ニ 彼らの気持ちはどこにあるか

 虎丸と拓海が朝早くにタカオ邸を出て行き、半刻たった頃──。


 コウと茜の姉弟が、普段あまり着ることのない洋服姿で廊下を歩いていた。

 食堂に向かっている途中で、ちょうど玄関から本館に戻ってきた八雲と鉢合う。


「おや、洋装とは。めずらしい恰好をしていますね」


 青年作家の顔色はすこぶる悪いが、声の調子はいつもと同じだ。


あるじ欧羅巴えうろっぱ土産! すっげー着せ替え人形にされた」

「これってきっと、向こうでは子供服の寸法なのよね。わたしはちょっと肩がきついかも」


 困りごとのように話しているが、リボンタイやカメオ、フリルで飾られた衣装をまとった姉弟は喜びを隠せていない。


 その様子を、八雲は薄く微笑みながらも疲労の残った瞳で眺めていた。



 そして、突然──。

 ふらっと吸い寄せられるように、音もなく近づいて、紅を正面から抱きしめた。



「え、え、ええ!?」



 中途半端に浮いた両手をどこにやっていいのかわからず、紅は体を硬直させている。


「紅ちゃん、顔真っ赤」

「だ、だ、だ、だって!!」


 間近で見ている茜は存外冷静である。

 紅にしてみれば、この状況で平静を保てるわけがない。あわあわと空中を掻いて慌てているうちに、八雲がそっと腕を解いた。


 赤髪の娘が惚けた顔で見上げる。八雲は真面目な顔でなにかを考え込んでいる。

 そのあと無言で移動し、今度は茜を抱きしめた。


「え!? 無差別!? なんだそれ!!」


 紅はショックと驚きの入り混じった声で叫んだ。

 男同士だからか、茜はやはり動じることなく冷静なままだ。


「八雲さん、いったいどうしたの」

「なんとなく、確認したくなりました。紅はやはり娘なんですよね。抱き心地が違う」

「ふふふ。わたし、八雲さんより筋肉あるもの。確認の仕方がちょっとあれだけど、西洋式のハグというやつかしら。十里じゅうりさんがよくみんなにしてるわね」

「はい、失礼しました」


 思案顔のまま、八雲はひとりで先に食堂へと入った。


「な、なんだぁ? 結局よくわかんねーし。部長、ちょっと変じゃね? いや変わってんのは前からだけど、様子が変……」

「そうねぇ。我は失ってなかったから、たまにある拒否反応じゃないわよね。じゃあ、虎丸さんの影響なのかしら。変わったのか、変わりたいのか」


 意味深な微笑みを漏らす弟に、紅は肩をすくめる。


「茜はたまにわかったようなこと言うよなー。ジュリィみてー」

「渦中にいる人たちほど気づいてないだけよ。やっと女の子だってわかってもらえて、よかったわね」

「四年一緒に生活して、まじで知らなかったことのほうが衝撃なんだけど……。ふりだと思ってたぜ……。あ、今日はいろいろありそうだけどさぁ、オマエはちゃんと学校行けよ。通わせてくれてるあるじだって帰ってきてんだから」


 と、めずらしく姉らしい顔で言い含めた。


「うん、わかってる。紅ちゃん、あまり危ないことしないでね」

「虎丸がいりゃ大丈夫だろ。ちゃんと身を護れってあいつうるせーんだよ」


 虎丸がいなくなったことをまだ知らない紅は、十里や八雲のいる食堂へと遅れて入って行った。



 ***



 大阪の繁華街・ミナミ。

 飲み屋街の一角にあるすき焼き屋で、虎丸と拓海は向かい合って座っていた。


「おまえとミナミに来るのもひさしぶりやなぁ。こっそり遊んでよう怒られてたけどな」

「すみません、日本酒を熱燗で一合」

「おーい、どないした、優等生!」


 迷いなく酒を注文する幼馴染を見て、虎丸は呆気にとられる。

 煙草と違って酒に年齢制限があるわけでもないが、昔から堕落に繋がるものは何でも嫌っていたのだ。

 優等生で潔癖症で神経質でいちいち細かい男のはずやのに、と虎丸はいぶかしげに目の前の美青年をじろじろと観察した。


「んー……まぁでも、作家も世間から見たら堕落の象徴みたいなもんやしなぁ。ある意味自由な人らばっかの新世界派に入って、ちょっとは柔軟になったんかな? そういやおまえ、いつの間に小説なんか書き始めたんや?」

「牛鍋二人前。あとつぶ貝の煮つけと岩海苔の吸い物と」

「聞けや! さっきうちでも食うとったやんけ! あと関西人ならすき焼きって言わんかい!」


 虎丸を無視して、拓海は料理の注文を続けている。

 紐綴りのメニューを閉じると虎丸に向き直り、不満そうに眉をひそめて言った。


「……覚えていないのか。俺が大阪を発つ前の日に言ったことを」

「え、なんそれ。全然知らん」

「直接じゃない。文乃あやのさんに伝えた」

「うちのオカンを名前で呼ぶな、喜ぶから」

「子供の頃からそう呼べと言われていたからな」

「なんさらしとんのや、あのオカンは。いや、それはええとして、何の話やっけ」

「もういい」


 ちょうど店員が酒を持ってきて話は一旦途切れた。

 湯気のあがる透明な液体を注ぎながら、拓海が言った。


「俺が帝大医科で初めて知り合ったのは、八雲先輩だった。中学のとき母の里帰りで東京に行って、どうしても受けたい大学の講義があったから見学を申請したんだ。あのときはまだ八来町八雲やらいちょうやくもという名じゃなかったが」

「東京まで行って見たいとこが大学って……真面目か。いや真面目やったな。ふうん、あの人、文科やのうて医科やったんや。オレらが中学生なら、その頃は伊志川化鳥いしかわかちょうの名前で絶賛活躍中やろ」


 一番敬愛しているはずの作家の名を口にしたとき、何故だか声がうまく出せなかった。

 アルコールと温かい料理のにおいでむせ返りそうな騒々しい店の中で、虎丸はタカオ邸の日々が過去になってしまったような気がして、一瞬寂しさが湧いた。


「お前も知っているだろうが、以前の俺は小説なんか一冊も読まなかった。低俗だからと父親に禁止されていたし、勉強に手一杯で暇もなかった。だから知らなかったんだ、その人が世間を賑わせている若き天才作家だということを。それでも、ほんの少し話をしただけなのに強烈な印象が残った」


 酒の満たされた猪口を手に取って、虎丸は試しにほんの少しだけ口に含む。拓海はすでに一杯を空にして、話を続けていた。


「なんて奇矯エキセントリックな人だろうと思ったよ。今の穏やかさからは想像もできないだろうが」

「今もまあまあ不思議ちゃんやけどー」

「そんなに生易しいものじゃない。日本人形のように端正な風貌をしているのに、いつでもぷつっと切れてしまいそうなほど直情的で、不安定な感じがして……見ているだけでひやひやさせられる人だった。俺が目撃したのは解剖用の人体を勝手にバラしたところくらいだが、もっとひどい学則違反も度々しでかしていたようだ」

「な、なにしとるん、あの人……。そういや、大学は中退やて言うてたなー」


 大学時代の話を聞いたのは、たしか高尾山に登った日だ。

 退学になったとこぼしていたが──かの有名な激情の天才と同一人物だと知ったあとなら、すんなり納得できる事実である。


「どうしてだか話してみたくなって、ひとりになったところを見計らって声をかけたんだ」

「危ない人に話しかけたらあかんのやで?」

「そうだな、当時の俺なら危険人物に興味を持つこと自体めずらしい。たしか『あなたは本当に医者になりたいのか』と尋ねた」

「めっちゃ勇気あるわぁ……」

「あっさりと否定された。人が死ぬのが不思議で、いったいどんな仕組みで死にゆくのか、また生に留まるのか、自分の目で確認してみたかっただけだと言っていたよ。この人は自分の感情を持て余しているんだと……年下の俺でもわかるくらい、苦しそうだったな。それから半年も経たないうちに、入水自殺の報道があった」


 ふたりで手の中の酒を一気に飲み干し、数十秒の間、黙りこくった。



「虎丸。お前は、東京を去る前──あの人と何を話した?」



 拓海の問いかけが頭を巡る。

 虎丸はじっと、手元で空になった盃を見下ろしていた。

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