三 人ならざるものの領域

 時計台、交差点、美しく舗装された歩道、ルネサンス様式のデパートメント・ストア。

 大きなつばの帽子を被った婦人に、高級なスーツを着た紳士たち。華やかな洋装の人々が通りを行き交っている。


 モノクロームの写真でしか見たことのなかった銀座が鮮やかに色づいて、虎丸の目の前に広がっていた。


「このグラタンって料理、オレ初めて食べました。はー、憧れの銀座でランチ……」


 虎丸、八雲、十里じゅうりの三人がやって来たのは、名だたる小説家や画家などの文化人が集まるサロンとして有名な銀座のカフヱだ。

 料理、酒、珈琲と本場の西洋メニューが揃っている。


「谷崎潤一郎と永井荷風はここの常連なんだってさ。あと、森鴎外が子連れで来てたって話も聞いたことあるなぁ。僕らみたいな無名の若手じゃ、あるじの名前がないととても入れない店だよね~。雰囲気的にも値段的にも」


 慣れた手つきで料理を食べながら十里じゅうりが説明する。そこら中の席でインテリジェンスな文学的会話が繰り広げられているような気がして、虎丸は大興奮である。


「あつい、うまい! このマカロニグラタン、いくらすんのやろ……」

「二円くらいかな」

「高っ!! 昼飯で二円!」


 八雲は食事ではなく、外国銘柄の刻み煙草を注文して持参の煙管キセルで吸っていた。

 結局、この作家が何かを食べている姿を見たのは、コウが朝食を作ってきたときの一度きりだ。自室以外じゃわりとヘビィに煙草吸うし、不健康やなぁと虎丸は食べながら上目遣いで見る。

 そういや、とふと思い出して十里に尋ねた。


「今日紅ちゃんに会いました? 茜ちゃんは学校行くとこ見送ったけど」

「いや、朝からいなかったよ。多分、早くに鉄道でアルバイトに行ったんじゃないかな。走った可能性もあるね〜」

「アルバイト!? まさか……最近ちらほらできとるっていう女給が密着して接待してくれるカフヱとか、そういうやつじゃ……」

「紅は童顔だし、罵倒するから女給は無理だよ~」


 本人が聞けば怒りそうだが、それもそうやなと虎丸はあっさりと頷く。


「浅草六区あたりの歓楽街であれば、どちらも需要はありそうです」


 紫煙をくゆらせていた八雲が、とんでもないことを淡々とした口調で言った。


「少女に罵られて歓ぶなんて……背徳的ィ! それこそ谷崎潤一郎あたりに書いてもらいたい題材ですねぇ。で、どんな仕事なんです?」

「子供たちにかな書道を教えているのですよ。あとは書を展覧会に出しているので、時折よい値をつけてくれる客もいるとか」

「下卑た会話をしてたんが申し訳ないくらいちゃんとしてました。紅ちゃんめっちゃ達筆ですもんね」

「父親の遺した借金を一人で返済しているようですし、茜が成績優秀だから進学させてやりたいらしいです」

「えええ、えらすぎーるー! なんかボク生きててすんません」

「何故卑屈になるのです」


 虎丸はひとりっ子で、小説家の夢は書く前に諦め、高等学校も途中で辞めて、最終的にはずっと反発していた父親のツテを使って今の出版社に入ったのだ。

 なんと中途半端な人生であろうか。

 一つしか歳の変わらない女の子がけなげに頑張っているのを聞いて、ちょっと自分が情けなくなってしまったのである。


 虎丸の身の上話、というほどでもないぼやきを聞いて、十里が気楽に慰めた。


「まあまあ。運よくパトロンがいるだけで、僕らの立場もいいもんじゃないよ。小説家なんて売れても結局は無頼ぶらい者扱いなんだしさ。いつ支援がなくなるかわかんないし、世間体悪いし~」

「そっか、たしかにそうですよね。オレ定職あってめっちゃえらいな」


 ポンッと握った拳でもう片方の手のひらを叩いて、虎丸はあっさりと立ち直る。


「オゥララ、慰めて損した~。八雲部長、あと部員で戻ってきてないのは、ハンサムくんだけかな。彼が講義をさぼるわけないと思うんだけれど、近頃大学でも見かけないんだ」

「あとひとり? 五人おるんですよね? 八雲さん、紅ちゃん、ジュリィさん、あとふたりちゃいます?」

「几帳面な性格の彼が誰にも行き先を告げず、もう十日以上ですか。そろそろ心配したほうがよい気がしてきましたね」

「ねー、あとふたりちゃうんですかぁ??」

「そうだね~。僕は科が違うから鉢合わせない日も多いし、男だからつい放置しちゃったね~」

「ね~うえうえうえうえい」

「虎丸君、無視されたからといって乱心しないでください」

「無視しとる自覚あるんやったらせんといてくださいよ!?」


 三人の会話が混ざってめちゃくちゃである。

 しかたない、という表情で八雲がようやく虎丸にも説明をする。


「もう一名はすでに館内にいます。使用人が動き出した日に戻っているはずですが、なにしろ滅多なことでは地下室から出てこないのです」

「数日外出してただけでも奇跡だよ~。多分、人形の部品とか素材の買い出しだろうけどね」


 ということは、八雲の部屋にある絡繰からくり人形の持主だろうか。

 ちょくちょく耳にするものの、虎丸がまだ会ったことのないタカオ邸の関連人物は少なくともあと四人いるようだ。


「地下室の絡繰りマニヤ、歌舞伎役者真っ青の超ハンサム、八雲さんが通いつめるほどの美人で遊女の藍さん、あるじって呼ばれとる大金持ちのパトロン。せっかくやし大阪戻る前に全員会ってみたいなぁ。とくに藍さん……」


 藍さんの夢想に入った虎丸の向かいで、十里がこそっと八雲に尋ねた。


「ねぇ、まって。誰が通いつめる何の誰だって? でも面白いから訂正しないでおこうっと」

「期待が大きくなる分、落差で人間がどのような顔をするのか大変興味深いですね」


 火皿に残った灰を捨て、八雲が本題に入る。


「して、十里君はどのような物の怪と面倒事を起こしたのですか」

「それがさ、なんと鬼だよ! すごくない? 物の怪の中では最高峰のレア度と強さだよ!」

「鬼、ですか。気が進みませんね」

「え~なんで? 大正まで残ってる鬼なんて千年ものばっかりなのに」

「体毛が薄いので。顔立ちもだいたい仁王像でしょう」

「愛玩系はアンナで我慢してよね~」


 千年ものって、梅干しか葡萄酒を寝かせてたみたいな言い方やな。と、虎丸はコクがあって奥深い気がしないでもないが、苦すぎて味がわからないブラック珈琲を飲み干した。


「うーん、コクがあって奥深かったですわぁ。ところで、タカオ邸に来てからごく普通に物の怪とか死霊って言葉が飛び交っててとりあえず受け入れてましたけど、いったいなんなんでしょ?」


 文字の力まではなんとか理解できても、生まれてこのかた大阪では遭遇したことのない怪奇現象が次々現れてはお手上げである。


「死霊は遺された感情の残骸です。そして物の怪は人や獣に感情が交わったときに生まれ、主体的な意思を持っています。自分たちで形容化した場合は単に文字と呼ぶことが多いです。この程度の分類で、名称にたいした意味はありません。発生源はすべて同じ、要は『文字』を介して視認できるようになった『感情』なのですから」


 と、八雲は煙管を傾けながら解説する。


「ふーん……。ほんなら、文字がないくらい大昔は、お化けも物の怪もおらへんかったんですか?」

「文字のない時代というと、原文字が出現したといわれる紀元前七千年より前ですね。何かを得れば何かを失くすもの。進化と退化においては殊にそうでしょう。文字が生み出されたために、人は文字という媒介なしに感情を目で見ることができなくなったのですよ」

「昔の人は、みんな不思議なものが見えてたってこと?」

「確認のしようもありませんが、時代が新しくなるにつれて死霊や物の怪そのもの、そして彼らを視認できる人間がいなくなったのは事実です。私たち小説家がこの力を手に入れられたのは、感情と文字を扱うからこそでしょうね」


 話の規模が大きくなってきたので、虎丸はお化けっぽいのはお化け、物の怪っぽいのは物の怪、とだけ覚えて、わかったふりをして頷いておく。

 片方だけ頬杖をついた十里が、輝くような笑顔で虎丸に言った。


「食後の珈琲も済んだし、そろそろ行こうか。虎丸くん、美味しかったかい?」

「めっちゃうまかったです!」

「いっぱい食べたね~☆」

「はい!」

「いっぱい食べたよね?」

「は、はい」

「じゃあこれからどんなことが起こってもさ、張りきって頑張ろうね!」

「そういう、前振りいらんですから!」


 カフヱを出たあと、三人は賑やかな銀座の通りを外れて、静かな路地に向かった。


「八丁堀方面へ少し歩いたところに、殺人事件が起こったって有名な廃屋敷があるんだ。建物自体は百年くらい前のものなんだけれど、死霊や物の怪はいわくつきの場所を好むからね。ちなみに僕たちの住んでる八王子は、東京でも屈指の心霊スポットなんだよ~」

「ぐええ、いらんこと聞いてもうた。ていうか、何をしたら鬼とトラブルになるんです?」

「だいたいの物の怪は、自分の領域すみかに踏み込まれたら怒るからさ。カフヱでナンパした女の子を数人引き連れて、その屋敷で肝試しやろうとしたら憑りつかれちゃった。夜な夜な夢に出てくるんだよ~」

「……うう……そんな阿呆な理由の後始末やらなあかんなんて、帰りたい……」

「マカロニグラタン」

「ぐっ」

「さっき主のツケで払っていまし──」

「ほら八雲部長、虎丸くん! あそこに見える家だよ~」


 十里が指差したのは、住宅地域の真ん中にふっと存在する狭い竹林と、奥に佇む古い民家だった。

 景観だけならそれほど異様な感じはない。捨てられた家というのはどこの街でもある。十里の説明によると近辺では有名な幽霊屋敷らしく、人が近寄らないので竹の茂った庭も壊れかけた家屋も荒らされてはいない。


 ただ暗く、重い空気が沈んでいる。

 かぶと造りの中二階建てでこの敷地の広さならば、かなり裕福な商家だったのではないかと虎丸は素早く推測する。財の計算だけは速いのである。


 八雲と十里はためらうことも動じることもなく木の戸板を外し、民家の中へと入っていった。虎丸は最後尾でこわごわと足を踏み入れる。


「死霊が多いですね。まるで吹き溜まりのようです」

「じめじめしてるからね~。銀座周辺はただでさえ明るくてキラキラしてるし、こういう場所に集まってきちゃうよね」


 二人が話しているそのへんに漂っているらしい死霊は、虎丸の目には見えない。

 が、廃屋はさすがに不気味で首筋のあたりに冷たいものが走る。


 十里が上だというので、三人は狭く急な階段で二階へとあがる。

 古い造りの民家は鴨居が低い。背丈が平均くらいの八雲でも頭を打ちつけそうなのだから、少し高い虎丸、さらに高い十里は髪の毛が埃だらけだ。


「これは──家に帰ったらまず風呂ですね」

「八雲さん、いちばん無事ですやん。先にランチしといてよかったぁ。こんな埃だらけじゃ銀座なんて歩かれへん。男前がだい、な、し……」


 家財は残っておらず、そこら中に埃と蜘蛛の巣がもつれ合っている。

 障子がなく木枠だけとなった窓の下に、人間ほどの大きさをした白いもやがうずくまっていた。


「うわあああ、なんかおる! 視えるゥ!」

「普通の人にも薄っすらと見えるくらい強力なんだよね~。名前は噂話で耳に入ってるからさ、虎丸くんにもちゃんと視認できるように媒介となる文字を書こうか」


 十里が胸元のポケットから取り出したのは、金色のペン先にワテルマンと刻印がされた仏蘭西製の萬年筆まんねんひつだ。



 白鬼子しろきし



 虚空に描かれた文字が揺らぎ、白いもやが徐々に形を作っていく。


「あ、思ったより大きくも怖くもなくて、綺麗めな感じや……」


 額に一つ角が生えた鬼の姿をしているが、それ以外は普通の人間と変わらない。おかっぱの白髪に白装束、目の部分に包帯を巻いた、おそらく若い男──というより、まだ少年である。

 予想より恐ろしくはなかったので虎丸は安心して胸を撫で下ろす。しかし、肌を突き刺す感情の波は何度体験しても慣れそうもない。


 八雲の『狂人ダイアリイ』と『高尾姫』のときが憎悪、紅の『あかねさす』が恋慕。

 目の前にうずくまる白い鬼を形作っている感情は、そのどれとも違った。



 ──この気持ちは、心が締めつけられるでもなく、激しく燃えるでもなく。

 もっと静かで、もっと空虚で、もっとぽっかり穴が開いたみたいな。


 たぶんやけど、悲しい……?



 膝を抱え、窓の外を見上げるようにして覗いている鬼はじっとして動かない。

 冷たいと感じるほど冷静な視線で『白鬼子』を眺めていた八雲が、十里に向かって言った。


「この鬼、一部欠落していますね。もう一体いるでしょう・・・・・・・・・・?」

「あったり~。悪い子だから隠れてるんだよね。無理やり出そうか」


 そう言って十里は再びくうに萬年筆を走らせ、文字を書いた。



 黒鬼女くろきじょ



 その瞬間、凍った雪がすべり込んだのではないかと思われるほどの悪寒が、虎丸の背中をつたった。

 嫌な予感しかしないが、確認しないのもそれはそれで恐ろしい。

 しかも何故か、背後ではなく上から見られているような気がするのである。

 威圧的な視線を感じる天井を、そっと見上げる。



「う、ぎゃあああああああああ」



 真っ黒な髪、水に灰を混ぜたような肌色、せりでた目玉と二本の角、形相はまさに般若のごとし。

 大きすぎて体が入らないのだ。腰が天井近くまであり、上半身を折って無理やり二階の狭い部屋に収まっている。なので、上から視線を感じたのである。


 黒地に朱色の線が入った着物をまとう黒い鬼は、あきらかな敵意を持って、地鳴りのような怒声を吐き出した。

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