字の力の源である『幻想写本』が欲しいだけなら狙いは八雲部長ひとりのはず。七高を紅の通ってる道場に送り込んだのは、筆跡をみても今回の敵と同一人物で間違いない。なのに、最初の標的になったのは紅、次に藍ちゃんだし。まず『闘者とうしゃ』を潰しにきてるよ。こっちを無力化する気だね」

「なーる、俄然やる気でてきた」

「そう言うと思った。でもさ、蛇嫌いでしょ。七高にその話したことある?」

「ある。なまずだと思うからいい。だいじょーぶ」


 強がっているが、あまり画面を直視しないようにしている。

 こんなとき虎丸がいれば、と十里はつい考えるが『受け入れられないならしかたない』と言ったのは自分だ。口には出さかった。

 今この場にいる四人でなんとかするしかない。


「……誰かが、タカオ邸に残らないと。全員で行けば留守をつかれる可能性がある。主を危険に晒すわけにはいかないからね」


 これまでの話を理解しているのかいないのか、ずっとポカンとした顔で聞いていた白玉が、突然張りきった声をあげた。


「もちろん、ぼくが残ります! 走ることもできないこの体じゃ足手まといになっちゃうし。それに、主をお守りするのはぼくの役目ですから。これまでも、これからも。ね、主!」

「……ええ、そうね。お願いするわ。わたくしの可愛い白玉」

「はい!」


 一瞬の、憐れみに似た視線。

 無邪気な笑顔で返事をする白玉に、八雲に負けず劣らず気のない態度だった女主人の感情がはじめて揺らいだ。


「ぶちょーが狙われてんなら、ぶちょーも留守番したほうがよくね?」

「八雲部長を置いていけば、敵はまたこの館に攻めてくるだけさ。三人でこっちから行こう。向こうもわかってて待ち構えてるみたいだから。ただし二組に分かれるべきだ。僕はひとりで動くから、部長と紅で組んでくれる?」


 十里の提案に引っかかりを感じたのか、紅は眉をひそめて聞き返す。


「おれじゃなくて、ジュリィがひとり? 敵の狙いがぶちょーとおれなら、こっちが捕まったら終わりじゃん」

「これはチェスじゃない。たとえキングを取られても、また取り返せる。きみたちが分かれていたら二組とも捕まえるまで敵は諦めないだろうけれど、僕だけなら標的じゃないから油断する」

「それって、おれたちが囮ってことじゃ……」

「悪く言えばそうかもね〜。そりゃあ誰も捕まらないのが一番いいけれど、念のために別働隊として動きたいだけだよ」


 説明にやっと納得したらしく、娘は長い髪をひるがえして立ちあがった。


「んじゃ、それでいーよ。戦略とかそういうのはジュリィにまかせる。闘うほうはまかせとけ」

「実行は客入りが多くなる夕方以降にしよう。直に様子を確認したいから、昼過ぎには出るよ。準備しといて」


 背中を向けたまま手をあげ、紅は食堂を出て行った。


「八雲部長も、いい?」

「はい」


 ずっと押し黙っていた八雲は静かに返事をして、それ以上何も言わなかった。十里は困ったように微笑んでから、主に断りをいれて食堂を出た。



 ***



 金の睫毛を伏せたハーフの青年が後ろ手で扉を閉めると──。

 すでに自室に戻ったと思っていた紅が、廊下で待ち構えていた。


 後ろから突然手首を掴まれ、十里は驚いて振り返る。


「わ、びっくりした。さすが、気配ないね~」


 紅は十里の手を力を込めて強く握りしめ、離そうとしない。


「……紅?」


 名を呼ばれて顔をあげた小柄な娘は、思いつめた表情だった。



「ジュリは、裏切ったりしないよな? 八雲部長のこと」



 真剣な眼差しで、まっすぐに十里を見上げている。


「ああ、単独行動したいって言ったことかな。違うよ、理由は本当にさっき説明したとおりさ」


 少し慌てて、十里は諭すように言った。

 普段から口の悪い娘ではあるが、妙に悪態をついたり、言葉に棘が多いときは不安を抱えているのだ。虎丸が帰ったと知ってから、今朝はずっとそうだった。


「僕は最終的に部長を止めたいと思っているけれど、裏切ったりしない。受け入れられないことと仲間じゃなくなることは、まったく別のことだよ。だから、虎丸くんだってそう。心からあの人を見放したわけじゃない、絶対に」

「ほんとに?」

「本当だよ。だいたい、今回は藍ちゃんを助けに行くのが目的だからね。僕はもう、仲間を失うのは嫌なんだ」

「……わかった」


 素直に頷いて、ようやく手を下ろす。


「紅、その洋服で行くつもりかい? 汚れるよ」

「主が、綺麗な服は女の戦闘服だって言ってた」

「それはたぶん意味が違うんじゃないかな~」


 紅の髪に結われた黒いリボンの位置を直しながら、十里は柔らかな声で言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る