四 ただ一つの最悪な罪悪

 人の背丈の三倍はある巨漢の黒鬼『黒鬼女くろきじょ』は、腰布からなたを取りだした。

 だが、体が大きすぎるせいで室内では思うように身動きがとれていない。


「じゃあ、今回は僕が武器を『形容化』するよ。十字軍みたいな両刃剣じゃなくて、日本刀がいいんだよね」


 十里じゅうりはそう言って虚空に、


 刀


 の文字を書いた。


「しっ、シンプルやなぁ」

「日本刀の構造ってよくわからなくて記憶がわやわやだから、下手に細かく書くよりも雰囲気で出すのさ! あと適当に肉体強化の文字もつけとくね~」


 できあがった形は、それなりだ。

 刀身は美しく、鋭利に輝いている。八雲が書いたものよりはずっと上出来だった。

 しかし、ハーフの青年は日本刀に偏ったイメージを持ち合わせていたらしい。通常の鞘ではなく大きな番傘の持ち手に刃が仕込まれた、いわゆる仕込み刀なのだった。


「よけいな遊び心を……! 狭い場所やのに使いにくいじゃないですか!」

「芝居で観てから、ずっと気に入ってたんだ。ジャポネイズ・粋だよね~」

「使い魔にするとか言うてましたけど、斬っていいんです?」

「その刀にはとどめを刺せる文字を付与していないから、思いきりやって大丈夫だよ~。補助は僕に任せて。八雲部長の書き物が終わるまで、時間を稼いでくれるかな」


 八雲は白鬼の隣で瞳を閉じて、虚空に長い文章を書いていた。

 いったい何をしているんだろうと不思議に思っていると、見透かした十里が虎丸に言った。


「鬼の記憶を読み解いているんだよ。ああやって物語に書き起こすことで、野生の物の怪を使い魔として使役することができる。最終的に原稿用紙に封じ込めば契約完了さ。八雲部長だけの特別な固有能力だね」


 虎丸が武器を構えたせいか、黒鬼は絡まった長い髪を振り乱し、勢いを増して向かってきた。

 あまり避けてばかりでは八雲と十里のいるところまで危害が及ぶ。左手に持った番傘の本体で斜め上から降りかかる鉈を受け止めた。


「おんもっ!! さすが鬼ィ、馬鹿力!!」


 暗器だけあって、傘の芯部分は鉄製のようだ。

 止めたものの片手では耐えられなくなり、両手で押さえてなんとか踏みとどまっている。


「文字の付与で腕力を強化したとはいえ、鬼の攻撃を左手で受け止めるなんて。きみもじゅうぶんヒグマ並だけれどねぇ……」


 日常ではあまり動じた態度を見せることのない十里が、驚きと困惑の声を出した。


 黒鬼は止められた鉈を数秒の間じっと眺めた後、空いていた左手を自身の腰の後ろにやった。ずずず、と不気味な音が響き、もう一本まったく同じ得物を取り出す。

 一本を受け止めるだけで両手が塞がっていた虎丸は仰天である。


「ひ、ひええええ!! 絶対さっきまでもう一本持ってなかったやろ!! いくらでも出せるんかいな、ずるい!! ぎゃー死んだ!!」 


 今度は右方向から鉈が飛んでくる。



 ──あ、死んだわ。



 この感覚も、東京に来てからというものすでに二回目である。



 ──まだ十日しか経ってへんのに、寿命がいくらあっても足りんわぁ。命あっての物種やぞぉ。タカオ邸に帰ったらきっちり新世界派にクレェム入れよ、帰れるか知らんけど。



 死にそうになると、瞬間的に思考が回るものらしい。だが、幸い今度も死にそうになっただけだった。

 攻撃が届く直前、黒鬼がぴたりと動きを止めたのだ。


 突然静止した鬼を、虎丸は不思議そうに見上げた。よく見ると、部屋の中が煙で充満している。煙は上へとのぼるため、天井に沿うようにかがんでいる黒鬼は視界が覆われて止まったようだ。十里が書いた文字の効果である。


「ジュリィさんナイス! 煙幕ですか!?」

「うん、煙幕っていうか……いわしを焼いた煙だね」

「イワシ!? めっちゃ香ばしくて美味そうなにおいすると思った!」

「鬼は鰯が苦手なんでしょ? だから七輪と鰯を形容化してみたよ〜」


 うちわでパタパタと七輪を扇いでいる。

 魔除けとして玄関に鰯を飾る風習のことを言っているのだろうが、またしても偏った日本文化の知識だ。虎丸が緊迫して闘っているというのに、絵面が平和すぎて若干気が抜けそうである。


「あぁ、はい……。多分効いてへんし、ただけむたいってだけみたいですけど……結果オゥライってことで!!」

「けほ」


 隅にいる八雲が咳込んでいる。欠点は、自分たちも煙たいのだ。

 黒鬼は目玉がせり出ているので、目潰しになっているようだ。虎丸の言うとおり結果的に成功ではある、が。


「……ちょっと、まずいな」


 誰にも聞こえないくらいの声で、十里が呟く。

 虎丸が武術に通じた相当の実力者であることに疑いはない。文字の付与がない同条件で試合をすれば、力と体格差の分、紅よりも強いだろう。

 『操觚者そうこしゃ』の相棒たる『闘者とうしゃ』には申し分ない素質だ。


 しかし、相手は人間ではなく鬼だ。しかも予想以上に強力だった。

 十里の頭に少しの後悔がよぎり始める。まだ闘いは始まったばかりだが、狭い場所で動きを制限されているのにこの強さだ。

 まだ片割れの白鬼もいる。今はじっとしているがどう出てくるかわからない。


「人が触れてはいけない境界を超えた物の怪だったかな。まぁ僕らのやっていることを考えれば今更な気もするけれど。倒すのは無理だとして、部長が執筆を終えるまで時間を稼げるいい策は……あ、まずい!」


 十里が対策を考えている間に、黒鬼は視界の悪さに苛立って暴れだした。


 屋敷全体が揺れ、壁と床が破壊されていく。

 足下の床板が完全に抜けて、三人は同時に一階へと落とされた。



 ***



「いたた。八雲部長、無事~?」


 十里はまず先に、運動能力ゼロの八雲に声をかける。

 天井が低い屋敷なので落下した高さはそれほどでもない。近くで割れた床板の下敷きになっている姿を発見して、引っ張り出した。


「怪我してないかい? 小説、途切れちゃったかな」

「どちらも大丈夫です。虎丸君は──」

「あ、ちゃんと着地してる。さすが~……」


 虎丸は二階からそのまま、部屋の真ん中あたりにいた。片膝を床についているが、仕込み刀を手に握ってきっちり受け身を取っている。

 真剣な眼差しで、天を睨みつけていた。


 その目線の先には、床が抜けたために、ようやく真っ直ぐ立ち上がった黒鬼がいる。片腕を持ち上げて、虎丸に向けて鉈を振り下ろそうとしていた。

 さっきまでの低い天井とは、速さも込められる力も違う。あの高さから力任せに振り下ろされては今度こそ受けきれない。



「虎丸く──」



 鉄が空を切る音がして、虎丸は思わず瞼を閉じた。

 だが、想像していたような衝撃は届かない。

 数秒の後、そっと目を開ける。


 黒鬼が暴れたせいで屋敷の壁は何箇所も崩れていた。そこから、ほのかに日光が射し込んでいる。

 膝をついた体勢で固まっていた虎丸の前に、何者かが立っている。


 それはうずくまって座っていたはずの白い鬼だ。日の光を受けて、ぼんやりと薄く輝いていた。


 白鬼は閉じたおうぎをそっと落ちてくる刃に添えている。

 たったそれだけの優雅な動きで、巨大な鉈を止めていた。


「『白鬼子しろきし』……!? え、助けてくれたん?」


 白い鬼は少しだけ振り返って虎丸を見下ろすが、目に繃帯ほうたいのような布を巻いているため表情は窺い知れない。唇から細い牙が覗いているのが見えた。


 大振りの扇を音もなく開き、あおぐ。

 風を斬るように鋭い仕込みの刃が黒鬼女の皮膚を裂いた。


 黒鬼女は地に響くような雄たけびを上げ、再び姿を消した。倒したわけではなく一時的に身を隠したようだ。



「た、助かったわ~、ありがとぉ。白鬼さんと黒鬼さんは、もしかして仲悪いん?」



 白鬼子は答えない。言葉が通じているのかもわからず、虎丸はぽりぽりと頬を掻く。

 虚空に長い文章を書きながら、八雲が言った。


「半分ほど記憶を読み解きましたが、この鬼はさほど古い時代のものではありませんね。江戸時代後期に、この屋敷で生まれた人間です。二階の片隅で隠されて育った──いわゆる鬼子だったようです」

「おにご、って?」

「異形で産まれ落ちたため、出生を隠蔽された子供です。額の角と口元の牙のせいでしょう」

「なるほど……。白と黒は、双子?」

「いいえ。二体の鬼は一人の人間から発生した、もともと同一の存在です。感情が二つに分裂したのですよ」

「ああ、それで……」


 萬年筆を握って考え込んでいたハーフの青年が、納得したようにため息をついた。


「善と悪に、分かれちゃってるのか。いや、人間はそんなに簡単なものじゃないな。正確に表現するなら『善意』と『悪意』、だね」

「はい。閉じ込められ、虐げられて育った彼は、それでも善良な心を貫こうとしました。何を言われても、何をされても良い子でいようとじっと耐え続けた。そうすれば、いつか人の世で受け入れられると信じていたからです。しかし、最終的にたった一度、最悪の罪を犯してしまいます」


 重い声色で、十里は聞き返す。


「……誰かを、殺した? たぶん女の人だよね」

「彼にもっとも近しく、彼をもっとも虐げたのは、彼の母親でした。『黒鬼女』は、彼から見た母親の姿の投影なのでしょう」

「……その後は、もう二度と、人の世に受け入れられることはなかったんだろうね。取り返しのつかない罪を犯した鬼子は内に潜んでいた自らの凶暴性に絶望し、罪悪に耐えきれなくなって自身の中に在る『善意』と『悪意』を切り離した悪鬼となった。まるでジィキル博士とハイド氏のように」

「……」


 虎丸も下唇を噛み、黙ってふたりの話を聞いていた。



 ──親にも、誰にも受け入れられへんかった人生なんて、つらすぎるやろ。せめて今ここで、話でも聞いてやれんかな。


 虎丸は立ち上がり、白鬼のほうへゆっくりと手を伸ばす。



「!! いけない、虎丸くん! 安易に同情しては駄目だ!」



 十里の鋭い声が飛ぶが、すでに遅かった。白鬼子は虎丸に向かってかすかに微笑んだ。



「う、ええええええ!?」



 押し寄せる感情、『絶望』の渦に飲み込まれる。


 十里と八雲の目の前で、虎丸と白鬼子は風に掻き消されるようにいなくなった。

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